第7話 負の遺産
今度できた研究部の研究しているものとしては、それは、触覚であった。
ほとんどの五感が、顔の一部で判断するものであるのに対し、触覚だけは、すべての場所で感じるところである。つまりは、身体の神経が通っている部分であれば、すべての場所で感じる部分であり、下手をすると、身体全体であるだけに、
「実際に、どの部分で感じているのか、分からない」
ということにもなるだろう。
例えば、腕の内側を上にして、目を瞑って、手首あたりから、肘の曲がる部分くらいまで、人差し指と中指で、まるで人の歩みのような状態で、ゆっくりと指を進めていったとして、
「ちょうど、肘の曲げるあたりまでくれば、ストップといってくださいね?」
という遊びをやった時に、実際にストップと言った時、そのほとんどは、まだ肘まで来ていない時が多いことだろう」
しかも、指の動きが小刻みであればあるほど、錯覚が激しいものだという。
腕の内側、それも、手首からどんどんと腕の付け根に近づいていくほど、神経が敏感になっていて、近づくほどにその感覚がマヒしていくということであろう。
最初が最高に感じていて、ゾクゾクするほどなのだろうが、慣れてくるうちに、すでに、指が目的地に到達していると勘違いをしてしまう。
ひょっとすると、なれとともに、気持ちよさから、一瞬でも逃げたいという気持ちが襲ってきたとすれば、その時、無意識にストップと声をかけたのかも知れない。
実際にやってみると、勘違いでは理由にならないほどの手前で、ストップという声を発している場合もあるのだった。
「こんなことが、本当にあるのだろうか?」
自分でも、どうしてそんな感覚になるのか分からない。そういう意味で錯覚というのは恐ろしいものだ。
錯覚とは違っているのかも知れないが、
「左右の手で、別々のことがどうしてもできない」
という人もいる。
だが、実際には左右でバラバラな行動でないとありえない公道だってある。
それは無意識の行動であれば、左右バラバラでも問題はないと言えるだろう。
しかし、左右バラバラでないとできない音楽や楽器などはどうしてもできない。
ピアノあったり、ギターであったり、両方を同じ目的に向かって、別々に行うという、
「そう、バランス重視の行動」
といってもいいだろうか?
それをうまくできないのは、ただ、
「左右で別々なことができないからだ」
と直球で考えてしまうと、きっと永遠にできなくなってしまうことだろう。
しかし、これを、
「同じ目的のために、左右バラバラであるが、結果としてバランスが取れていることから、うまくいく」
と思うと、できるのではないかと後から思えば感じるのだった。
しかし、ある程度の年を重ねてくると、
「もう、いまさら分かったとしても、どうしようもない」
と簡単に諦めてしまうこともあるだろう。
左右でバランスを取れないと、ほとんどのことはうまくいかないということが頭の中では分かっているのに、音楽などではどうしてもうまくできない。
「芸術的なことは、俺にはできないんだ」
と思い込んでしまっているからなのではないだろうか?
人間には、思い込みというものがあり、結構厄介である。
時に、
「俺にはできない」
と思い込んでしまったものを、またやる気にさせるというのは、結構難しい。
「できない」
と思ってやめたことは、たいていの場合、トラウマのようなものが残っているからだ。
子供の頃に、無理やりやらせようとして、その反動で、できないと思い込んでしまい、そのこと自体、自分で受け付けなくなるなどということである。
そういう意味での触覚に対しての、錯覚というのは、結構あるのかも知れない。
ただ、楽器のように芸術に関してのことを錯覚というのは、若干違うのかも知れない。錯覚というのは、前述の目を瞑って、指を這わせるようなあんな感じのものをいうのではないだろうか?
