82:この世界のアレコレ

 いかに異形とは言え、食べなければ生きてはいけないようだった。


 太陽が高くなった頃、港の作業場では食事休憩が始まった。

 とは言え、その光景は俺の知る食事風景とは大きく違うものだ。


『……これ、食べられるんですか?』


 俺は石段に座るブワイフさんの腕の中にいた。

 んで、それを横目にして目を疑っていた。

 ブワイフさんは片手であるモノを握っているのだが、それはまったく食べ物に見えなかったのだ。

 魚顔の1人が彼のためにと運んできたものだ。

 黒くテラテラと光って、ブヨブヨと妙な弾力がある何か。

 彼にためらいは無い。

 周囲の魚顔たちと同様に口に運ぶ。

 咀嚼そしゃくする。

 ぐちゃぬちゃと小気味良いの真逆に位置するような音が聞こえてくる。

 そうして一口を終えると、彼は無表情にその黒光りする何かを俺に突きつけてきた。


「どうだ? 食べてみるか?」


 俺はもちろんブルブルと体を左右に震わせる。

 食事という機能が無いからだけじゃ無い。

 仮に人の体であったとしても、ちょっとうん。

 口にする勇気は1ミリも湧かないよなぁ。


 しかし、断ったことで彼を不快にさせてしまったのではないか?

 保身的な意味で心配になったが、幸い杞憂きゆうらしい。

 ブワイフさんは特に感情の色も無く頷きを見せた。


「そうだな、それが良かろう。まったく、クトゥルフめ。神を気取るのであれば、もう少しマシなモノを生み出せば良いものを」


 その淡々とした恨み節に、俺は先ほどの一幕を思い出していた。

 クトゥルフなる邪悪。

 この人は信奉しているはずの神を確かにそう罵ったのだ。


『……嫌っているんですか?』


 思わず尋ねると、ブワイフさんは「ふん」と大きく鼻を鳴らした。


「好いているように見えたか? あんなもの、根底にはあるのは支配欲か名誉欲かの俗物だぞ。人もただただ都合の良い道具としか理解してはいない。どこに好きになれる要素がある?」

 

 俺は咄嗟に周囲をうかがう。

 ここはそのクトゥルフさんを信仰する人たちの巣窟であり、周囲には食事中の魚顔たちが少なからず存在する。


『だ、大丈夫ですか? もう少し声を控えた方が……』


 お人好し極まりないような気がしたが、つい心配してしまったのだった。

 いらぬ心配だったらしい。

 彼は変わらず平然と応じてくる。


「必要は無い。本物の信仰者どもは、今は帰還されたアリシア様にべったりのはずだからな。ここには同類しかおらん」


 俺は、アリシアさんを出迎えた触手ヅラたちについて思い出す。

 ブワイフさん曰く、アレらは本物らしい。

 一方で、この人は偽物ということになるのか。

 いや、周囲の彼ら──元人間であるはずの魚顔さんたちもそうだということか。


 正直、俺は少なからず混乱していた。

 この場の共通認識として、クトゥルフとやらはロクな存在では無いらしい。邪神であるらしい。

 それなのに、


『望んで信者に……ですか?』


 ブワイフさんは先ほどそう俺に告げてきたのだ。

 引き続き、説明は望めそうだった。

 おそらくは望んだ内の1人であるだろう彼は、「あぁ」と納得の響きを漏らす。


「何を言い出したかと思えば、先ほどの話の続きか? そうだ。ワシを含めた皆は、望んで現状にある。邪神の召使いの立場に甘んじておる」


『あの、何故です? 何故、邪神と罵るような存在にわざわざ……?』


 俺の疑問の声に、ブワイフさんは呆れたように目を細めた。


「まったく何も分かっておらぬのだな。いや、考えが足りぬのか? 世界がいかに脅威に溢れているか、知らぬはずがあるまい」


 俺は『あっ』と思わず漏らすことになった。

 さすがの俺でも彼の言いたいことを理解することは難しく無かった。


『黒っぽい妙な化け物どもがいて、緑なんかも枯れ果てていて……』


「分かっているではないか。そこに道化どもの暗躍に炎の神の暴虐もある。危機、危険にはまったく事欠かんな」


『だからクトゥルフさんとやらを……ですか』


 信仰するしかなかったとなるだろう。

 ブワイフさんは「ハッ」と忌まわしげに吐き捨てる。


「そうだ。他にどんな道がある? 日々の糧は無く、身を守る術も無い。生きるためには他にはあるまい? 人の身を捨てようとも、生きながらえようと思えばな」


 俺は彼の握る得体の知れない黒い塊を見つめる。

 決してそうは見えないが食料。

 どこまでも灰色に染まったこの世界では望んでも得られない代物。


 アリシアさんは妙な化け物を操っていた。

 それが強力であることは俺は身を持って味わっている。 

 アレならばきっと、肉塊を始めとする怪物や、クトゥグアのような怪異を退けることも出来るのだろう。


 俺は周囲を見渡す。

 黒い塊をボソボソと口に運び続ける魚顔の彼らを見据える。

 彼らの選択は納得出来た。

 死を選ばないのであればそれしかないからだ。

 ただ、ブワイフさんの言う通り、望んでの選択では無かったに違いない。

 俺のいた集落の人間さんたちと比べれば、その辺りは歴然だった。

 魚顔の彼らには何も無かった。

 笑みや喜びの気配は一片も感じられない。

 

