第3話 電子音の錯覚
教授は結構強い方であったが、あまり強くないサイトウでも、今日の中身の濃い会話自体に酔っていたことで、それほど、最初は酔っていることに気づかなかった。しかし、元々弱いということもあって、酔いが回ってくると、一気に来るのは、しょうがないことのようで、尿意を一度もよおすと、堰を切ったかのように、何度もトイレに行きたくなる時の感覚に似ている。
それも、やはり、酔いが深い時だというのも、皮肉なものだといってもいいかも知れない。
話の内容によっては、それほどの酔いがひどくない状態であったのだが、いきなり来るというのがどういうメカニズムなのかと思っていたが、その日は、自分でも分かっているような気がした。
サイトウが最近気になっている研究に、
「例えば個室などで、異臭がした時、どこからくるものか調べようとして、中に入った時、すぐにその臭いに慣れてしまうのか、どこから来ているものなのか分からなくなってしまう」
ということがあるとする。
「そんな時に、どうしてそのように、まるでわざとでもあるかのように、はぐらかすとでもいえばいいのか、発見しなければいけないことが発見できない原因が、どうやら人間の本性にあるのではないかと思うと、皮肉な気がしてくる」
と考えるのであった。
人間社会において、そのような、皮肉めいたことというのは結構あるもので、それが、身体が感じる、
「五感」
というものに、直結しているのではないか?
そんな考えを持っているのは、サイトウだけではない。
かくいう教授もその一人で、少なくとも、教授の研究員のほとんどは、そうなのであろう、
ゼミ生の中にも、
「明らかに、それに類する人はいるのではないか?」
と思える人も結構いて、
「その発想が学者を目指している研究員には、大切なのかも知れない」
と感じるようになっていた。
今日の教授との話の中で、
「四則演算の法則」
のようなものを、まさか、理論物理学の世界や、宇宙論にまで発想を伸ばせるとは思っていなかっただけに、考えただけで、すごいと感じるのだった。
それにしても、自分が研究に勤しんでいる内容が、人間の本質と重なっているというところがもどかしい気がする。
例えば、一番厄介な考え方が、
「慣れ」
というものである。
この考えは、ある意味、難しい発想だといってもいいだろう。
慣れというものは、ある意味、恐怖であったり、苦痛などという、ネガティブで、継続性のあるものの代表ではないだろうか? もちろん、
「一瞬で終わる」
ということがハッキリと分かっていて、それが証明されているものだとすれば、それは、そこまで考えることはないだろう。
どんなに苦痛であっても、恐怖であっても、一種で終わるものを、それほど、恐怖とも苦痛とも思わないからだ。
だが、一つ問題として、
「夢の中での出来事」
という発想がある。
「夢で、どんなに苦しくても不安であったとしても、目が覚めてしまうと、その感覚はまったく残っていない」
それは、
「夢の世界と現実世界がまったく別の世界に存在しているからではないか?」
と考えられるが。それだけではないような気がする。
そこに、継続性がないからだと最近のサイトウは思うようになっていた。
つまり、
「夢というのは、どんなに長いものでも、一瞬で見るものだ」
という話を聞いたことがあるが、まるで、それを証明しているかのような発想に、自分で酔っているくらいに感じていた。
さらに、夢というものを調べてみると、
「夢というものは、どんなに長いものでも、目が覚める寸前の、数秒で見るものだ」
と言われているという。
この話は、今調べたから初めて知ることができたわけではなく、かなり昔。そう、子供の頃に誰かから聞かされた気がしていた。それも、幼い頃の遠い記憶なので、誰だったのか思い出せない。
しかも遠い記憶には、その距離が次第に曖昧になってくる。
遠ければ遠いほど、それぞれの距離が離れていても、こちらから見ると、微々たる郷里にしか見えないのだ。
ただ、最近は、時間の感覚がマヒしてきているように思えて仕方がない。
それは、
「若年性健忘症ではないか?」
と言われるかも知れないと感じるほどの極端に感じるほどで、
「昨日のことなのか、今日のことなのか分からない」
というほど、ひどいこともあるくらいだった。
ただ、それも、毎日が同じような感覚になっているからではないかとも感じている。
研究所で毎日同じルーティンを繰り返していると、そのようなことになりかねない。
というのも、
「やっている研究は、毎日、牛歩ではあるが、着実に前に進んでいて、やりがいはある」
と思っているのだが、一日の中の一つの行動とすれば、毎日代わりのないことなのだ。
充実はしているが、それは研究所内だけのことであって、一歩表に出ると、やっていることは同じだと思えてならないのだ。
これも、一種の、
「慣れ」
というものではないだろうか?
