第6話 味覚による研究
モスキート音を研究している人たちが最近行っているものとして、
「モスキートを生かしたステルスのより、信憑性の高さ」
というものを研究していたのだ。
モスキート音というのはあくまでも、
「人間の聴覚の特性」
という特徴を利用したものであることから、その音をコントロールするということで、いかにステルス作用に近づけられるかということが問題であった。
しかし、最近の研究では、
「モスキート音の特性を生かした新たなモスキート性を持たせる音を作り出す機械の開発ができないか?」
ということが叫ばれるようになってきた。
今のモスキート音は、基本的に、結界というのが、年齢というところでしかなく、もちろん、個人差があることから、
「いくつ以上」
というハッキリとした結界を占めることはできないが、
「大体、いくつからというところで、表に見えてはいないかも知れないが、ある程度老化の年齢に比例しているのではないか?」
と言われるところまでは分かってきていた。
人間の聴覚の可能性というものが、モスキート音にいかに影響を与えるかということであれば、今度は逆に、どのような聴覚の持ち主であれば、認識できるかどうかというところに絞って、音の方を開発するというやり方をすることで、その音が、聞こえる人間、あるいは聞こえない人間に分けることができる。
「音によって、伝達の制限をできないか?」
という発想から来ているもので、
逆の発想として、
「音をそのままにしておくのであれば、補聴器やその伝達するための拡声器ならぬ、
「拡聴器」
とでもいうような、音専用の識別機を耳につけている人間だけが認識できるような暗号を開発できないかということであった。
こちらは、モスキート音の発想からの応用によるもので、ステルス性ではなく、暗号伝達として使うという発想であった。
まさか、人間自身が、暗号解読ができることになるとは、誰も発想しないだろうというところからで、いずれば、その発想も見破られ、どこも似たような開発をするかも知れない。
しかし、先駆者として最初に開発をしたところに、しょせんは追いつけるわけはないという発想から、
「もし、他がこぞって開発を初めても、結局、先駆者に追いつけるわけはないということに気づいて、研究の目を他に向けることだろう」
という考えがあった。
だから、
「結局最初に始めたものが、最期に生き残ることになる」
ということだが、他が開発をこぞって始めた時、それまで、一か所だけでの研究では進まなかった他の発想が眼を覚ますことになる。それを最終的に独占できるようになるのだから、競合があった時期の方が、
「他の会社に開発をさせられて、最終的には、こちらが独占することができるのだから、これこそ、漁夫の利といってもいいかも知れない」
という研究家もいた。
この方法は、今までにも他の業界で行われてきたことだった。
しかし、これを大っぴらにしてしまうと、他の会社も警戒し、業界から撤退する前に、特許でも取られてしまうと、迂闊に利用できなくなってしまう。
あくまでも、自分たちだけで開発したということにしておかないと、他の会社が後から何か言ってこないとも限らない。
法律的には文句を言ってきても、どうしようもないのだが、文句を言われてしまうと、企業イメージが悪くなってしまう。そういう意味で、これらの方法は、さりげなく、相手の気分を害さないように行わなければならないということなのだ。
そんな開発チームが、今度は別のプロジェクトを立ち上げることになった。そのチームは、モスキートや聴覚を研究している人たちの中から、数人が選ばれた。その中に、サイトウも含まれていて、掛け持ちという形にはなるが、意外とその両方の研究は、お互いに共通点がいっぱいあるような気がして、相互間で、成長が見込まれるということで、研究の妨げには決してならないものだと思えるのだった。
今度の研究は、今までが聴覚だったのだが、今度は味覚である。
「確か、サイトウ君というと、元々は、嗅覚を研究していたのでは?」
という話から、
「そうなんだよ。人間における五感すべてを、サイトウ君には研究してもらおうと思っているんだ。そこには、何か切っても切り離せないような緩急課題があると、私は見ているんだが、その中で、あたらしい、いわゆる第六感というものに導けるのではないか?」
と考えているのが、この研究プロジェクトをプロデュースしている研究所の部長だったのだ。
部長は、ある意味、某国の国防相とは、基本的に関係がない。この研究所は表向きには、あくまでも、日本の企業の研究機関であり、実際に経営としては、
「大企業数社の合同出資によってつくられた研究所」
ということであった。
ただ、ここに、
「政府が一部出資しているのではないか?」
というウワサが流れてもいた。
それは、現在行っている、来年度予算計画の中で、野党が急に見つけてきたものだった。
これまでは、何も言われることがなかったのは、この研究所が、ある意味、国家として与党野党関係なく、その矢面に立ち、研究成果を挙げることで、国家としての、