『……こんな人たちもいるんだ』


 間違いなく俺の知らなかった現実だ。

 でも、これが全てじゃ無いっぽい?

 ブワイフさんは無表情に肩をすくめる。


「いるんだどころでは無いがな。ワシが把握しているだけでも、このような造営ぞうえい地は両手の指の数では足りんほどにある」


『へ? じゅ、10以上っ!? じゃあ、こんな人たちも……』


「そういうことだ。で、どうだ?」


 ほとんど頭が真っ白になっているところへの、この妙な問いかけである。

 俺はどうしようもなく問い返すことになる。


『はい? どうだ?』


「貴様が真に善良であるならば、どうだ? 手を差し伸べたくなったのではないか? 邪教のともがらどもを討ち滅ぼしたくなったのではないか?」


 俺は目を丸くする的な心地だった。

 突然の妙な質問だったが、どうだ? なんとも既視感があるような?


(アリシアさんだったよな?)


 彼女もまた俺に同じ質問をしてきたのだ。

 その時の俺は意図が分からずにただただ混乱したっけか。

 ともあれ、今回はさすがに別だった。

 邪神を憎悪する彼の質問であり、要請に近い意味に違いなかった。

 ただ、

 

『い、いやいや、俺なんかがそんな……』


 返答は彼女へのものと変わらなかった。

 ブワイフさんはわずかに首をかしげる。


「何故だ? 卑下した物言いだが、アリシア様がおっしゃられるには力はあるのだろう? そして、お前はこの者たちに十分な同情を示していたように思うがな」


 俺は妙に焦ることになった。

 アリシアさんの時は多分勘違いだけど、今回はきっと違う。

 俺は間違いなく責められている。

 力があるのに何故動かない? と迫られてもいる。

 

 だが、俺に力なんて無いのだ。

 少なくとも、邪神だかに立ち向かえるような力なんて存在しない。

 だから、何も出来なくても仕方はない。

 そうなのだ。仕方がないのだ。

 ただ……気がつけば、魚顔の人たちは食事の手を止めていた。気のせいか、俺を注視しているようだった。

 このまま黙り込むことはあまりに無責任のように思えた。

 よって、


『……た、食べ……』


「食べ?」


『食べ物を用意するぐらいでしたら、何とか……』


 そのぐらいであれば出来るのだが、これが望まれた回答では無いことぐらい俺にも分かった。

 だからこそ、驚きだった。

 魚顔の人たちは、魚の眼をまん丸にして身を乗り出してきたのだ。

 

(せ、正解だった?)


 彼らが求めているのは邪神の打倒よりも食糧である。

 そう思えたのだが、少なくとも彼が望むことでは無かったらしい。

 

「……あの方にも見込み違いはあろうな」


 ブワイフさんの口から漏れたのは、少なくとも称賛の響きでは無かった、

 しかし、どういう意味の呟きなのか?

 俺が疑問の思いで見つめていると、彼は力なく息を吐いた。


「はぁ。貴殿が善良であることはよくよく分かった。それだけであることもな。まぁ、気にするな。ワシも気にはせん」


『は、はぁ』


「食物についても気にするな。我々はもはや人の世の食物を受け入れられる体では無いのだ」


 俺は思わず周囲を見渡す。

 そこでは変わらず魚顔の人々が身を乗り出している。


『そ、そうなのですか?』


 それにしては激烈な周囲の反応のように思えるのだった。

 ただ、ブワイフさんが見せたのは頷きだ。


「そうだ。クトゥルフのくびきから解放さえされれば話は違うだろうが……良い。気にするなよ」 


 正直気にはなったが、そうしろと言われれば思わず頷いてしまうのが俺という生き物だ。

 それきり会話は無くなった。

 魚顔の人たちも俺に注目することは無くなった。

 一方で、俺はと言えばどうしても彼らから目が離せない。

 俺などが決して救うことは出来ない彼ら。

 食事を終えると、再び作業が始まった。

 巨石の港への引き上げが進む。

 声も無く、感情の気配も無く、彼らは作業に励んでいる。

 自分たちにはそうするしかない。そうする他に無い。

 そう言外に物語っているように俺には思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る