そんな中で、触覚に対しての研究で、今注目されているのは、
「真空」
というものの研究だった。
真空というと、すぐに頭に浮かんでくるのが、食物の腐敗などを防ぎ、日持ちさせることを考える、
「真空パック」
という考え方だ。
触覚に対しての真空という発想は、元々は、まったく違うところから来たのだ。
この真空という発想は二段構えになっている。まず最初に浮かんできた発想としては、まず、
「感覚をマヒさせる」
というものであった。
感覚がマヒするということとして、考えるのは、
「冷却させてしまう」
ということだった。
なるほど、冬などの寒い時、冷たい時など、感覚がマヒしてくるのが分かってくる。そして思うのが、
「下手に転んだりしると、すぐに骨折などをして、大けがしてしまう」
ということだった。
そこで、酷寒の寒さの中で、特に北極や南極の究極の寒さの中で、
「バナナで釘が打てる」
というではないか。
カチコチンい凍ってしまうと、氷と同体化してしまい、ハンマーのようになるというのだが、逆に考えると、
「これほど、脆いものはない」
ともいえる。
相手が自分よりも少しでも弱ければ、十分な力を発揮するのだが、逆に相手が自分より強度が上であれば、こっちは、ひとたまりもない。
つまりは、生身の人間の時は叩いてお潰れることはないのだが、凍り付いた腕であれば、ハンマーを使えば、簡単に、こっぱみじんにぶち壊すことができてしまう。
つまり、凍り付いたものというのは、強度が強いが、すぐに壊れてしまうという弱点もあり、一種の、
「諸刃の剣だ」
といえるのではないだろうか?
ハンマーの力はかなりのもので、こっぱみじんにしてしまうと、破片しか残らない。
そもそも、血も凍るほどの冷たさなのだから、ハンマーでぶっ叩いてこっぱみじんにしたところで、血が流れることはない。
もし、それが解けてきて、氷がなくなり、やわらかくなってくると、バラバラの肉片が飛び散っていて、溶けた血液が流れ出るのではないか?
と考えてしまうのだった。
そもそも、そんなところまで普通は想像しないだろう。
砕けて壊れた時点で、頭の中はショッキングなことを見たくないという本能から、それ以上は考えないようになり、溶けてくるところまで想像がその現場から残っていることはない。
その場の想像だけで十分だからである。
そうやって考えると、人間を完全に氷詰めにする装置さえあれば、バラバラ殺人などできないわけではない。
ただ、バラバラ殺人という発想が、
「被害者を特定させたくないから」
という目的の元に行われているとすれば、氷詰めにして、叩き割ることで、バラバラにしたとしても、それは意味のないことであろう。
こんな恐ろしい研究を、日本はかつて、大日本帝国時代、陸軍が行っていたという。
それも、満州国というところの、ハルビンということろでだ。
その実験は、言語に値しないもので、何をどう表現しても、悪夢でしかない。
そんな状態で、研究している方も、
「気が狂っていたに違いない」
といえるのではないだろうか?
その研究所での所業を、かなり昔の映画で公開されたことがあったという。一度、DVDを借りてきて見たことがあったのと、実際にネットで検索すると、残っている証言を、あからさまに書いているのを見ると、その所業は、ナチスが行った、アウシュビッツなどの強制収容所におけるホロコーストなど比ではないくらいのものだった。
ただ、どうして、ナチスの行ったホロコーストほど、世界で騒がれていないのかというと、証拠らしい証拠はすべて、終戦前に日本軍が処分したからだという。
さすがにナチスは規模が大きすぎて、一つの収容所の処分だけでも大変なのに、それがいくつも国内に存在しているのだから、
「すべてを抹殺」
などというのは無理なことだった。
ハルビンにある研究所一つだけでも結構大変だったのだからである。
大量の研究資料、そして大量の死体の処分、さらに生き残っている、
「丸太」
と呼ばれた捕虜の処分などである。
生き残った捕虜に穴を掘らせて、そこに死体を埋めることになる。つまり、これは本当の、
「墓穴を掘る」
である。