「成果」
が表に出るということを示していたのだ。
政府としては、ある意味、この研究所を盾にして、マスゴミや、世間の目を欺くというと語弊があるが、政府の実績を叶えてくれる場所として、国民世論でも認めてもらえる存在になることを求めていたのだった。
もちろん、政府の一部は、そのことを分かってはいるが、何しろ研究内容が、政府の一部しかハッキリとその本質を分からないので、カモフラージュの必要がある。
そのため、敢えて、この研究所を表に出すことで、表向きの研究が、
「研究のすべてだ」
ということを世論に思わせることで、国家を正当化させようとした。
「なぜ、そのような必要があるのか?」
ということになるのだろうが、研究というものが、
「一般庶民に分かるような簡単なものではない」
ということ、そして、
「そこには、当然、国家機密のような、重要な密約が水面下で進んでいるものだ」
ということが、暗黙の了解として、世論は分かっているだろう。
マスゴミも、十分に分かっているので、深入りはしないし、下手に深入りして、触れてはいけないところに触れてしまったりしては、自分の立場というものが、危うくなってしまうということになるからだ、
国民は、一人一人考え方が違うので、操り方が難しくなるのだろうが、逆に、国家体制が民主主義ということで、操りやすいところもある。
というのは、
「民主主義というのは、あくまでも多数決で、そして、合議制によるものだ」
ということだからである。
つまり、
「多数派と少数派では、必ず多数派が勝つ」
というのが、当然のことであり、そうでなければ、社会主義のように、
「必ず、誰か一人のカリスマが世論を支配し、独裁となってしまう」
という状態になるからだ。
社会主義というのは、そもそも、資本主義、民主主義における致命的な問題を解決するということで考えられたものだった。
その、民主主義の致命的な問題と言われるのが、いろいろあるのだが、一般的に言われるのが、
「少数派への無視」
であったり、
「格差社会を生む」
という考えになるのではないだろうか?
研究所の存在をあからさまにすることで、
「自分たちは、この研究所を、おかしなことに使用していない」
と宣伝しているのだが、やはり、見る人が見ると、
「どこか怪しい」
と睨む人がいた。
一種の天邪鬼なのかも知れないが、そんなことを考える連中に、意外と科学者が多かった。
彼らは、まわりに怪しいと思ってもその気持ちを明かすことはしない。まわりから、
「変わり者だ」
と言われていることも分かっていて、彼らと関わり合いにならなければ、ただそれでいいと思うのだが、研究員や科学者連中が、
「変わっている」
と言われているのを、本人たちも分かっていて、それを受け入れているのだ。
それはあくまでも、自分がまわりと関わりたくないという思いと、利害が一致しているという考え方で成り立っているものだった。
研究員は、それまで、世間から子供時代など、
「お前は変なやつだな」
と言われてきたことで、自分のことを、
「変な人間なんだ」
と思うことで、そこから研究に走る人もいる。
逆に、研究が好きで、研究員を目指していることをまわりの人が知って、
「お前が研究者? 頭がおかしいんじゃないか?」
と言われることもあった。
それは、まわりが研究員に偏見を持っているというのもあるだろうが、それよりも、
「俺は頭が悪いから、研究員のような仕事になんかつけるわけはないんだ」
という、妬みや嫉妬から生まれた感情だともいえるだろう。
言われる方とすれば、いう方が、そんなことを考えているということまで知る由もない。そうなると、それこそ、まわりに関わりたくないと思い、お互いに、
「関わりたくない」
という利害が一致するのだが、どうしても、他の連中の頭の中から、妬みが消えることはないのだ。
だから、妬みが違う意識に形を変えることで、どのような見方をすることになるか、環境や、その人たちにもよるだろう。
しかし、そのせいだからといって、世間に抗うだけの勇気もなければ、力もないので、
「俺は、あいつら平凡な連中とは違い、研究者なんだ」
ということで、研究者であるということに対して、自己満足を得ることでしか、自分の気持ちを納得させることはできないのだろう。
本当は、距離があるはずなのに、その距離を感じさせない。それが近づくと、変な化学反応を起こしそうな人間に限って、そんな感覚になってしまう。
だから、
「気にしないようにしよう」
と思っていても、それで済むわけはない。
特に、子供の頃というのは、相手が何を考えているのか分からず、自分のことも分からない。
どう接していいのかが分からないのは、自分のことが分からないからではないだろうか?
そんな子供時代において、思春期や反抗期というのは、どんな子供にも訪れる。変わっているという子にも訪れるというのは、自分も、まわりもよく分からない感覚ではないだろうか?
そもそも、反抗期というが、何に対しての反抗なのか?
親を中心とした大人に対しての反抗なのか、それとも、自分自身に対しての反抗なのか?