臭いに慣れてしまうことで、異臭を見つけることができないという負の連鎖をいかに解決することができるか。つまり、それを人間の中にある自浄効果のようなものが働いて、無意識のうちに、自浄できる自分を作り上げたいと考えることができれば、そこから先、止まっているであろう研究が、自分を中心に花開いていくのではないかと思うと、感無量となるに違いない。
そんな、
「慣れ」
というものが、負の連鎖、つまり、
「負のスパイラル」
を形成しているのだとすれば、そこで連鎖をぶち破る何かが必要だということになるであろう。
そこで着目したのが、
「どこからその臭いがしているのか分からない」
という原因部分であった。
もちろん、それが分かれば解決だということなのだろうが、それを原因としてではなく、それ以外の何かとして見ることができるかというのが問題なのだ。
「慣れ」
というものが、今度は、
「どこから発生するものなのかが分からない」
という現象に結びついてくるのは、容易な発想だと言えるのではないだろうか?
逆に、
「発生元が分からないという発想が、慣れからくるものだということに、意外と分かりそうでなかなか気づかないものではないだろうか」
人から言われて、
「ああ、そうだ」
となるのだろうが、それが、どこで来る発想なのかということが問題だった。
考えてみれば、慣れるということは、感覚をマヒさせることであって、感覚がマヒしてしまうと、心地よさからなのか、ついつい自分に甘えてしまう感覚になってしまう。
だから、慣れを感じ始めると、自分の中で、
「楽ができる」
という考えに至ってしまうのか、それが、マヒに繋がるのだろう。
そんな状態を、神様が許すはずもない。その罰として、発生元を分からなくして、困らせようとしていると考えるのは、少し乱暴なことではないだろうか?
嗅覚において、臭いに慣れてしまうと、本当に怖いというものだ。
もし、それがガスなどであり、爆発性のあるものだったり、有毒なものであれば、それこそ、
「シャレにならない」
ということになるだろう。
人間が臭いを嗅ぐというのは、栄養を摂るために、食欲を増進させるために、匂いによる条件反射で、胃を活性化させるという効果がある。
そして、もう一つは逆の効果として、異臭というものを感じると、
「これはガスだ」
ということで、自分に危険が迫っていることを感じることになる。
そういう両方の意味が嗅覚にはあるので、臭いを感じるというのは、生きていくうえで、実に重要なこととなるのだ。
それを感じなくなるとどうだろう?
食欲はなくなり、何を食べてもおいしくなくなってしまう。
きっと、匂いがしないということは、味もしないのではないかと思う。味というのは、匂いを嗅いで、舌でその微妙な感覚を味わうことで、
「おいしい」
と感じるのだろう。
だから、匂いがせずに、味だけだったら、どんな味なのか、想像がつかないのではないだろうか。
もちろん、最初から匂いという概念がない場合と、途中からいきなり匂いを感じなくなった場合とでは、その様相がまったく違ってくることであろう。しかも、栄養補給という観点と、危険退避という観点からでも違ってくる。何しろ正反対の感情だからだといってもいいだろう。
そんな中において、サイトウは、臭いだけではない、他のものも、
「どこから来るのか分からない」
という点で気になっていることがある。
これは、サイトウだけではないだろう。むしろサイトウ以外の人は最初にこっちの方を思い浮かべて、臭いの方は、すぐには頭に浮かんでこないに違いない。
というのは、その元となるものが、
「音」
であるからだった。
音というと、感じる身体の器官は、
「耳」
である。
耳というのも、目と同じように錯覚をすることが結構ある。そういう意味では、味などのような味覚や匂いなどのような嗅覚というのは、そこまで錯覚を起こさないかも知れない。
しかし、たまに年末の特番バラエティなどでやっている。
「ランク付け」
というものをする中で、
「目隠しをして、臭いを嗅がせたり、何かを食べさせて、本物を見分ける」
