第4話 卑怯なコウモリ

 また、音の錯覚として、よく言われていることといて、

「電子音というのは、どこが発生元なのか、すぐには判断できない」

 というのがある。

 例えば、アラームであったり、電話も音であったり、いわゆるデジタル系の音は、音波だけではなく、電波というのも影響してくるからであろう。

 以前、テレビでやっていた、二時間サスペンスドラマのトリックで、電子音についての話があったのを思い出した。

 あの頃は、

「電子音って、結構今が旬の話題だよな」

 と思ったことから、かなり昔のことではなかっただろうか?

 そろそろ40歳近くになろうとしているサイトウが、ちょうど高校生くらいだったから、20年くらい前のことだろうか?

 携帯電話のガラケーが、ほとんど普及してきていて、着メロなどという電子音が流行った時代だったこともあって、そういう意味で、旬なトリックだったのかも知れない。

 あの頃のサスペンスドラマは、どちらかというと、

「錯覚」

 というのをテーマにしたのが結構あったような気がする。

 あくまでも、サイトウが感じたものであって、

「個人の意見」

 の域を出ないのだが、どうしても、トリックが本格的であれば、そこからストーリー性を考えて、見入ってしまうことも多かったりする。

 というのも、ちょうどその頃、ミステリーに嵌っていた。しかも、本も結構読んでいて、読んだ本はある意味極端ではあった。

 当時の二時間サスペンスの原作になりそうなもので、いわゆる、

「トラベルミステリー」

 であったり、

「京都老舗ミステリー」

 というような、

「この作家なら、このジャンル」

 なるものが確立されていた。

 それが一種の時代だったのかも知れない。

 そして、他に読んでいた小説は、また打って変わって、時代がかなりさかのぼるものだった。

 時代背景としては、明治末期から、戦後すぐくらいの小説で、当時は、

「探偵小説」

 という呼ばれ方をしていた。

 いわゆる、推理小説、ミステリーと呼ばれるものの、

「黎明期」

 といってもいいだろう。

 いわゆる、

「日本三大名探偵」

 と言われる二人までもが、当時人気で、しかも、作者がお互いに仲がいいというのは、少しほほえましい気がした。

 そのうちの一人は、編集者も兼ねていたので、一人が活躍中は、もう一人が編集者としてサポートするというような仲だったようだ。

 彼らは、完全に、推理小説界のレジェンドといってもいいだろう。

 黎明期でしかも、戦時中からの、軍事統制がかかり、出版物の廃刊などが頻繁で、特に、探偵小説などは、ほとんど、廃刊になっていた時代だった。

 そもそも、探偵小説というのは、海外から渡ってきたものが主だった。

 いわゆる、

「シャーロックホームズ」

 のような探偵が有名で、今と比べると、結構、本格的なトリックを使った小説が多かった。

 日本に渡ってきてから、日本でも、

「本格探偵小説」

 を書こうとした作家が、

「すでに、トリックは出尽くしているので、これからは、バリエーションの時代だ」

 といわれるほどになっていた。

 特に、シャーロックホームズもののトリックは、誰もが認めるものであろう。

 そんな時代のミステリーは、明らかに今とは違っている。昔使っていたトリックが今では使えなくなったり、逆に、今だからこそのトリックというのもあるだろう。

 たとえば、死体損壊という意味で、

「顔のない死体のトリック」

 などというものがあるが、これは、顔を潰したり、指紋がある手首を切り取って、被害者が誰だか分からなくするというものであるが、今であれば、DNA鑑定をすれば、すぐに被害者の身元も分かるだろうから、なかなか通用するものでもない。

 また、アリバイトリックなどでも、今の時代は、いたるところに、防犯カメラやライブカメラが設置されているので、それらのカメラに映らずに、犯行を行うというのは、ある意味無理といえるのではないだろうか?

