第8話 大団円
「五感の研究」
を行ってきた中で、
「嗅覚、聴覚、味覚、触覚ときたが、最期には視覚が残っている」
ということであった。
ステルスという意味でいえば、一番最初に潰されるべきもので、それが潰れるからこそ、他の五感が発達することになる。その過程において開発されるものや、発生することが派生となるものも生まれてくるというもので、
視覚に対しても、錯覚という観点から、生まれてくるものであった。
あれはいつ頃からだっただろうか? サイトウは、この錯覚は、存在自体を知識として得る前に、自分で経験していた。
それは、今までにも結構あったのだが、それらを、
「研究への嗅覚」
と考えるのであれば、
「俺は、結構、嗅覚に優れているのかも知れないな」
と思った。
この研究は、いわゆる、
「サッチャー錯視」
と呼ばれるもので、比較的、一般人も意識する確率は高いという。
「上下を反転させた倒立顔において、局所的特徴の変化の検出が困難になる現象である」
と解されるもので、言葉の意味は難しいが、この感覚は、漠然として見た場合、上下対称での顔は、まったく別のものに見えるということを示しているといってもいいだろう。
この発想を考えた時、ふと、ある媒体と、そこで起こる不自然な現象について思うところがあった。
というのは、鏡という媒体に対してであった。
「鏡というのは、写った被写体では、左右対称に見えるのに、上下は反転しているわけではない」
と言われる。
考えてみればおかしな現象だが、これを誰も、
「おかしい」
と、言って問題にする人はそれほどいない。
それこそ、研究員が見抜いて、
「おかしい」
と思うのだが、実際に見えていることを、誰もおかしいと思って問題視しないのは、心の中で、
「おかしいことであっても、誰も問題だと言わないのであれば、それが正解なんだ」
という考えを持っているからであろうか?
そんなことを考えていると、実は世の中には似たようなことが結構あり、
「錯覚を錯覚だとは思わない中で、錯覚を受け入れるかのように生活している」
ということは、往々にしてあるのではないかと思えるのであった。
そんな中において、
「鏡では、左右反転するにも関わらず、なぜ上下が反転して見えないのか?」
という命題に対して、信憑性のある答えは今でに出ているわけではない。
考え方はいくつかあるが、答えに至るものはないのだ。どの考え方も、
「帯に短し、たすきに長し」
と言ったところであろうか?
ということなので、
「サッチャー錯視」
という考え方も、答えが出るわけではない。
それだけ、この二つの考え方が酷似しているということであろう。
しかし、サイトウは、この二つを分離して考えている。
「鏡の発想よりも、サッチャー錯視の考え方の方が、信憑性があるのではないだろうか?」
と考えているわけで、
サッチャー錯視からの研究を進めていた。
しかも、こちらは、視覚だけからではなく、他の五感で研究したものとを組み合わせるように考えていた。
つまりは、
「視覚は、他の五感の部位の集大成だ」
と考えていたのだ。
そもそも、研究が、
「ステルス性」
ということなので、当然、視覚というものが一番深く掘り下げられるものだといってもいいのではないだろうか?
それを感が合えると、
「サッチャー錯視を考えた人の考えを聞きたい」
と考えるようになったが、それは無理なことであった。
ただ、一つサイトウが懸念していることがあるのだが、
「サッチャー錯視というのは、ひょっとすると、病気による錯覚なのではないか?」
ということであった。
たくさんの人が陥る錯覚だからといって、それが病気ではないと言い切れないだろう。
つまり、ある一定の人だけに現れる症状だとすれば、それが病気であっても、一つの現象だとすればどうだろう。
そういえば、
「ある一定の人にだけ現れる現象」
ということで、頭に去来するものがあるのではないだろうか?
そう、聴覚の研究で問題視された、
「モスキート音」
というものがそれにあたるのではないだろうか?
「ある一定の年齢以上になると、聞こえなくなる
と言われる、その音は、
「まさにステルス効果という意味で、注目に値するものだ」
といえるのではないだろうか?
