87:海魔vs黒色(2)
突如の事態にやや呆然としていた俺だけど、思わずぐねりと歪むことになった。
少しばかり違和感があったのだ。
労働者……おそらくは魚顔の人たちのことだろうけど、彼らを移動させろ。
普通に考えるのであれば、安全な場所へ移動させろということなのだろう。
例えば、この都市の中心の方だとか。
ただ、そうであったら、ブワイフさんはあんな意味深な問いかけをしなかったような。
『ど、どこへ移動なんですか?』
嫌な予感に駆られ、俺は気がつけば問いかけていた。
アリシアさんは淡々として応じた。
「ルルイエの外です。海岸に沿って、できる限り遠くに移動してもらいます」
『遠くに? それはあの、危険なのでは?』
「仕方ありません。原初の火が狙うのは人の形をした何かです。ここにいられては、この都に損害が出ます」
ある種、予想通りの返答ではあった。
アリシアさんは決して魚顔の人たちの安全を考えていたわけでは無いらしい。
この都……ルルイエを模しているらしい大都のことが念頭にあるようだ。
『い、いやいやいや!! それはあの、ちょっと違うんじゃ……!?』
思わず叫ぶと、アリシアさんは無表情に首をかしげた。
「違うとは?」
『優先順位がその、かなりと言うか……建物は作り直せばそれでいいんじゃ?』
何が大事かって、それは歴然のような気がするのだ。
だが、彼女にとってはそうでは無いのか。
俺を冷たい目で見つめてくる。
「……浅はかですね」
そうして、彼女はそう呟いた。
彼女の冷淡な目つきに、静かに……感情の色がにじむ。
「作り直せばいい? 完成の遅れが一体どんな事態を招くとお思いで? 私には、一刻も早くこの地に平穏を取り戻す責務があるのです。いいから黙っておきなさい。貴方には……私を責め立てることの出来る資格は無いはずです」
彼女の瞳にあるのは、きっと憎悪に近い感情だった。
おそらく気のせいでは無かった。
彼女はクトゥルフの信仰者であるはずなのだ。
だが、彼女の念頭には間違いなく俺の態度がある。
クトゥルフに敵意を示さない俺への、強烈な不満、反感がある。
しかし、どうなのだろうか。
この振る舞いは彼女の本意では無かったのか。
アリシアさんは眉をひそめると、俺から目を反らした。
「……失礼。ともかく、大事なのは尊き方です。尊き方にこの地に降臨いただくことです。ブワイフ殿」
呼ばれて、彼は返事はしなかった。
軽く頭を下げ、地上へ続く階段に足を踏み入れる。
足早に下っていく。
『……あの、ブワイフさん?』
その道中、俺は思わず呼びかけていた。
今度は返事があった。
「そうだな。尋ねたいことがあるだろうな」
『は、はい。アリシアさんは本当に……』
クトゥルフの狂信者なのか?
ブワイフさんは答えない。
足音ばかりが重苦しく響き、そして、
「……あの方の考えと、ワシの考えは違うのでな」
彼が口にしたのは、そんな捉えどころの分からない呟きだった。
ブワイフさんは淡々と階下へ歩みを進める。
言葉を続ける。
「貴様はお人好しで間違いは無さそうなのだ。つまびらかにした方が成果は得られるのではないかとワシは思う。ただ、それはあの方の本意では無い。あの方との付き合いは長くてな。裏切るような真似は出来ん」
分かるように説明をする気は無い。
そう受け取らざるを得ない独白だった。
ただ、なんともなしに伝わってくるところはあった。なんとなく察しがつくところはあった。
不意に、彼は俺を見下ろしてくる。
「もう少しばかり付き合ってもらうぞ」
俺は無意識に『え?』と意思を伝えていた。
ブワイフさんは今度も淡々として応じてくる。
「厄介な炎の神だが、今回ばかりは褒めてやらねばならぬだろうな。アヤツのおかげで、ここでお前が知るべき最期を見せてやることが出来るだろう」
正直、意味の分からない発言だった。
ただ、嫌な予感のようなものを俺は不思議と覚えざるを得なかった。
塔を降り終わると、ブワイフさんは来た道を辿っていく。
つまり港の方向へと向かっていく。
最初は静かだった。
だが、歩みが進むにつれて、聴覚に訴えかけてくるものが変わってくる。
何かが砕け、ひしゃげたような轟音。
何かが泡立ち飛び散ったような、妙に湿った音も伝わってくる。
視界が開けた。
『あっ……』
俺は唖然と呟いていた。
そこにあったのは、想像したくは無くとも想像してしまっていた光景だ。
戦場の
建材の引き上げ場だったそこは、すでに面影は無い。
白亜の石材は大小の瓦礫と化し、作業船の多くは砕け水面に沈みつつある。
そして、散らばっていた。