 そういう意味で、昔からあるトリックが今は科学捜査や、時代のニーズによって、犯行ができない環境が整ってきたといってもいいかも知れない。

 しかし、先ほどのように、電子音であったり、スマホやケイタイなどの普及が行われたことで、それを犯行に使うというのも、新しい手法である。

 だが、そんな中で、人間の五感という、

「人間には不可欠なものは、今も昔も変わらない」

 ということで、トリックとして考えるのは、無理ではないのかも知れない。

 そういう意味で、今から20年くらい前のサスペンスは、それなりに面白かったような気がする。

 逆に、本格探偵小説を読んでいたこともあって、どうしても、映像作品ともなると、面白みに欠けるところがあった。

 原作と、映像化された作品では、ほぼ、原作の方が面白いと言われている。

 これが今の時代のように、

「原作はマンガが主流」

 と言われる時代であれば、そこまで映像作品が劣っているような感じがしない。

 これも、人によってとらえ方が違うのだろうが。

「マンガは作家の絵の個性が強く出るので、実写化すると、皆普通の人間なので、個性がないように見える」

 といってもいいだろう。

 しかし、原作が小説であれば、元々絵というものは存在しない。文章からいかに想像するかということだが、かなりの想像力を必要とするだろう。

 そのため、映像作品との開きやギャップは激しいといってもいい。だから、映像作品は、どうしても、原作を想像したという、どこか、

「やり切った感」

 があるのは、間違いないことであろう。

 ただ、電子音をテーマにした作品は、後から聞いた話だったのだが、あの作品には原作者はおらず、いわゆる、

「脚本家のオリジナル書下ろし」

 だったという。

 しかも、トリックに関しては、音声スタッフの話から発想を得たということだった。

 音声スタッフも、まさか、自分の一言がサスペンスドラマのネタになるとは思っていなかっただろう。

 その頃の二時間ドラマは、脚本家のオリジナル書下ろしも結構あったようで、この時のように、スタッフなどからの情報が、作品を完成させる十分な力になっているようだった。

 この時の電子音のトリックというのが、家の呼び鈴を使ったもので、本当は鳴らしていないのに、他の場所で鳴らしたという、時間差トリックに似たものだった。

 これも、錯覚を利用したトリックだといってもいいだろう。

 さすが、音声スタッフがヒントを出しただけのことはある。ある程度、そのスタッフに、電子音についてのことも聞いただろうし、いろいろ調べもしただろう。

 当時は、ネットで調べるということが、やっと浸透してきた頃ではなかっただろうか?

 それだけに、ネットでいろいろ調べ始めると、本を読まなくなったり、手間暇をかけるということをしなくなったりするだろう。

 本当は、ネットだけではなく、ネットには載っていない文献などが、図書館にあったりするので、そちらも並行して調べないといけなかったりするだろう。

 特にミステリーなどのシナリオを書いたりする人は、一般大衆、つまり不特定多数が、視聴者なので、

「ウソを書くわけにはいかない」

 というものだ。

 小説などで、実際に難しいのは、歴史小説などがそうではないだろうか?

 小説の中で、

「歴史小説」

 というものと、

「時代小説」

 というものがあるが、その違いを果たしてどれだけの人が分かっているというのだろう?

 基本的に、歴史小説というのは、史実に基づいたものであること、登場人物はもちろんのこと、主従関係であったり、何よりも、時代考証が間違っていれば許されることではあい。

 そういう意味で、ノンフィクションに近いフィクションが、歴史小説なのだ。

 時代小説というのは、逆にフィクションである。主従関係が狂っていてもかまわないし、いわゆる、先述の、

「パラレルワールド」

 であっても言いわけだ。

 と言いながらも、基本的には史実に則って書かないと、読んでいる人に伝わらない。すべてをウソで塗り固めるというやり方もありなのかも知れないが、それは、実に勇気のいることではないだろうか?