そして、死体を償却しようにも、書類の山で焼却炉はいっぱい。結局穴に埋めるしかなく、処刑するにも大変だ。
ということで、研究所では、
「デスゲーム」
をさせた。
つまり、殺し合いをさせるのだ。一人の生き残りも許されないデスゲーム。最後まで生き残ったとしても、結局その人も日本兵に殺されるのだ。
そして、掘らせた穴に彼らの死体を放り込んで、処分をする。結果、戦争終結後、解放軍がハルビンに入った時には、証拠はまったくなくなっている。建物も破壊されているからだ。
生き証人も基本的にはいないはずなのに、なぜか、証人がたくさん出てくる。
それは、戦後自由の身になった研究所の所員たちがその状態を証言するからだ。
すでに、自分たちを処分する、上官も、大日本帝国自体がない。占領軍から、
「正直にいえば、命は取らない」
と言われれば、白状してしまうのも、無理もないだろう。
何しろ、それまで自分が生きる基盤としてきた大日本帝国そのものが存在しないのだ。それまでの自分たちのよりどころは消えてしまった。後は、
「長いものに巻かれて生きていくしかない」
ということになるのだ。
戦後になり、その研究所のことが少しずつ明らかになる。映画もその証言に基づいたものだっただろう。
毒ガスによる実験などは、ナチスにもあったが、ひどいものとしては、前述の凍り付いた腕の話は、実際に本当にあったことのようだ。
絶対零度を作るための機械を開発し、その実験に、「丸太」を使う。目の前にある手かせのような機械に手を突っ込み、絶対零度の冷気を流し込むと、腕は一瞬にして凍り付いてしまう。
そこをハンマーで打ち付けて、粉々に砕いてしまうというワンシーンがあった。実に恐ろしいことである。
そして、もう一つ印象に残っていたシーンとしては、
今度は、
「気圧調整装置」
のような部屋があった。
そこは、毒ガスが入ってくるような部屋であり、少々広い部屋であった。
毒ガス室は真っ暗だったのだが、その理由は、ガスに軽く色をつけて、室内がどれほどの毒ガス濃度になっているか、機械だけではなく、肉眼でも見えるようにしていたのだろう。
そして、気圧制御装置のある部屋も同じように、真っ黒の壁となっていて、角がどこなのかすら、分かりにくいようになっていた。
そんな密室において、毒ガスのように入ってくるものではなく、気圧室は、どんどん空気を抜いていくというものだった。
男が椅子に座っている。
目隠しをされて、そのまま、ポツンと置かれた椅子に座らされている。その男の息遣いだけが、真っ暗な密室に響いている。
表で白衣を着ている数名の科学者たちは、時が来るのを待っている。
一人が、
「よし」
と、静かな声でいうと、空気が抜けていく音が、
「スーッ」
と聞こえてくるのだった。
こちらは、DVDを見ているので、何が行われているのか分かるのだが、丸太と呼ばれる被験者は、どういう心境になっているのか、見ていて分からない。
しかも、捕虜なので、基本的に日本人がいるわけではない、日本語など通じない連中だ。
捕虜となっている連中は、中国人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア民族、一部の満州人も含まれているだろう。
少し違うが、いわゆる、
「五族協和」
という満州国の建国スローガンの、日本人が、ロシア人に変わっただけで、しかも、その、
「人体実験」
が、満州国内の研究所で行われているというもの何ともいえない恐ろしさである。
ただ、満州国にあった、研究所は、生物兵器であったり、毒ガスなどの、大量殺戮兵器を開発していたのだが、戦後において、占領国家と、研究員との間に、
「密約」
があったのか、その時の研究員の一人として、
「極東国際軍事裁判」
において、裁かれた人間はいない。
それどころか、研究所で要職についていた人物が、戦後日本で開設された、
「血液バンク」
において、取締役に就任していたほどだった。
そんなことがあって、その研究結果が、例の某国に流れたことは確かであろう。
当時の世界は、
「東西冷戦」
