第5話 モスキート音

 聴覚の錯覚という意識で、錯覚ではないのかも知れないが、

「モスキート音」

 という言葉があるのをご存じであろうか?

「ある一定の年齢以上の人には、聞こえない音」

 ということなのだが、音の高さの中には、高音域になればなるほど、聞きづらくなってしまうということは往々にしてあるようだ。

「モスキート」

 というのは、

「蚊が飛ぶような音を表して、非常に高周波数の音」

 ということになるらしい。

 人間の耳の性質として、若い耳にしか聞き取れない音が限られてくるようで、それは周波数が高くなればなるほど、聞き取りにくくなるという。

 つまり、モスキート音というのは、

「ある一定の年齢の人以上には聞き取りにくい音だ」

 といえるのだ。

 だから、老人は平気であっても、若い人には苦痛で、ひどい場合には、両耳を塞いで、座り込んでしまうということもあるだろう。

 どうしてそうなるのか分からないが。感覚として、

「年寄りの耳には、耐えられない音なので、聞こえないようになっている」

 ということでないかと考えれば、信憑性もあるというものだ。

 確かに、人間は、聴覚だけではなく、五感すべてが、年を取れば、どこかしか、問題が起こってくるというものだ。それが、

「五感を感じる部分に限らず、人間の身体は、そのすべてが消耗品なのだ」

 といえるからだろう。

 特に、目や口の老化というのは、顕著なものだ。

 老眼になってきたり、歯がどんどん抜けて行ったりと、考えただけで恐ろしいと思えてくる。

 しかし、実際にその年になれば、襲ってくる老化現象も、最初は、ショックかも知れないが、最初から分かっていることなだけに、いかに自分が受け入れる心構えを持っていくかということを感じるであろう。

 耳に関しても、結構進み始めると消耗を感じるのは早いのではないだろうか?

 補聴器のようなものをつけて生活している人も結構いて、それまで、大きい音を嫌っていたはずの人が、自分から大きな音を立てても、気にならないのだ。

 それだけ、自分が意識しているつもりでできていないのだろう。きっと、まわりの人は耳のことを知らないと、

「年を取ってから、人に気を遣うことを忘れたのかも知れないな」

 と勝手に想像してしまうだろう。

 要するに、大きな音を立てても気づかないほどになってしまっているのだ。気づかないことを、

「可哀そうだ」

 とも感じるが、消耗してしまったことに気づいているのに、人への気遣いとのリンクが自分の中でできていないことに気づかないのだ。

 そんな状況が、高齢者には増えてくる。

 ということは、これだけ世の中高齢者が増えてくると、下手をすると、人に気を遣う人が減ってきて、皆がそれぞれに疑心暗鬼になり、そのうちに、自分すら信用できないという状況が、世の中のあちこちで見られるようになり、次第にある年齢から上と下とで、結界のようなものができるのではないだろうか?

 そして、時が過ぎていくうちに、その年齢が次第に上がってくる。これが、今の世の中での一番の問題の一つである。

「少子高齢化」

 という問題の側面なのではないだろうか?

 年を取るということと、

「年を重ねる」

 ということは違う。

 そこには、

「美しさがあるかないか?」

 ということが潜んでいるということであろう。

 さて、モスキート音を使って、研究を進めているところがあった。これは、日本ということではなく、日本と同盟国である、某国軍部であった。

 このように、

「限られた年齢にしか聞こえない」

 という音は、軍事目的にて、何かを行う場合に、実に都合のいいものだ。今あるモスキートの音源を利用したものでの、ステルス性の兵器の開発であったり、さらに、もっとモスキートの制度を高めることで、軍事行動に幅を持たせ、作戦の成功を高確率にするという目的を担っている。

 一度、このモスキート音の兵器についての情報が漏れたことがあった。某国国防相は、その事実を必死に隠していたが、その情報を盗み出した国家が、別の国への攻撃に使ったことで、もう隠しきれなくなり、世界に公表されることになった。