あるいは、その時、考えていることに対して、反抗しようとしている発想が、表に出ているのか。
普通の少年であれば、皆が感じていることの反対が、反抗なのだろうから、その兆候が出てきた時、
「反抗期だ」
ということになるのだろうが、元々、変だと思われている人の反抗は、他の人の普通なのではないか?
と思っていると、どこまでが反抗というものなのか、自分でも分からなくなってしまうのではないだろうか?
反抗期を、
「他の子供と同じように過ごした」
と言ってもいいサイトウだったが、それは、
「自分の性格に反抗する」
という意味での反抗期であり、逆にサイトウの様子を見ることで、
「反抗期というのが、自分の中に潜んでいる性格に反抗することであり、逆にもう一つの性格が潜んでいるということを己自身で感じることになる」
ということを証明しているのだと思うのだった。
そのことで、
「自分が天邪鬼なんじゃないか?」
と感じるのは、あくまでも、自分の中にある性格に対して、もう一つの性格が天邪鬼だと思っているのであって、決して、他の人と比較してだということではないということを示しているのであった。
天邪鬼だと思うことで、
「自分だけが、他の人と違って、別の性格を持っている」
と思われがちだが、そうではない。
逆に、まわりが、
「あいつは天邪鬼なので、その分、もう一つの性格が隠れているだけだ」
と思っているだけで、意外と本人は、
「人と違う性格を一つ持っているのだ」
というだけのことであった。
そのため、天邪鬼が、おかしな性格だと思われる原因だということで辻褄が合っているわけで、本人は、いたって普通だと思っていることから、
「天邪鬼というのは、まわりが認めるだけのものであって、本人には、自覚はないものなのだろう」
ということであった。
他の性格のように、まわりは直接その人に対して、
「お前は天邪鬼だ」
とは、面と向かって言えないものだろう。
しかし、実際に、そういうことをいう人もいるにはいるが、それは、どちらかというと、茶化すような言い方をする人が多いような気がする。
つまり、
「本気で、天邪鬼だなんて思っているわけではなく、その人に対して、このままでいけば、天邪鬼になってしまうということで、気を付けるように促しているかのように感じられる時だ」
ということになるのではないだろうか?
天邪鬼に対して、
「お前は天邪鬼だ」
といってどうなるだろう?
下手にその人の悪口をただ言っているだけなので、下手をすると、自分だけが悪者になってしまい、孤立してしまう可能性があると言えるのではないだろうか?
サイトウは、子供の頃から、
「俺は天邪鬼なんだ」
と思っていた。
そして、まわりの皆も、自分で自分自身のことを天邪鬼だと思っていると感じていたのだが、それは間違いだった。
まわりは、自分のことを基本に天邪鬼を考えるのではない。あくまでも、自分は正常な考えを持っていて、自分と違う、変わった考えを持っている人間を、
「天邪鬼なんだ」
と思っているようだ。
だが、普通に考えると、この考え方が一番まともなのではないだろうか?
まわりに対して、目を向けるというのが、
「自分を正当化させるため」
という、少し言い訳がましい考え方ではあるが、一番人間らしい考え方ではないかといえるのではないだろうか?
そう思うと、いつもまわりを気にせず、自分のことだけを考えている人間こそ、自分たちから見て、
「天邪鬼なんだ」
ということになるのである。
味覚医おいての研究をしているが、味覚というものに、
「五味」
というものが存在する。
甘味、苦味、酸味、塩味、うま味という五種類の味のことである。(場合によって意味するものが違ったりする)
というものであり、それぞれに基本的な味が存在する。
味を感じる舌でも、味に寄って感じる場所が違うというもので、さらに、
「味が臓器と密接な関係にある」
という話もあったりするくらいである。
身体の臓器で弱っているところがあれば、その臓器にともなって、欲する味が違っていたりするという。だから、逆に欲しがる味で、どの臓器が弱っているかということを想像でき、健康に対して、重要な役割を示すといってもいいだろう。
例えば、
「?腎が弱っているときは塩辛い鹹、肝が弱っているときは酸、心が弱っているときは苦、胃が弱っているときは甘といったように、欲する味によって体のどこが疲れているのかが分かる」
というものであった。
ただ、いくら、臓器が欲しているからといって、過剰に摂取すると、障害を起こしてしまうこともあるので要注意である。それらは、基本的に健康診断などで、検査をすることができ、適切な味のバランスと摂取量の研究というのは、昔から継続的にされている。
そもそも。人間が感じる味覚という意味での人間への作用として、
「栄養摂取」
と、
「危険察知」
という相対的な意味があると言われている。
「栄養摂取」
と言われるものは、
「甘味、うま味、塩味」
であろうか。
もちろん、
「苦味、酸味」
も食欲増進に役立つのだろうが、これらはどちらかというと、危険回避という意味合いの方が強いかも知れない。
食べ物の中には、人間に有毒なものも含まれていたりする。そのため、口に入れた瞬間に、