と言ったようなことをやって、結構自信があると言っている人でも、簡単に間違えたりする。
目隠しをするのは、当然のことで、一つの五感だけで感じるものだから、視界が広がっていれば、感覚が鈍る。つまり、錯覚を起こしやすいというのは、当たり前のことであろう。
それを考えると、
「本当は、一つのことに集中させるための目隠しは。逆に人間を狭い範囲に追い込むことで、却って、錯覚を与えることになるのではないか?」
とも考えられる。
番組のスタッフも、そのことを分かっていて、
「バラエティなのだから、正解を求めているわけではない。芸人や芸能人が、真面目にやって、それがハプニングを産めば、そこに取れ高が生まれるんだ」
と思っていることだろう。
そういう意味で、ハプニングを求めるのに、目隠しというシチュエーションは、結構楽しいものがある。
それに、
「五感の一つを集中させることができるから」
というもっともらしい話を聞かされれば、却って、出演者も真面目になるだろう。
普段から笑わせようと思っている人は、たまに、こういうハプニングというものが、笑いを誘うということを、敏感に感じ取っているだろうからである。
それを思うと、
「目隠しをすれば、その時点から本気モードになる」
と考える人は多いだろう。
見ている方は、目隠しによって、緊張感を煽られるが、ハプニングが起こりやすいということも分かっている。そういう意味で、倍楽しめるのかも知れない。
その芸人の本気度と、いつかは起こるであろうハプニングを期待している自分がいることも、感じることができるはずだからである。
目隠しをして、
「さあ、どちらかのお肉は、松阪牛の最高級のステーキ、もう片方は、スーパーで、298円の激安のステーキ、どっちがどっちか、味わっていただきましょう」
と司会者がいうと、緊張感が一気に高まる。客席はざわめき、笑いが止まると、芸人の中で、何かのスイッチが入るのだろう。
結構、五感を試すようなクイズであったり、バラエティ番組は、今に限らず、昔から続いてきたものと言えるのではないか?
特に、芸人が、苛められるようなシーンが目立ってきた、平成以降では、それがまるで当たり前のようになってきた。
昭和の頃であれば、コントのような番組であっても、親は子供に、
「有害番組だ」
ということで見せなかったり、あるいは、放送局に抗議デモを展開したりというようあこともあったりするくらいではないだろうか?
今でも語り草のようになっているものもあるくらいで、考えてみれば、その頃というと、学校で苛めなるものがあったとしても、今のような苛めとはわけが違っている。相手を傷つけるような苛めをすることはなく、
「苛められる方には、それだけの理由が、必ずあった」
といってもいいだろう。
しかし、平成以降の苛めというと、闇雲に、
「むしゃくしゃするから、誰でもいいから苛めてやろう」
ということで、ターゲットになってしまうと、
「運が悪かったな」
ということになってしまうだろう。
苛めというものは、それなりにルールがあるものだ。それはまるでプロレスのようなもので、プロレスを見ていて、その本質を知らない人は、
「人が人を傷つけて、何て野蛮なんだ。それを見て喜んでいる人間って、本当に恐ろしいな」
と思うことだろう。
しかし、
「これはあくまでもスポーツで、鍛え上げられた身体を駆使して、さらに、いろいろな技を使って、相手をフォールすれば、自分の勝ちだ」
というスポーツなのだ。
もちろん、ルールが存在する。
中には、ルール無視の、
「ヒール」
と呼ばれる悪役レスラーというのもいて、リングを盛り上げているのも事実だろう。
しかし、見ている人は、
「自分にはない体力と力を持った人が、技を駆使して、同じような格闘家と勝負する」
というのだ。
何も、訓練も何もしていない、普段から運動すらしていない人を相手に、レスラーが一方的に攻撃するわけではない。
お互いに訓練を重ねてきて、その技を競うというのが、プロレスだとすれば、他のスポーツと何が違うというのだろう?