 そもそも、モスキート音に関しての研究は、

「かなりの範囲で、研究を行う余地があり、まだまだ未知数の研究となるので、漠然としたことしか、公表はできないだろう」

 と言われてきた。

 しかし、某国国防相の内密な研究は、ある程度の具体性を持った研究をしていて、それまで、

「モスキート音における開発は、割に合わない」

 と言われていたのだ。

 しかし、それを補って余りあるだけの研究によってシミュレーションされ、出てきた模擬結果は、

「想定をかなり上回るもので、軍事予算を他から割いてでも、研究を徹底的に行っていくだけの価値のあるものだ」

 と言われていたようだ。

 実際に日本でも、もちろん、軍事目的ではないが、研究が施されていた。どこか、動物の本質に迫るもので、ひいては、人間の本性をも見抜くだけの力が、この研究にはあると言われていた。

 もちろん、国家レベルでの開発はできなかったが、某国国防相と結びついている、某国大企業が、日本の企業に出資するという形で研究を行わせ、その出資に報いる形で、

「研究に成功するたびに、その研究結果を、その企業にだけ公表する」

 というものだった。

 そもそも、日本政府には公表できない。外国との企業とのこのような日本政府を無視した、単独の研究を許していないのが、日本政府だった。

 今後の研究費も、某国企業が協力してくれるという、すでに強力なパイプができたことで、

「国家体制と関係のない、民間企業同士の研究」

 というつもりだったが、実際には、某国国防相に、そのすべてが流れていくことになるのだった。

 特に現代における、陸海空という防衛兵器、さらには、攻撃兵器に、一番の重要性は、

「ステルス性」

 であった。

 敵のレーダーに引っかかることなく侵入し、さらには、そこから妨害電波を出すことによって、攻撃目標を定めることができず、下手をすると、空中戦というドッグファイトを演じている、自国の戦闘機まで、標的にしてしまいかねないからだ。

 何と言っても、今の時代は、ハイテクと言われるものによる戦争であり、実際の戦闘だけでなく、

「情報戦」

 と呼ばれるものが、その力をいかんなく発揮している場合がある。

「相手を攪乱し、内部からクーデターを起こさせる」

 という、いわゆる諜報活動なるものは、実際に昔から行われていた。

 しかも、古代の戦争から、全世界で繰り広げられたといってもいい。

 それも一種の作戦で、それが功を奏して、

「戦わずして、相手に戦意を喪失させ、無血によって、戦争に勝利する」

 などということも、結構あった。

 そんな時、無血で相手を屈服させるような戦術を用いた指導者を、

「英雄」

 としてたたえることで、戦争の正当性が訴えられたり、相手国にプレッシャーを与えるなどという国家体制が営まれている。

 それを思うと、ステルスという発想も、今に始まったことではないだろう。

 日本でも、戦国時代を中心に、

「忍者」

 というような集団が組織され、それぞれの流派があったようだ。

 伊賀忍者、甲賀忍者、さらには、後北条氏の、

「お抱え」

 のようになっている、

「風馬忍軍」

 などというのも、その例であろう。

 忍者の郷というのも、全国にはいくつもあり、

「忍者屋敷」

 と呼ばれるものも少なくはない。

 かつて、金沢でいった忍者屋敷も、床の間の隠し扉などの仕掛けが施されていて、どこの忍者屋敷も人気なのか、拝観には、予約制のところが多い。

 ただ、理由としては、解説付きの拝観というサービスも多いだろうから、そういう意味で解説者に限りがあることから、予約制も致し方のないことだと言えるのではないだろうか?

 そんな忍者というのも、修行が大変で、元々、忍者の修行をして、どこかの大名に取り入らなければ、生きていけないという事情があるのだろう。

 本当なら百姓をして、年貢を納めてというのが、本来の生き方だったのだろうが、ひょっとすると、その土地では、農作物が育たないところであり、下手をすると、自分たちの食料だけで、精いっぱい。年貢どことではなかったのかも知れない。

 そういう意味で、その土地に住んでいる人間が生き残るためには、

「いかに、自分たちの個性であったり、肉体を生かして、主君に奉仕するかということしかないわけだ」

 といえるだろう。

 幼少の頃から、忍者としての修行は厳しく、それこそ、生死を分けるような訓練を幼少の頃から続けてきたのではないだろうか?