クトゥルフ由来の怪物であろう、灰色の肉塊が散らばっている。
その合間には……人の形をしたものがある。
人の形をしていただろうものもある。
散らばっている。
血潮だろうか。
濃い緑をした液体が、土の地面から石畳までを染めている。
「すでに都からは離れていたようだな。
ブワイフさんは何でも無いように呟いた。
いずこかへと歩みを続ける。
そんな彼の無表情を、俺は思わずじっと見つめる。
『……な、なんとも思っていないんですか?』
問いかけても、彼に変化は無い。
表情も足取りも淡々としている。
だが、問いかけへの反応自体はあった。
「やはり貴様は強力な神格なのだろうな」
意味の分からない反応ではあった。
『はい?』と問い返すと、彼は俺を見ることも無く応じてくる。
「まぁ、運が良かっただけかもしれんがな。貴様が
『それは、まぁ……』
「ワシは違うぞ」
俺はブワイフさんを見上げる。
その、
『……ブワイフさん?』
「イチイチ取り乱してはおれんのだ。よく見ておけ。これは異常では無い。親も友も子も孫も。神々の戯れの中で、ただただ消えゆくのみだ」
あらためて周囲を見渡さざるを得なかった。
彼はこれが日常であり現実だと言いたいらしい。
なんとも無しにアリシアさん顔が脳裏に浮かぶ。
お前には私を責め立てる資格は無い。
そう口にした時の、彼女の凄絶な目つきが思い出される。
『……アリシアさんはクトゥルフを選ばざるを得なかったのでしょうか?』
「さてな」
『人間はクトゥルフによって救われるんですか?』
「かもな。クトゥルフが残りの邪神どもを
俺は黙り込み、考えることになる。
一部の者たち以外はそうなのだろう。
きっと望んでクトゥルフを選び取ったわけでは無い。
ブワイフさんも魚顔の人たちも、それはアリシアさんであっても。
ただ、一方で思うのだ。
だからと言って、俺が無力であることには何も変わらない。
クトゥルフが強大な神であることも変わらない。
(やっぱり違うんじゃ……?)
気のせいではないかと思えるのだった。
ブワイフさんもアリシアさんも、俺に何かを求めている感はあった。
俺の肩には重すぎる何かだ。
ただ、俺は非力だ。
何かしらを成し遂げられる存在では無いのだ。
困るのだ。
そんなことを俺なんかに求められてもどうしようも無い。
きっとの気のせいだった。
こんなどうしようもない俺に何かしらの期待が向けられるはずが無い。
それどころか、どうだ?
明言しているブワイフさんはともかくとして、アリシアさんはどうだ?
本当にクトゥルフに不満なんて抱いているのか?
時折見せる恍惚の表情は、クトゥルフに不満を抱いている者の表情なのか?
魚顔の人たちもそうだ。
ブワイフさんは不満を抱いていないはずが無いといった口ぶりだったが、彼ら自身はそんなことを告げては来なかったのだ。
意味深な態度はあったが、クトゥルフへの不満なんて口にしなかった。
俺に救いを求めてくることなんて無かった。
「さて、これが最後だ」
俺はハッと物思いから覚めることになった。
気がつけば、周囲の状況は一変していた。
都の近くの枯れ木の林であるが、そこは戦場だった。
赤く変貌した灰色や黒カニが間近にいる。
炎ゴリラも数えられるほどの数だが存在する。
そして、それらに対抗する者たちがいた。
魚顔の人々だ。
数は少なくとも100はいるだろうか。
彼らは俺の知る表情をしてはいなかった。
粗末な槍や剣を手にして、必死で抵抗している。
怪物の群れを必死に押し留めている。
「何かを守ろうとしている……そうは見えんか?」
そうブワイフさんが告げてきたが、確かにそうだった。
彼らの振る舞いは、何かを守るために必死になっているようには見える。
だが、今はそんなことを気にしている場合では無いに違いなかった。
『ぶ、ブワイフさんっ!!』
優先すべきは彼らを守ることに違いないのだ。
彼はもちろんと頷いた。
そして、何故か俺を掴んできた。
次いで、浮遊感。
投げ捨てられたのだと、俺は地面に落ちた衝撃で理解することになる。
『ぶ、ブワイフさん?』
これは一体どういうつもりなのか?
俺が見上げる中で、彼は魚顔の人々をアゴで示す。
「見せてもらって来い。用心深いあの連中だが、貴様が貴様らしく振る舞えば自然とアレを見にする機会は得られるだろう」
『は、はい? アレ?』
「あぁ。その後は、どこへなりとも好きに消えろ。じゃあな」
そうして、彼は振り返らなかった。
戦場の最中へと静かに消えていった。
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