の真っ最中、東側諸国は、かつてのナチスからの研究員を拿捕したり、抱え込んだりして、兵器開発や宇宙開発を行ったが、西側は、ナチスに迫害されたユダヤ人科学者の亡命者によって、形成される研究チームだったりする。
原爆気級の、
「マンハッタン計画」
もその一つで、ユダヤ人である、アインシュタインも亡命者でありながら、大統領に書簡を送っているのだ。
時代が冷戦という状況になり、すなわち、
「兵器開発競争」
というものが、一種の戦争となった。
「いかに、相手よりも優れた兵器を開発するか?」
という命題が課せられたのだ。
確かに兵器開発競争は、そのバランスさえ保たれていれば、お互いに
「この最終兵器を使うことで、結局は破滅しかない」
という意味で、
「抑止力」
というのが生まれる。
つまり、
「核兵器は、持っているだけで、相手に対して脅威を与えることになり、お互いに使わないという暗黙の了解によって、平和は保たれる」
と思われていた時期があった。
しかし、それはバランスが保たれている時だけであり、ちょっとでも、動けば、核のボタンを押しかねないということが世界のすべての人類が分かると、もうどうしようもない開発競争を続けてきたことで、もう抑えが利かない状態になっていた。
「ここまでくれば、やめるわけにはいかない」
今度は、核兵器による抑止ではなく、政治の力という、不確定で一番あてにならないものが、抑止力としての力を発揮することができるかということであるが、どうしても、
「核の抑止力」
という昔の幻影に振り回されている国も少なくない。
ハルビンにあった研究所の、
「気圧制御装置」
に、放り込まれ、その中は、まるでガス室と同じ、まわりが真っ黒であった。
別にガス室をそのまま使用したわけではなく、ガス室と同じ効果を見たいから、わざと真っ黒にしていたのだ。つまり、
「肉眼でも、気圧の制御が利いているか」
ということを見たかったからに違いない。
気圧がどんどん低下していくと、一体どうなるというのか、
「身体がどんどん膨れ上がっていって、最期は破裂してしまう」
言葉で表すだけでも、恐怖なのに、実際にそれを研究という感覚を持っているだけで、まったく感情を表に出さず、人間が最悪の形で死んでいくのを、見ているというそんな光景全体を見ている方が恐ろしいといっていいだろう。
毒ガスのように、恐怖におののいて、苦しみながら死んでいく人を見ているのと、苦しむことさえできず、膨れ上がっていく身体がどんどん、人間ではない姿に変わっていき、最期には破裂してしまうという、
「まるでこの世のものではない」
という光景を、それぞれに見せられて、それを無感情で見ているという時点で、
「感覚がマヒしてしまっている」
という以外には、何も表現のしようがないのだろう。
だが、実に皮肉なことに、人間に対して、真空状態をうまく作ることによって、今後の医学として、今、
「不治の病」
と言われているものが治るであろう未来にまで生かしておくことができる研究ということで、真空に対しての研究が行われているのだ。
それは、同じハルビンの研究所で行われた、
「絶対零度における、人間の耐久」
ということで、ハンマーで凍り付いた手を殴ったという発想ではなく、今度は、
「人間の冷凍保存」
という発想に生かされているのだ。
つまり、
今から80年近く前に行われた、
「戦争の勝利のために行われた、大量虐殺の研究」
というものが、今では、
「人類の未来のための、不治の病の治療のため」
という研究が行われているのだ。
もちろん、時代は流れてはいるが、80年前の研究が今の時代にも生かされることになるのだ。
そういう意味では、
「犬死ではない」
といえるのだろうが、果たして、どうなのだろう?
今でも、軍事のための研究が行われ、実際に、ステルスであったり、コウモリのように、見えない状態でも、見えるかのようにする兵器の開発が進んでいるではないか?
将来において、いかなる研究ができるかということを、今研究しているといっても過言ではないが、それが、かつてのハルビンの研究所に学ぶべきことはたくさんあるのではないだろうか?