 そういう意味で、忍者の掟は厳しいという。

 ドラマなどで出てきた忍者の掟は、それはそれは厳しいもので、まず、相手に捕まると、こちらの存在は、味方は、認めてはくれない。捕虜にでもなってしまうと、処刑されることをほぼ覚悟しなければならないだろう。

 しかも、相手の秘密を白状させるために、この後自分に待っているのは、苦痛でしかない、

「拷問」

 なのだ。

 自分は、もう助かることはない。ハッキリ言って、味方からは見捨てられた存在だ。しかも、味方のことを話せとばかりに、想像を絶するほどの拷問が待っている。しかし、それに耐えて、何も言わなかったとしても、自分が助かる見込みはない。

 下手をすれば、拷問によって、殺されるのを待っているだけになってしまう。そんな状態なのに、自分を見捨てている味方なのに、秘密を守らなければいけないというのは、理不尽でしかない。

 もちろん、

「相手に捕まったら、拷問を受けても、殺されても、こちらの情報を流さない」

 という鉄の掟がある。

「忍者が味方を裏切った」

 などという話は聞いたことがない。

 果たして、本当にそうなのだろうか?

 保身のために、自分が生きることは、卑怯とは言えないかも知れない。忍者の郷の教えでも、

「相手に捕まれば、もうそれは捕まった人間が悪いわけで、郷の方としては、一切の関与を否定する」

 と言われてきた。

 そんな悲惨な運命しか待ち受けていない人生、そこに何があるというのか、もちろん、そこに明るい希望などがあるはずもなく、決められた一生をいかに生きるかということで、自分がそうなるのか、すでに、決まったようなものではないか。

 その中でいかに、任務を全うするかということが重要で、あまりにも生き方の違う君主との間に、いかなるギャップがあるというのか、それが問題だった。

 もっともこの時代は悲惨なのは忍者だけではなく、足軽から農民、さらいは主君であっても、生きた心地のしていない。考えているのは、

「最期を迎える時は武士らしく、最期を迎えたい」

 という、皆唯一の共通点なのではないだろうか?

 そんな忍者も、

「音を立てない」

 ということには注力していた。

 中には、自然の音に足音を紛れ込ませるというような、いわゆる、

「木を隠すなら、森の中」

 であったり、

「ウソを隠すなら、本当のことに紛れ込ませればいい」

 と言った考え方に準拠したかのような方法であった。

「ひょっとすると、モスキート音というものと、他の音を紛れ込ませることで、さらに、もスクートの効果が発揮されるかも知れない」

 と考えた学者もいた。

 しかし、それをそのまま実行したのであれば、うまくいくものもうまくいかないと考えていた。

 なぜなら、モスキート音は、そもそも、聞こえない音だからである。下手に他の音とそおまま紛れらせると、今までモスキートだと分からずに意識することもなく、音の存在だけを認識していた若い連中が、不審に思うかも知れないからだ。

「認識はしていても、意識していないという状況は、ステルスの状況を十分に果たしている」

 といえるだろう。

 それを下手に意識させることで、それまでの、意識していなかったことが、違和感から意識に向いてしまうのであれば、それは大きな問題であろう。

 モスキート音の、ステルス効果は、何も、認識させないところまでを求めているわけではない。

「認識されても、意識させなければ、それはまるで自然界の中の音として、余計なことに考えが及ばないのだ」

 といえるだろう。

 しかも、最近の研究の中で、

「モスキート音は、五感の機能をマヒさせる効果があるのではないか?」

 と言われていたりもする。

 もちろん、これは研究自体が、国家の最高機密部門にあたるので、そんなことを誰も知る由もないことだろう。

 だから、そのモスキートが、聴覚以外のどこに影響を与えるのかという研究が行われる中で、今、世間で、モスキート音というものが、注目されることを恐れた。

 そもそも、コウモリのように、音波を出して、その物体の反射で、その距離を知ることができるというのは、視覚というものの、メカニズムとも似通っているのではないかとも思えるのだった。