「これは、有害物質である」
という認識をしないといけない場合もある。
「たぶん、人間にはその機能が本能として息づいているのではないだろうか?」
と思われているが、何と言っても一番は、人間以外の動物だ。
動物には、言葉というものがなく、伝達方法があるわけではない。その分、遺伝子が究極に発達しているのだろうが、少なくとも、人間のように、文字が存在し、その文字によって、子孫にそれらの危険なものについてなどを書き残すことはできない。
それなのに、誰かに教えられたわけでもないのに、毒物をうまく嗅ぎ分けて、摂取することなく生きている。
しかし、中にはそれらがハッキリと認識することができず、死に至ることもあるだろう。それでも、ほとんどの動物は、味覚や、嗅覚、あるいは他の五感をフルに使って、自分にとっての危険なものを察知している。
それだけ、五感というものが、自分の身を守るということに精査されているという証拠であろう。
ただ、一つ問題なのは、
「飽和状態になると、五感を中心とした感覚が鈍ってしまう」
ということである。
食べすぎたり、酒を呑みすぎると、
「味も何も分からなくなって、受け付けなくなる」
というような状態に陥ったことは、普通なら誰にでもあることだろう。
若い頃であれば、
「少々、たらふく食ったところで、まだまだいくらでも食える」
と思う人も多いだろう。
だが、年を取るにつれて、
「今までは、これくらい何でもなかったのに」
と思うほど、食欲の限界を、食べ始めから分かってしまうこともあるようだ。
食べ始めると、食欲が長く続いている若い頃と違って、急に食べれなくある時期が来ることを、年を重ねると分かってくるのであった。
食べたいのに、食べられない。身体が受け付けないという、一種の限界を感じるのだ。
気分的には、まだいくらでも食べれると思っているのに、身体が受け付けない。欲が満たされないという意味で、これも一種の欲求不満というべきであろう。
ストレスといってもいいが、欲しているものが、食欲のように物欲であれば、どこまで精神的なものなのかが、分からなくなるのではないだろうか?
欲というものは、いくつもある。
「食欲、性欲、睡眠欲」
と呼ばれる、人間の生活上の三大欲とでもいえばいいのか、本能に直結するものだといってもいい。
それ以外の欲は、どちらかというと、漠然としたものが多いかも知れない。
「いわゆる、物欲、支配欲、征服欲」
などという欲は、似ていたり、共通点もあったりして、その中でいかに強いものなのかということが分かるというものだ。
生活欲というものは、本能によるものなので、その限界を知っているのは、本能なのだろう。
それ以外の欲というのは、絶対に必要なものではなく、どちらかというと、
「人間の中に備わっていると、いい方向に煤で行ける」
というものであり、ただ、一歩間違うと、
「見えていた先が見えなくなる」
というものなのではないかとも思えるのだった。
つまり、伸びしろはあるが、それをいかに、自分で信じることができるかということであろう。
五感というものは、基本的に、生活欲、つまりは、本能に大きく影響している。
食欲など、味覚、視覚、嗅覚などが大きく影響していることだろう。
見た目、味わい、そして匂い、それぞれ、単独でも、十分に食欲を誘うものだといってもいい。
しかも、人間は食事をしないと死んでしまう。
それは、もちろん、人間に限らず、どの動物もそうであり、
「弱肉強食」
という世界の中で、
「自然界の生態系」
というものがある。
それは循環しているもので、おおざっぱにいうと、
「動物が、植物を摂取する。そして、排せつ物が植物の肥料となり、植物を育てる」
というようなことが繰り返されることで、自然界が成り立っていく。
つまりは、バランスの問題だと言ってもいいだろう。
何かの種類が大量に異常発生をしただけで、
「自然界の生態系」
というものは、崩れてしまう。
それを分かっていることで、
「循環というものと、バランスというものがどれほど大切なことなのか?」
というのを考えるようになった。
さて、もう一つ考えられることとして、
「循環」
というものを否定するという印象になるのだが、それが、いわゆる、
「三すくみ」
という関係であり、この三すくみというのは、循環ではなく、バランスというものを重視した考えではないだろうか。
つまり、一つの種類の動物が大量発生などしないように、バランスを取るという意味で、三すくみの関係となる動物が存在している、
例えば、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
などがその例で、
「ヘビはカエルを食うがナメクジに溶かされてしまう。カエルはナメクジを食うが、ヘビに飲みこまれる。ナメクジはヘビには強いが、カエルには食べられる」
というものであり、自然界のバランスを取る意味で、決して無視できるものではないということだ。
そんな味覚の研究を、サイトウはするようになると、他でも、別の五感についえ、研究するグループができてきたのだった。
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