その凶暴性が、
「教育上、よろしくない」
というのであれば、それこそ、
「R―18指定」
に最初からしておけばいいのだ。
それは、殴り合いに見えるボクシングでも同じこと、相手を吹っ飛ばす相撲だって同じではないか。
相撲などは、日本の国技で、それこそ、
「神様に奉納する」
儀式でもあり、横綱ともなると、
「神の使い」
と言われるくらいではないだろうか。
そう、同じように見えるものでも、場所が変わったり、少しでもやり方が変わると、
「神聖な儀式」
と捉えられるというものだ。
逆に、そのことを大人がしっかり認識できていないからこそ、子供が迷走するのであり、そのため、
「苛めなるものに、歯止めが利かなくなる」
ということになるのだろう。
昭和の時代を知っていて、その頃に育った連中はいう。
「昔は今のようなひどい苛めはなかった」
とである。
逆に、その人たちが子供の頃、親からは、
「お父さんたちが子供の頃、苛めなんかなかったよ。皆が助け合わなければ生きていけない時代だったからな」
という。その、
「生きていけない時代」
というのは、それこそ、戦時中であったり、戦後の進駐軍による占領時代の、自由も食料も、何もなかった時代のことである。
今の時代では考えられない、
「栄養失調」
などという言葉。
お金があっても、物がなく、食料のほとんどは、配給であり、お米など、切符で配給が受けれるなどという時代だったのだ。
戦争が起こると、物資がまったくなくなってしまい、いくらお金があっても、ものがないので、どうしようもなくなる。いわゆる、
「ハイパーインフレ」
と呼ばれるものだ。
日本ではそのハイパーインフレの対策として何をしたかというと、
「新円の発行」
というとんでもないことに踏み切ったのだ。
今までの紙幣をすべて使えなくして、いくら持っているとしても、新円に換えられる額は決まっているのだ。
つまり、
「お金を持っていた人間ほど、損をする」
ということになる。
つまり、貨幣価値が、1000倍になったとして、今までの10円札が、10000円になるのだとすると、100円持っていれば、10万円ということになるはずだが、もし、新円の交換の上限を10万までだとするならば、100円持っていた人は、90円が、紙屑同然になってしまう。何とも理不尽である。
しかも、使えなくなった旧札を、新札として作り替えるということであれば、これほど、元々金を持っていた人からすれば、溜まったものではないだろう。
要するに、それまでの貧富の差が、縮まるということであるが、そもそも、金のなかったものにとっては、同じことであり、結局、お金を変えたとしても、物資の不足には変わりはないのだ。
あくまでも、
「インフレ対策」
というだけのために、所持金のほとんどを、紙屑にしてしまった人には、本当に理不尽以外の何ものでもない。
ただ、インフレ政策だけではなく、昔からの経済対策の中には、
「徳政令」
であったり、債権放棄のような政策が、昔から行われているのも事実である。
つまりは、経済というものは生き物だと言われるが、日本のように島国で、他から影響をあまり受けない。しかも、江戸時代などは鎖国をしていたわけだから、特に、江戸時代のように、8代将軍吉宗の時代くらいから、幕府経済がひっ迫し、経済政策が頻繁に行われた時代に、経済学でも理論的に間違っていないような政策があったことも不思議に思えることである。
そういう意味で考えると、世界中に広がっているもので、同じ時代、特に古代などで、まったく交流があったと思えない時代に、遠く離れた場所で似たようなものが発見されたというのも不思議なことである。
それこそ、
「宇宙人説」
というものがあっても無理もないと言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「人間の、いや、人間に限らず、動物の思考というのは、どこかで結びついていて、自然界の営みをスムーズにしているのかも知れない」
と思えるのだった。
話が逸れてしまったが、
「五感というものが、いかに、どこから発生しているのか分からない」
ということが、不思議な感覚をもたらしている。
最近、聴覚というものにも気になっていることがあった。要するに、
「耳で感じる音」
というものである。
音には不思議なものも多く、その力によって、いろいろな計測が行われたりしている。
例えば、
「ドップラー効果」
なるものから、野球でいうところの、
「スピードガン」
という、球速測定器が開発されたのは、有名なところである。
開発された時は、
「150キロの快速球」で、
「あんなの打てるわけないよ」
と言われていたが、最近では、160キロと言われても、それほど驚かない時代になった。
何しろ、
「どんなに早くても、当てるくらいはプロの選手だったらできる」
と言われる。
それは、機械がそれだけのスピードを出せるものが開発されて、バッターはいくらでも練習ができるからだ。
しかし、ピッチャーの肩は消耗品と言われていて、少々無理をすると、短命で終わってしまう。
そういう意味で、
「投手は不利だ」
と言われていたこともあったが、最近では、いろいろな球種が増えたり、投手を酷使しないようなチームも増えてきていることで、打者ばかりが優利だということもあくなってきているようだ。
そんなドップラー効果というのは、その代表例が、
「救急車のサイレン」
である。
前から来るときと、後ろに向かって走り去っていく時とで、その音の質がまったく違っている。
音というのは、
「音波」
という言葉で表されるように、波である。
つまり、波は、音源が動いていれば、波が変わってくるのは当たり前のことで、
「こちらに向かってくる波と、離れていく波とが違うのは当たり前のことだ」
といってもいいだろう。
そういう意味では、これも、耳が感じる、
「錯覚」
なのである。
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