 歴史というものに、

「もしもというのは、ありえない」

 と言われる。

 なぜなら、もしも、その時に歴史が変わってしまえば、すべての背景が変わってしまうということで、それこそ別の世界に飛び出すことになる。小説であれば、どこまでが本当でどこまでが、架空の話なのかが分からなくなると、下手をすると、読んでいて、おもしろくないと思われるかも知れない。

 歴史をまったく知らない人なら、まったくのフィクションで見ることができるが、なまじ歴史を知っている人は、

「俺は博学なんだ」

 と思って読んでいる人がいると、白けてしまう。

 いや、そもそも、時代小説や歴史小説を好んで読もうという人は、

「まず歴史好きだろう」

 と思ってもいいのではないだろうか?

 歴史好きな人は、基本的な史実はある程度までは知っている。そして、大体の史実を頭の中でシミュレーションすることだろう。

 しかし、読み進んでいくうちに、まったく史実と違った内容であることが分かってくると、次に感じるのは、まるで、

「異世界ファンタジーでも読んでいるようだ」

 と、たぶん、

「パラレルワールド」

 を頭の中に思い浮かべることだろう。

 それを考えると、

「どこまで行っても、自分がドキドキするようなストーリー展開にならない」

 と思うと、

「何だ、この本は。騙された」

 と思うに違いない。

 それだけ、歴史という過去の事実は重たいものであり、そこをおろそかにしてしまうと、「ファンが離れていく」

 と思っていいだろう。

 小説の世界というのも、そういう意味で、もし、ウソで固めたとしても、面白ければ、そして読者が納得すれば、ファンタジーでも構わないのだ。

 だが、サスペンスドラマともなると、そうもいかない。少なくとも理論的に間違っていないということでないと、そもそもの、お話にはならないからだ。

 トリックというのは、

「その前提となる科学的な理論が間違っていない」

 ということが、最初にあり、そこからストーリーが考えられる。

 もっとも、ストーリーを考えるのが先か、トリックを考えるのが先なのかというのは、どちらが先でも別にそこに間違いはない。

 それこそ、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という理論であり、結果として、

「どこを切っても金太郎」

 と言われる金太郎飴のように、グルっと一周する形のものであれば、どこがスタートでも同じことだ。

 考えてみれば、ミステリーというのは、書き出しによって、いろいろな種類がある。つまり、最初に犯人が誰かということを示しておいて、探偵や刑事が、

「いかに犯人を追い詰めていくか?」

 というストーリー展開であったり、

 トリックも犯人も分からずに、事件が時系列に沿って進んでいくという、オーソドックスな話だったりする。

 前者の

「犯人が最初から分かっている」

 というパターンは、時系列がバラバラになることは、大いにあることである。

 ただ、まず最初に、犯行が行われ、その後で死体が発見されるというところからの時系列なのか、後者のように、犯行に関しては、謎解きの場面でしか見ることができないが、その分、最初から、つまり、死体が発見されたりするあたりからは、時系列に沿って流れていかないと、実際の謎解きの場面で、矛盾が生じてきたり、読者を混乱させることになったりする。

 ミステリー小説というのは、いくつかのタブーがあると言われている。代表的なものとしては、

「犯人を最後に登場させてはいけない」

 というもの。

 つまり、読者が、謎解きを楽しむ時間を与えず、いきなり探偵が出てきて、それまで出てきていない人物をいきなり、

「こいつが犯人だ」

 などというと、タブーでなくとも、読者からすれば、

「騙された」

 と思うに違いない。

 意外性の驚きであればいいのだが、この場合のように、反則行為であれば、許されることではない。

 そういう意味で、最期に謎解きを残しておく場合には、ある程度まで時系列に従う必要があるだろう。

 あからさまに、解決から時計を巻き戻すような書き方は、違反だということである。

 さて、そういうものを、

「ノックスの十戒」

 あるいは、

「ヴァンダインの二十則」

 と言われたりする。

 後は、

「超自然的な能力を用いて、探偵活動をしてはいけない」

「秘密の抜け穴、通路が二つ以上ある」

 などがそうであろう。

 また、十戒の中にも書かれているが、トリックの種類の中で、

「双子、一人二役はあらかじめ、読者に知らされなければいけない」

 とあるが、一人二役は、分かってしまった時点でトリックではなくなってしまうので、少なくとも、ヒントのようなものを、作中に伏線として、入れておけばいいという考えではないだろうか?

