第98話 齧って舐める
「フサ子さん……」
彼女が消えたその場所から、暫くの間目を離せなかった。今見聞きしたこと全てが夢だったとしても、私は少しも疑わないだろう。現実だなんて、信じたくない。
「ンーン!」
船底をズリズリと移動する音と、秋月くんが私の名を呼ぶように唸る声。それが私の視線をようやく動かしたのだった。秋月くんはボートの真ん中、私のすぐそばまで移動していた。
「そうだ」
ぼんやり光る小さなものが、私から転がり落ちていくのが見えた。時間球だった。私、柄にもなく焦ってるんだ。
「それ、とにかく剥がしてあげる。苦しいでしょ」
秋月くんの口に貼られた粘着テープを顎で示した。端っこを少しでも捲ることができれば、きっとはがせる。
私はシャクトリムシの動きで、秋月くんの足の間まで接近した。そこで「よいしょ」と何とか膝立ちの体勢になる。
「自分で身体支えられないんだ。悪いけど、ちょっと踏ん張ってて。後ろに倒れないでね?」
「ン⁉……ンンン⁉」
秋月くんに身体を預けるようにもたれかかった。大きな身体が、ビクリと震えた。しかし指示通りに姿勢を保ってくれているようだ。
体温を感じる。秋月くんの温度だ。自分のものではない、誰かの匂い。生身の気配を直に感じる。それは私の中で前向きで上向きなエネルギーへと変換されていった。
「ごめん。気持ち悪いだろうけど、我慢して。指先までテープでぐるぐる巻きだから、口しか動かせなくて」
なんとかテープの貼られた口元まで顔を近づけたくて、私は秋月くんの耳のあたりに顔を埋めて藻掻いた。普段はモヒカンに立てている彼の髪が下に降りている。私の鼻先に触れる毛束は柔らかい。ほのかに石鹸の香りがした。
手足の自由が効かないだけで、姿勢を保つだけでも精一杯だ。身体の角度を少し変えようとすることが、こんなにも難しいだなんて。
「ちょっとだけ首、下におろせる?」
「……」
身長差がもどかしい。私の言う通りに、秋月くんはゆっくりと腰と首を曲げてくれた。
同じ高さの至近距離で、視線がぶつかる。
「待っててね。すぐ剥がすから。噛むかも。いや、これは噛まないと無理だな。ごめんね!」
「ン!」
ガブリ、とはいかないまでも、チミリとは噛んだはずだ。顔に貼られた粘着テープを、私は口だけで剥がそうと試みているのだ。仕方ない。まずは端っこをめくらないと。
「痛い?」
一噛み目で大きな身体がビクリと震えたので、思わず問いかけた。しかし秋月くんは視線を下げたまま、小さく頭を振った。やっぱり痛かったのだろうか。
「ごめん、全然めくれなくて。もうちょっと
皮膚を小さくつねるのって、結構痛いのだ。きっと私のこのチミチミ齧りも痛いだろう。震えるように悶える振動が伝わってくる。その度に申し訳なくなってくるけど、この状況じゃ背に腹は代えられない。
「あ!
端っこ数ミリがめくれがって来た。せっかく出来上がった目繰り上がりを逃したくなくて、齧りついたたまま必死で実況中継する。何を言っているのか、察しの良い秋月くんになら伝わるだろう。あと少しだけ、あと少し!
与えてしまう苦痛を考慮して、めくり上げの範囲を舌で押し広げられないかと試みてみた。すると秋月くんの身体が、大きく震えだした。
「え、
秋月くんもくすぐったがりなのか。私のくすぐりへの耐久性の低さは、ジョージくんによって立証済みだけど、秋月くんも同類なのか。
犬を飼っていない限り顔を舐められることは日常的にはないだろうけど、今は頑張って欲しい。
「もー
寒かったはずなのに、身体はポカポカしている。汗をかいてきた。私は大分範囲を広げたテープのめくれ目がけて噛みついた。上下の前歯の間に確かに挟んだ感覚を覚えて、「ふんぬっ!」と、思い切り顔を引く。
ベリベリと爽快感のある音。反動で私はごろりと仰向けに倒れた。ボートがユラリと一揺れ、大きく搖れた。ちゃぷんちゃぷんと、水が跳ねる音が聞こえた。
夜空が見えた。満月の光が強いけど、そこには美しい星空が広がっている。
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