 人間が、立体感を感じ。距離とバランスを図ることができることで、視界というものが、

「まわりのものを見る」

 ということだと分かれば、見えていることが不思議でも何でもないという理屈が成り立つだろう。

 しかし、見えていたものが、急に見えなくなるとどうだろう? 目の前のものが見えない。何も認識できない闇が襲ってくると、それが、

「目が見えない」

 という自分だけのせいなのか、あるいは、

「暗黒の世界が襲ってきた」

 という、原因は自分ではなく、まわりのせいだと考えると、どちらがマシなのか、無意識に感じようとするかも知れない。

 しかし、考えれば考えるほど、どちらも、絶望にしか行き着かないことが分かってくる。自分だけが原因であれば、

「一度見えなくなってしまうと、その回復はほぼ見込めない」

 という現代の医学で考えると見えてくるのは、絶望の二文字しかない。

 自分の目は問題なくとも、まわりが暗黒に包まれているのであれば、それこそ、もうどうにもならない。なぜなら見えないのは自分だけではなく、まわりの誰にも見えないからだ。

 まわりが自分のために気を付けてもらえるようにすれば、自分のまわりだけは、人の助けで、生活していくことができる。しかし、まわりを含めての全滅であれば、誰が救いの手を差し伸べてくるというのか?

 しかも、その被害の範囲がどこまで広がっているのか分からない。何しろまわりが、一切見えないからだ。モスキートを使えば、気付かれずに近づいて、暗黒の世界を作ることで、自分たちだけはモスキートに守られて、支配できるのではないか?

 という考えでもあった。

 まるで、毒ガスが充満している中で、ガスマスクをつけているかつけていないかという問題に直面した時、

「ガスマスクを供給するから、我々が支配者だ」

 といって脅せば、少なくとも、一気に全滅は防げるだろう。

 その間に、策をめぐらせて、空気を浄化させることで、いずれは、自分たちの領土を取り戻せるという考えも浮かぶ。何しろ、そこは自分たちの土地であり、神のご加護の、

「地の利」

 というものがあるからではないだろうか。

 ただ、ガスマスクをつけていると、実に生活は不便だ。

「毒ガスが入ってこない」

 というだけで、昔、第一次大戦の時に毒ガスというものが開発され、実用化されたが、その時にその防御として付けたガスマスクというものが、かなり陳腐なものだったという。

 それもそのはず、毒ガス開発が成功して、いきなり実践で使用され、その恐怖が世界を震撼させたことで、ガスマスクの需要が必須となった時、まず考えるのは、

「ガスが入ってこないマスクを、一刻も早く作り、兵や市民に供給する」

 ということであった。

 そのために、供給された防護マスクというものは、あまりにも早急に作ったため、不慮品であったり、さらに、その使用方法も、確立されていなかったりしたことで、

「ガスを吸って死ぬよりも、マスクの装着に手間取ったり、間違った装着をしてしまったことで、窒息死した」

 という事例が目立ったのだった。

 そもそも、その頃は、毒ガスは戦場でしか使用されていなかったのに、戦争で占領された地域では、配られたマスクを、

「いつ、毒ガスがまかれるか分からない」

 ということで、みんなが、やり方も伝授される前に恐怖から、先走って使用したことで、窒息者が続出したこともあったという話を聞いたことがあった。

 やはり、当時の情報は、有事ということもあって、かなり錯そうもしていただろうし、デマも多かったことだろう。

 そんなこともあって、そもそも、第一次世界大戦においての認識は、兵も一般市民も、かなり甘く見ていたと言われている。

 四年近く続いた戦争だったが、そもそも、

「数週間で、ケリがつく」

 と、ほとんどの人が信じていたという。

 当時の戦争は、いわゆる、

「塹壕戦」

 と呼ばれるもので、自分の陣地に塹壕という穴を掘っての持久戦というのが、その実態だったのだ。

 そのために、雨が降れば、ドロドロの土地にずっと、待機することになり、その場所から、動くこともできず、最悪の生活環境のために、脚気に掛かったりする人が多かったという。