 ミステリーは、かなりの束縛があることから、書くのは難しいと思われるが、考えてみれば、ミステリーというものを書こうとした前提として、これらのことは、ある意味、

「常識」

 として捉えるということになるのではないだろうか?

 電子音がキーポイントになっているのだとすれば、それは一種の、

「音波」

 という考え方に密接にかかわっているような気がする。

 音波というものがなければ、生きていけない動物がいる。それは、自分で物を見ることができず、いつも暗闇で暮らしながら、しかも、群れを成している。相手とぶつからないように済ませるには、お互いに相手を見分ける能力であったり、空を飛ぶことで、危険のないようにするための能力を必要とする。

 その動物というのは、他ならぬ、

「コウモリ」

 であり、コウモリというのは、いろいろな意味で、注目されるものだった。

 たとえば、イソップ寓話の中に、

「卑怯なコウモリ」

 という話が出てくる。

 鳥と獣が戦争状態に陥り、コウモリはその時、

「獣に対しては、自分は身体中に毛が生えていることを理由に獣だ」

 といい、

「鳥に対しては、羽根が映えていることから、自分を鳥だ」

 といい、それぞれにいい顔をして、逃げ回っていた。

 しかし、戦争が終わり、平和になると、鳥と獣の間で、コウモリの話が出た時、

「やつは卑怯者だ」

 というレッテルを貼られることになった。

 そういう意味で、コウモリは、森を追われ、暗い洞窟の中で、夜しか活動できないということに追い込まれてしまった。

 そのせいで、目が退化してしまい、目が見えなくなった。そのため、聴覚だけは異様に発達したおかげで、

「超音波によって、自分の存在や、まわりを見分けることができる」

 というようになったのだ。

 これも、音が、波であるということからできることであり、逆にそんなコウモリの生態を研究することで、ドップラー効果が発見され、スピードガンのようなものが開発されることになった。

 これも、コウモリの生態を研究したおかげだと言えるのではないだろうか?

 音波のようなものを自分で発信し、その反射で、距離を測ったり、スピードを図ったりする。まさに、ドップラー効果が、波長であることで、実践化された、道具や兵器と同じではないか?

 そんなことを考えると、

「錯覚というものが、一つの文化を生むと言える」

 とも考えられる。

 コウモリの性質を、逆にたどって、作った話が、

「卑怯なコウモリ」

 であるとすれば、あのような話にしなければ、逆に、

「コウモリという動物が、他の動物にはない、超能力を持つことで、生きている」

 という証拠にもならず、この証拠が証明されることで、超能力の存在をも、肯定するということになると言えるのではないだろうか?

 そこに、利害関係が結びつくことによって、物語が、都合よく改ざんされたのだとすれば、他の物語も同じような都合のよさから生まれたのかも知れない。

 そもそも、おとぎ話や寓話というものは、どこか、教訓めいたものがあり、そこに、利害が結びついていると考えるのは、一番都合がいいのではないだろうか?

 そもそも、どこかの権力を証明したいという考えから作らせたものが、寓話だとすれば、理不尽かも知れないが、世の中をまとめていくうえで、必要な悪、つまりは、

「必要悪」

 と呼ばれるのではないかと思うのだった。

 コウモリというのは、その卑怯と言われたことから、他の物語でも使われるようになる。特に、相手によって態度を変える、日和見的な、風見鶏のような身の軽さは、ある意味、

「一番、人間臭い」

 といえるのではないだろうか?

 人間に例えられるのも、そのせいであり、ある意味、

「人間になりきれなかったロボット」

 という意味でも、コウモリが題材にされる話もあったりした。

 そういえば、吸血鬼ドラキュラというのも、コウモリ男爵のようなものではないだろうか?