もちろん、あのような悲劇を繰り返すわけにはいかないだろうが、世の中には、
「本当は、あの時の研究が今に生きているのだから、黒歴史であっても、正面から受け入れて、今を生きる」
というのも必要なのではないだろうか?
確かに、遺族や被害者からすれば、そんな歴史は、本当は忘れ去りたいのだろうが、そうもいかない。
自分たちの中で決着をつけなければいけない事実であるのは間違いない、
「決着をつけた後で、正しい歴史へと導くという意味で、隠すのではなく、黒歴史として、後世に語り継いでいく必要がある」
ということではないのだろうか?
「俺たちは忘れていないぞ」
といって、保証を求めている連中は、その保証がもし、認められると、今度はその歴史の隠ぺいに奔走するかも知れない。
つまり、自分たちだけに起こった悲劇だということを、自らで認めているにすぎないからだ。
それがどういうことなのかというと、結局、自分たちだけで肩をつけてしまうということで、本来なら、
「歴史の証人」
として、何が正しく間違っているのかということを、歴史に答えを出させる必要があるのに、それを自分たちだけですべてを片付けてしまおう、
言い方は悪いが、
「保障という形ができてしまえば、過去の忌まわしい歴史、つまり臭いものには蓋をすればいいんだ」
ということで、
「なかったことにする」
というのは、いかがなものだろうか?
ただ、それは被害者意識であり、被害者の中には、
「歴史の事実として、後世に伝える必要がある」
と思っている人も多いだろう。
「負の世界遺産」
として、戦争の生々しい爪痕が残った場所が選ばれているところもたくさんある。
日本の原爆ドームなどが、最たる例であろう。
もちろん、証拠が残らないように、すべてを破壊しつくしたことで、何も残っていないという事実もある。
それを考えれば、果たして、
「どこまで残すべきなのか?」
というのが問題になるだろう。
しかし、それらの問題は、今だけで論じられるものではなく、
「そう簡単に答えが出るものではない」
ということで、これからも、議論の対象になっていくだろう、
そういう意味で、簡単に出てくる答えに対して、どこまで信憑性があるというのか、今五感というものを研究している、日本の研究所でも、そのことは議論されている。
特にサイトウ研究員はそのことを一番強く提唱している人間であり、かつての教授の同じ考えに傾倒しているといっても過言ではないだろう。
世の中において、どこまで、研究が進んでいるか、日本だけでは分からないところが多い、
某国における世界の中心でもある研究所だけが、世界の研究をある程度把握している。
いまでこそ、
「東西冷戦」
というものはなくなり、見た目は平和ということになっているが、それ以降というのは、
「戦争と平和」
というものの形が変わっただけで、そのバランスが壊れたわけではない。
二大大国による、
「核開発競争」
は終わりをつげ、時代は、
「テロによる局地的な戦闘」
の時代を迎えた。
兵器も、最近では、ステルス性のあるものが主流になってきているようで、その開発を今していることになるのだ。
しかし、いくらステルス性を大切にすると言っても、その事実や後世に残しておかなければいけない遺産を、ステルスでごまかしてはいけない。
そういう意味で、研究がステルスにばかり向かっているというのは、果たして問題ないのかどうか、見極める必要があるのではないだろうか?
この研究所の研究も、今ではステルス性だけではないものも結構手掛けている。その考え方は、
「某国国防相」
の考え方でもあり、実際に、その国との開発は、本当の意味での、
「国家機密」
である。
この国家機密に関しては、どの国に対してもということであり、当然、国連も知るところではない。
国連というと、その名前を、
「国際連合」
という。
つまりは、戦勝国による、国際機関ということであり、
「日本、ドイツ、イタリア」
などの敗戦国は、いつまで経っても、最高の組織に入ることはできないのだ。
これこそ、
「負の遺産」
というものを、後世に受け継いでいる、
「悪しき例だ」
といえるのではないだろうか?
果たして、世界が負の遺産から脱却できるのは、いつのことなのだろうか?
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