「サッチャー錯視と、モスキート音」
まったく違うものに思えるが、それらを同時に研究することで、何かが得られるのではないかと思ったサイトウは、サッチャー錯視の研究を始めた時、再度モスキート音というものを研究してみた。
最初に、聴覚だけのものとして研究していた時には気づかなかったことが、サッチャー錯視というものと重ねると、さらにステルス性の重要性も分かってきて、
「なぜ、聞こえる人と聞こえない人がいるのか?」
という科学的なメカニズムだけではなく、
「理論的な生態系のようなものが、どこかに働いているのではないか?」
と思うようになると、そこに存在しているものは、
「人間は、分類することができるのではないか?」
ということであった。
「できる人間、できない人間。ひいては、必要な人間、不要な人間」
という発想だ。
以前、絵を描いている芸術家の話を聞いたことがあった。
「絵描きというのは、目の前にある光景を、そのまま映し出すだけではないんだ。時には大胆な省略を行うことで、正しく見えることがある。目の錯覚といえばいいのか、考え方の錯視である」
と言っていた。
そして最後に、
「俺は、大胆な省略をありだと思っている。それは人間であっても、その例外ではないと思うようになった」
といっていたのだ。
それが何を意味していたのか、まだ子供だったことで正直意識の片隅に残っていただけで発想はできなかった。
しかし、今そのことを考えることで、見えていなかったものが見えてきた気がした。
「研究というものは、元来見えているものが、見えない状態になっているものを、こじ開ける作業なのではないだろうか?」
と、サイトウは思っているのだった。
実は、この組織を、バラバラにして、別々の国家に売りさばこうとしている組織があるという水面下での話があった。今はサイトウを中心に、
「一本にする」
という形で行われているが、それぞれの統合はある意味難しいところがある。
しかし、それを別々の完結型にして、ある意味、未完成版で、先進国の中でも、あまり裕福でない国に、格安で売れば、
「5つもあるのだから、かなりのお金になるに違いない」
と言われていた。
考えてみれば、それぞれを一つにして売り込むよりも、それぞれを中途半端でも、値段を究極に下げればいくらでも売れる。半額にしても、倍以上の利益が出るわけで、これほどありがたいことはないというものだ。
秘密結社の基本は、
「金儲け」
である。
金になれば何でもいいというのは、強引な理論ではあるが、実際に研究の内容など、秘密結社には関係のあることではない。
しかも、売りつける国はそれぞれバラバラで、他の国には分からないように秘密裏でやろうと考えているところがあった。
なぜ、そんなことが分かったのかというと、
「研究員の中に、スパイが紛れ込んでいる」
ということを基本に、怪しい人間をチェックし、外部との連絡をしていないかということをチェックする機関が調べてくれた。
そもそも、ここの研究所に限っては、表に出ているところではないので、もし、外部からのスパイが入っているとすれば、
「内部に、スパイを手引きしている裏切り者がいる」
ということになる。
この研究所では、そんな輩がいれば、最初からチェックしている。
しかし、その行動を制御したりはしない。
「やつらの行動を見て、逆にこっちからスパイしてやる」
という、スパイ合戦を繰り広げていたのだった。
「肉を切らせて骨を断つ」
ということである。
それこそ、ステルス戦法というものだろう。
あるいは、忍者のように、相手の中に入りこんで、情報を盗み出すということもある。諜報という意味での錯乱もできるだろう。
それを思うと、
「やつらの動きやすいようにして、こっちがその動きを探ることで、何をしようとしているかを探り、逆にこちらがトラップを掛ける」
ということができれば、向こうは、せめて、研究所のトップが日本国くらいに思っているだろう。
まさか。某国だなどを想っているわけではないので、それを思うと、
「本当にあいつらも、お花畑的な発想だよな」
と思えたのだ。
当然、この情報は、某国国防相に流れ、秘密警察が動いていることだろう。
相手組織の企みは一切消えて、その後、その秘密結社がどうなったのかも分からない。
その秘密結社が組織されたのは、アメリカによるものだったようだ。
アメリカ国家とは関係のないところで組織された、あくまでも、金の猛射と言ってもいい組織、ただ発生の国がアメリカというだけで、もし、これをアメリカにつきつけたとしても、アメリカ国家は、秘密結社の存在すら、国家の中から抹消するに違いない。
というか、その秘密結社は、まともに存在などしていないのかも知れない。
実は秘密結社の中に、研究者が紛れ込んでいた。他国に売り飛ばすことだけを目的にしている彼ら組織は、その情報を盗まれることに、それほど神経質ではなかった。
だから、秘密結社に対しての備えには、そんなに苦労はない。この研究所が、国家機密となるようなことを研究しているとも思われていない。せめて、
「どこかの企業に高額で売れる」
というくらいのものだったのを、研究所の中にいる、諜報員が、
「ここの研究は、国家ぐるみだ」
というように組織に思わせたことで、行動を取らせる。
しかも、表向きはそれほど大きな組織ではないという自負があるだろうから、研究所が油断をしていると思い、スパイに対しても甘いと最初から思わせているということろが、
「巧者だ」
と言われるゆえんだろう。
実際に、最高機密だとは思っているだろうが、それはあくまでも、国内向けで、海外に輸出する時の相手は、一企業だろうと、思っているのだった。
そうやって油断させておいて、今度は、売りつけた国家を相手に揺すりを行う。
それは、研究所でできることではなく、実際に行うのは、
「某国政府」
であった。
相手国は、まさか、
「某国政府」
がゆすりを掛けてくるなどと思ってもいない。
なぜなら、某国というのは、基本的に、国防であったり、軍事国家としては、そこまで有名な国ではないからだ。
「えっ? アメリカじゃないの?」
と、読者諸君は思うだろう。
しかし、この世界でのアメリカという国は、表には出ているが、もうすでに、東西冷戦が終わってからは表に出てきていない。
出てきているように思うのは、国連であったり、国際社会が一致団結して何かに当たるというような時、アメリカの大統領が出てきて、まわりの国家を仕切っている。
そもそも、アメリカという国は、民主主義の代表のような国、そんな国に、このような秘密の国防相が存在するわけがない。何と言っても、核兵器を持っている国だ。核のボタンはその手中にある。そんな国が、このような一つの国の一研究所に、大切な依頼などするものだろうか?
そんなことを考えると、某国というのは、
「東西冷戦時代のアメリカ」
に、限りなく近い国なのかも知れない。
そんなことを考えると、某国に売り飛ばされそうになった研究、実は、この秘密結社自体がフェイクで、アメリカという国を一度どこかで意識させるためだったのかも知れない。
その意識させる相手というのは、秘密結社にではなく、この国、日本に対してである。
かつては、アメリカお、
「核の傘」
に守られてきたが、果たしてこれからは、自営なのか、それとも、またしてもどこかの国に守りをお願いするのか、それが某国になるのだろう。
自国でできない国防を、今までアメリカがやってくれていたが、今のアメリカは断るようになった。そのため暗躍してでも、日本を守るための国家体制を築くという意味で、今回の、
「五感の研究は重要だった」
といえるであろう、
某国がどの国かということは、いずれ分かることになるだろう。
( 完 )
五感の研究と某国 森本 晃次 @kakku
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