 そんなコウモリの話が出てきたのは、あるロボット開発の小説の中でのことだった。

 その小説は、今から、40年くらい前の、SF小説がブームであり、日本でも数人のSF作家が活躍していた時代だったが、それほど有名ではなかった作家ではあったが、それがSF小説黎明期だったこともあってか、本来なら、

「もっと注目されてもいいはずの作家だった:

 と、この話を教えてくれた高校の時の先生を思い出していた。

 先生から本を借りて読んでみたのだが、ちょうど、その頃、ロボット開発において、

「ロボット工学三原則」

 の話が話題になることがあった。

 元々、この、

「ロボット工学三原則」

 というのは、物理学者だったり、工学者が提唱した話ではなく、いわゆる、アメリカのあるSF作家によって提唱された、

「小説のネタ」

 だったのだ。

 というのも、元々の発端として、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものがあり、

「理想の人間を作ろうとして、怪物を作り出してしまった」

 ということで、ロボット開発に警鐘を鳴らす作品があった。

 つまり、人間よりも強靭なボディや、強力な力を持っていることで、人間を苦しめる存在になるというものだが、その話があるため、ロボット開発を行う上で、

「人間に、危害を加えないことや、人間の命令に従順となる」

 という三原則を、あらかじめ人工知能に埋め込んでおくという考えであった。

 しかし、この考えには、それぞれに、絶対的な優先順位が存在し、その順番が矛盾を孕むことで、できあがるハプニングをSF小説として描いたものだった。

 そこから、

「ロボット開発には、ロボット工学三原則の理論が絶対に必要となるが、問題となる優先順位に、矛盾が起きないような人工頭脳を埋め込む必要がある」

 ということで、ロボット研究においても、矛盾が起こらない開発が研究されたり、逆に、SF作家は、その矛盾をいかに小説にするかということを研究していたのだ。

 きっとSF作家は、いつまでも、ロボットというものが、SF、つまり、サイエンスフィクション=科学空想物語であるということを願っていたのではないだろうか?

 実際に、小説家や、マンガ家が、SF関係の話を書く時、その根底にあったものは、ロボット工学三原則であった。

 不完全なロボットが、人間界においての葛藤を描いた時、コウモリロボットが出てきて、

「俺は、博士の作った中途半端な回路のせいで、人間にいいように扱われ、利用されてきた。人間ほど恐ろしい動物はいない。動物は生きるために、他の動物を殺すが、人間は欲のために、平気で人間をも殺す。そのくせ、神や仏を信じているのだから、それこそ矛盾というものではないか?」

 とコウモリロボットはいう。

「俺たちのことを人間は、卑怯なコウモリなどという話で、揶揄しているが、何てことはない。自分たちの性質を、俺たち動物になぞらえて、自分たちは、その中でも一番だというようなプライドをひけらかしながら、その実、自分たちの正当性を示すために、動物の本能を都合よく当てはめて、利用する。我々コウモリなど、いい迷惑もいいところだ。日和見だったり、強い方に靡くなどという性格は、人間ならではというもので、俺たちばかりが、神から罰をうけ、コウモリなどは、暗いところでしか暮らせなくなった。しかし、人間はどうだ? 罰を受けることもなく、世の中で、自分たちが一番優秀な動物だということで、まるで風を切って歩いているではないか? これほど理不尽なことはない。人間の人間臭さというものが、一番醜くて、卑怯なものではないのだろうか?」

 とコウモリロボットはいうのだった。

 この言い分は、何もコウモリロボットだけに言えるものではない。どれだけの動物が、人間が想像する性質の動物として利用されたことか。

「ウサギとカメ」

 あるいは、

「アリとキリギリス」

 のように、動物同士の比較はあるが、人間と他の動物の比較はない。

 それだけ、人間は、他の動物と違って別格だということになるのだろう。

「お前たち人間というのは、そんなに偉いのか?」

 と、コウモリは喋れない言葉で、叫んでいるかのようだった。

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