第99話 湖

「はぁ、はぁ」

「やったぁ!」


 秋月くんは肩を上下させていた。呼吸する彼の口は開いていて、汗が滲んだ顔で私を見ていた。


「苦しかった? 噛んでごめんね。大丈夫? どこか怪我は?」


 急いで身体を起こして、秋月くんの顔を覗き込んだ。


「……大丈夫だ。それに、ほら」

「あ!」


 秋月くんは大きく身をよじると、自由になった左右の手を目の前に掲げてみせた。


「なんで?」

「ずっと手首を動かしてたら取れた」

「そんなことってある?」

「……元から少し緩めに巻いてあったんだ」

「そうなの?」


 自分じゃ確認できないが、私の方はガチガチに固められたように、超キツく巻いてあるんだけど。


「俺の方を先に巻いて、残りのテープを全部悠里に使ったんだろ」

「どうして秋月くんはゆるく巻いたんだろう?」

「……知らねえ。ほら、剥がしてやる」


 秋月くんは私の腕のテープから剥がしにかかってくれた。ボートの上に残る、秋月くんの腕を縛っていたテープの残骸を見た。フサ子さんが言っていた通り、テープをこより状にしたものが、漬物石の取っ手に結び付けられていた。


「私達を処刑するって言ってた」

「ああ」

「ここに沈めるつもりなんだよね」

「そうだな」

「あと何分だろう」


 腕が自由になった。うっ血していたのだろうか。指先の感覚は麻痺していた。フサ子さんったら、テープを使い切る必要があったにしても、私の方ももう少し緩めに巻いてくれても良かったのに。


「船底に穴が開くって言ってたな」

「もうあまり時間ないよね」


 私の両足のテープに手をかけている秋月くんの横を、数個の光る小石が転がっていく。私たち二人から排出された時間球だった。


「ここ、湖なんだよね?」

「ああ。奥多摩湖だ。お前が眠らされてる間、フサ子が奥多摩のダム湖だと言っていたから」


 小河内おごうちダムか。『東京の水瓶』とも呼ばれる、村一つを沈めて造った巨大な人工湖。なるほど『時が止まった湖底』とは、まさにぴったりな表現だ。その真中の時限ボートの上に、私達は揺られているというわけだ。


「手で漕げば岸まで行けるかな。そもそもダム湖に、登れるような岸ってあるの……?」

「登れる場所はあると思うが……」


 真夜中だった。辺りは暗闇で、月明かりに照らされた湖面が夜風に靡かれ、ゆらゆらと静かに揺れる様と、山々の輪郭が見えるだけだ。岸までどれくらい離れているのかなど、分からない。


 この小さなボートの底に穴が空いたら、きっと私達はあっという間に水の中に落ちる。手足の拘束から抜け出し、漬物石に引っ張られてすぐさま沈む危険は回避したとはいえ、二月の深夜の湖にこんな薄着で放り込まれたらどうなるのか……楽観的な私と言えど、あまり明るい予測は立てられなかった。

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