 今でこそ、脚気などという病気を耳にすることもなくなったが、昔は、致死率が非常に高い、

「不治の病」

 の一つに数えられていた。

 食料も弾薬もいずれは尽きるであろうと、普通に考えられる塹壕という持久戦、近い将来、必ず訪れる、

「死の恐怖」

 と、

「病気に対する恐怖」

 とで、頭の中はパニックになっていたことだろう。

 かといって、ただの捨て駒でしかない一兵卒に、何ができるというわけではない。できることといえば、上官の命令にしたがって、戦闘を遂行し、そのうちに必ず訪れるであろう、

「死」

 というものを受け入れるしかないのだった。

 戦争とはそういうもの、相手を殺すために開発されたわけではない兵器も、下手をすれば、防御のための兵器といえど、下手をすれば、自分の命を自らで奪ってしまいかねないということを、十分に認識しておく必要があるということであった。

 今の世の中でも、言えることではないか。

 特に、最近世界を震撼させている、

「伝染病によるパンデミック」

 である。

 日本においては、ほとんど今までになかったことだった。

「戦後以来の大混乱」

 ということは、日本国としては、初めてということである。

 大日本帝国においては、戒厳令というものが存在した。

「天災や災害などのパニックが起こった時、国家がその治安を維持するため、都市の封鎖を行ったり、個人の自由を著しく制限したりできるもので、そのために、

「戒厳司令部」

 なるものが置かれたりした。

 かつての、大日本帝国は、有事というものを前提として構成されていたので、普通に国家の権限で、戒厳令を出すことができる。

 しかし、今の日本は、その日本国憲法において、平和憲法であるということと、基本的人権を尊重するということが、原則として含まれているので、

「有事は存在しない」

 という前提で作られている。

 つまり、

「大日本帝国下では、戒厳令が存在しない」

 ということになるのだ。

 そのため、他の国が行っている、

「ロックダウン」

 と言われる、都市封鎖は日本では行えない。

 以前、特別法の類として、伝染病が流行った時のような場合、

「緊急事態宣言」

 というものを発令できることになった。

 ただ、それは、命令ではなく、国家からの要請でしかないので、当然、守らなかったかといって、罰則規定は存在しない。

 しかし、実際に、パンデミックが日本にも起こり、緊急事態宣言が発令された時、罰則がないといえども、要請をほとんどの人たちが守った。

 中には守らない人たちもいたが、

「そんなものに従っていては、明日の生活もままならない」

 つまりは、翌日の食べ物も得ることができないというほどに切羽詰まった人が、かなりいるということだ。

「要請にしたがった時点で、死を意味する」

 という人たちは、相当数いたはずだが、それでも従う人は従った。

 しかし、それでも、どうすることもできずに店を開けると、

「あの店は、要請にしたがっていない」

 といって騒ぎ立てる連中がいる。

 それを、いわゆる、

「自粛警察」

 と呼んで、社会問題にもなった。

 賛否両論さまざまだったが、賛否のどちらが正しいのかということは、そう簡単に結論が出るものでもない。

 賛否それぞれに考えがあり、そのどちらの言い分も、一長一短ある。

 本当は、そういう意見をすべて出し合い、何が正しいのかということを追求するのが正しい道なのかも知れない。

 しかし、結果、結論など出るわけはなく、堂々巡りを繰り返すだけだと思っている人もいる。

 つまり、

「自粛警察なるものの言っていることは、確かに間違っていないが、パンデミックで混乱している今出てきている問題だからこそ、キチンと向き合って、その結論を求めるのが本当なのだろうが、どうしても、先に感情論が出てしまうことで、堂々巡りを繰り返さないようにしなければいけないということを必要以上に考える必要があるのではないか?」

 と思うのだ。

 ただ、一つ言えることは、自粛警察を煽っている悪が存在している。平和な時はさほど鼻につくことはないが、何かが起これば、

「これほど、億劫なものだったのか?」

 と思えるのが、マスコミである。

「いや、やつらは、マスコミではなく、マスゴミなのだ」

 と、ゴミ扱いすることが、ある意味、悪に対しての正論なのではないかと思うのだった。

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