第118話 余白
結論から先に書こう。
私の大学受験は失敗に終わった。試験に合格したか否かで言えば。そう、失敗だろう。不合格だったのだ。秋月くんと湖に落ちた翌日に受験した、第一志望の試験だ。
この手記を読んだ皆様に気を遣わせないために断っておくが、不合格と知った時の私は、不思議と落胆しなかった。強がってないし、はじめからダメ元で受験したわけじゃない。それなりに手応えがあったし、「これ、行けるんじゃない?」って試験中にニヤニヤしたりもした。でも落ちたのだ。
それなのに落胆しなかったと言い切れるのは、なぜだと思う?
◇◇◇
「来年また受けようかなって思って」
秋月家近くの、壊れた時計の公園。秋月くんがお父さんの話を聞かせてくれた、あの公園だ。私と秋月くん、八幡ちゃんの三人は、あの夜と同じように、ベンチに串団子状に並んでいる。
「親には頭下げてきた。浪人させてくださいって。『頑張ってね』って、言ってもらえたよ」
合否発表があったのは数時間前。そして今は夕暮れ時。今日はとても暖かかった。日が落ちつつある今も、風はふんわりしていて寒くはない。
「なんかねえ、私さ。今年ダメで良かったかもって思うんだ」
秋月くんに「落ちた」と伝えた瞬間、彼は目を見開いたまま口を開けて黙ってしまった。言葉を探して、ついに見つからなかった人のする顔だった。思わず笑ってしまったくらい、秋月くんには珍しい表情だった。それからこの公園に着いてもまだ、オレンジモヒカンは言葉を見つけられていない。私を気遣っているのは分かるから、ありがたいけれど、もどかしかった。私は今、結構清々しい気分でいるのだから。早くそれを分かってほしい。
「ねえ。今こんなこと言っても、ただ強がってるように聞こえちゃうかも知れないけどさ。私、落ち込んでないんだよ」
「悠里」
「合否発表見る直前までは……そりゃ、ダメだったらどうしようかなって気持ちもあった。せっかくあんなに勉強頑張って、模試の結果もぐんぐん良くなっていったのに。無駄にしたくないって。でもさ、実際不合格って知った瞬間……何ていうのかな。分かっちゃったんだよね」
「……何が?」
「無駄になるものなんて、何もないって」
うん、と私は自分の言葉に自分で頷いた。声にしたことで、確信に変わる。
「『頑張った時間が無駄になったら嫌だ』って思ってたけど、そもそも無駄になる時間なんてないでしょ?」
八幡ちゃんのくるくるの癖毛が、風に揺られてぽよぽよ弾んでいる。
「秋月くんに教えてもらった解き方が理解できる度に、大袈裟じゃなく世界が広がっていく気持ちになった。もっと難しい応用問題も分かるかもしれないって期待感、実際に解けたときの達成感も、ダメだったときの悔しい気持ちも、そういう記憶全部……全部私のもの。今の私を作ってるのは、そんな経験全てだから」
風の香りは春のもの。この世の真理において時間は存在しないのかも知れないが、私達は季節の循環の中にいる。これもまた真理だ。
「次の一年の間に、私はもっと経験できることが増えるでしょ。視野がひろがって、もっと深く考えることができる。行きたい方向への焦点を絞ることもできる……到達したい場所に更に近づけると思うの――――秋月くんと知り合ってからの期間だけでも、私は随分進めたんだよ。だからね、不合格って分かった瞬間、またそれだけの余白がもらえたんだって思ったの。もしかしたらもっと知るべき経験をするために、今回落ちたんじゃないかとすら感じるんだ」
淡い空色の上に、飛行機雲が短い線を残していた。彗星の尾のようだ。
「いいな」
「え?」
オレンジ色のモヒカンが、空の飛行機雲を指すようにピンと立ち上がっている。その下で秋月くんが笑っていた。
「そんな風に考えられるとこ。お前の才能だよ。だから俺は悠里が好きなんだ」
「は⁉」
不意打ちの告白に、声がひっくり返った。八幡ちゃんが「うふふ」と笑う。
「ボクもそんな悠里ちゃんが大好きですよ」
「ああ。俺もただの好きじゃないな。大好きだな。愛してる。ライクじゃなくて、ラブの方」
「ちょっとちょっと! 突然何?」
夕刻を告げる『夕焼け小焼け』のメロディが聞こえてくる。共通テストの緊張感を感じていた年末から、随分日が長くなってきたものだ。まだまだ空は青が占めている。オレンジ色が広がるまで、もう少し時間がかかるだろう。
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