第97話 要注意地球人
「あんまり片寄ると、ひっくり返るわよ」
後方で声がした。私がシャクトリムシで進んできた場所に、その人物が座ったようだった。船の傾きが消え、揺れがおさまる。
「フサ子さん」
背中がつりそうになりながら、私はそちらを振り返った。そこには、ブロンドの髪を月明かりに輝かせる美女がいた。
「良かった……!」
どうしてこんな状況になっているのか、なぜ突然フサ子さんが現れたのか意味不明だったが、知っている顔を見つけた私は心底ほっとした。
「秋月くんが怪我をしてるかもしれなくて」
とりあえず彼の口を覆っているテープを剥がしてくれないかと、私は続けようとした。しかし言葉は、フサ子さんの鋭い声で遮られたのだった。
「せっかく指示通りに整えたのだから。勝手に動いて転覆させて自滅なんて、よしてくれないかしら」
「え……?」
月明かりに浮かび上がる彼女の顔は、無表情だった。ツヤツヤのマネキンのようだ。
「日付が変わった瞬間、船底に穴が開く」
「フサ子さん……?」
「ガムテープ一本、取っ手付き漬物石二つに、ボート一艘。与えられた道具はこの四つ。『これらの道具で、要注意地球人二人を始末せよ』」
「フサ子さん」
「確かに指示に従ったわ。テープだってこの通り、使い切った。悠里の口に貼る分は足りなかったけど」
「フサ子さん!」
「あと十五分で日付が変わる。船底に穴が空いて、あんた達はこの湖に沈むの。テープで紐を作って、漬物石の取っ手とあんた達を繋げたわ。ちゃんと沈むわよ」
フサ子さんが投げ捨てたのは、粘着テープの芯だった。コロコロと転がってきたそれは、私の裸足の指先にぶつかり、横に倒れて動きを止めた。
「どういうこと? 指示って何? フサ子さん、これは一体……」
私の問いかけに、フサ子さんは表情を動かさなかった。空虚な瞳でどこか一点を見つめたまま、彼女は口を開く。
「これは取引なの」
「取引?」
「過激派と私の取引」
「レプレプ過激派?」
「ヨネ様が過激派に拘束された」
「えっ?」
「この間話したでしょう。私が過去に所属していた、組織の計画のこと。あの組織の残党が、ヨネ様を逆恨みしたのよ」
時間球をあまり排出しない地球人を処刑してしまおうという、のろま地球人除去計画。あの計画を練っていたレプレプ星人達は、完全には闇に葬られていなかったということか。
「ヨネ様解放の条件が、あんたたち二人の抹殺」
一つ一つの音を自分でも確かめるように、フサ子さんはゆっくりと告げた。
「なんで私と秋月くん……?」
「あんた達はね、とっくに目をつけられてるのよ。あまりにも異星人と繋がりを持ってしまっている。知る必要のないことまで知ってしまっている。時間球の排出を渋るし、おまけに
ドン! と船底を叩く音が響いた。ボートが揺れる。フサ子さんの視線が動き、秋月くんを捉えていた。
「苦痛も恐怖も感じる暇なく、一瞬で消してやれる方法だってあった」
レプレプ星人は淡々と言葉を続けた。
「処刑方法を選ぶ権限まで私に与えられていたのなら、そうしてあげてたわ」
静かに息を吸い込む音が聞こえる。フサ子さんの喉元が、月明かりに青白く照らし出されている。
「全て上からの指示なのよ。処刑に使う道具も、場所も、時間も。私にこの命令を下した人の最近の趣味は、地球で過去に起きた猟奇殺人について調べることなんですって……これはその中から見つけた、あんたたちにぴったりの処刑方法だそうよ……時が止まった湖底に沈めて溺死させる。レプレプは序列にこだわるの。序列に厳しい。悪趣味なやり方だけど、私は指示通りにやるしかない。そうしないとヨネ様は解放されないのだから、悪く思わないで」
フサ子さんは船からひらりと身を翻した。小さなボートは傾き、ゆらゆら揺れる。「あ!」と私は叫んだが、彼女は何食わぬ顔で水面に両足を乗せ、夜の湖面を数歩歩いて此方を振り返った。
「
「フサ子さん」
秋月くんから低い息遣いが聞こえる。湖面に直立する美しいエイリアンを、彼は睨めつけていた。
「指示が出たところまで、きっちり従ったわ」
満月の光は明るいとはいえ、距離があって表情まではっきり分からない。でも、フサ子さんはようやく無表情を解いたようだ。
「あと十分くらいかしら」
彼女が後ずさる度、湖面に水紋が生じた。ボートを揺らすほどの波とはならないそれは、静かに生じては無音で消えていく。
「じゃあね」
フサ子さんの姿が消えた。別れを告げる声と小さな水紋が、しばしの間その場に残っていた。
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