第2話 四則演算の考え方

 そんな中で、なかなか研究所の雰囲気に慣れない研究員もいた。

 その中でも異色だったのは、

「サイトウ」

 という研究員であった。

 彼は、そもそも、昆虫の研究をしていた。昆虫の研究をしているうちに、

「臭いについて研究することが、一番の近道だ」

 と考えるようになった。

 それは、昆虫から感じたことではなく、家で飼っている犬の臭いから感じたことだった。

 家で飼っている犬は、普段から妹がいつもお風呂に入れているせいか、いい匂いがする。犬用のシャンプーを、うちの犬は嫌がることもなく、結構楽しんでいるようだった。

 しかし、そんな犬が、

「ふとした時に、妙な臭いがする」

 と感じたのだ。

 犬の専門家ではないので、研究するところまではいなかなかったが、自分なりにいろいろと仮説を考えてみた。その時、

「待てよ。これって、昆虫の臭いとも、どこか関連性があるのではないか?」

 と考えたのだ。

 ただ、この考えが、かなり奇抜であること。そして。発想としては、そんなに信憑性があることではないと感じたことから、

「これは、自分の研究ではない」

 と思ったのだ。

 しかし、臭いに関しては、昆虫研究で避けて通ることのできないものだということは自覚していたので。犬の臭いを無視できないのではないかと思っていた。

 そのあたりの葛藤があったことで、サイトウ研究員は、自分が無意識のうちに、

「臭いを激しく意識する」

 ということになっているのに気付き始めた。

 このことを、研究所の所長である教授に話すと、

「それは面白い着想かも知れないぞ。私は、研究しろと言われると、二の足を踏むが、サイトウ君だったら、きっと、できるんじゃないかな?」

 と言われた。

 この教授は、大学の中でも少し、

「異端」

 と言われている人で、研究成果よりも、その研究過程と大切にする人だった。

 そういう意味では学生からは人気があったが、教授内では、あまり人気がない。だから、年齢的にも学長は無理としても、学部長くらいにはなっていてもいいのだろうが、立候補すらしないのだから、当選するはずもない。

 まわりの同僚も、

「立候補すればいいおに」

 という人もいない。

 他の教授だったら、

「我々が支援しますから、立候補してくださいよ」

 と言われたとしても、不思議はない。

 それを思うと、確かに異端児であるが、

「岳著や学部長レースなんて、派閥が強いところが勝つだけなので、結局、出来レースでしかないんだよ。私は、そんなものには興味がないね」

 といっていた。

 教授をあまり知らない人は、

「学部長になれない言い訳をしているだけなんじゃないか?」

 というだろうが、まさにそうだろう。

 本人自身が、

「言い訳だ」

 と思っているのだから、しょうがない。

 そのうちに誰も教授を推す人など、誰もいないことが、あからさまになるだけだった。

 そんな教授は、本当は物理学が専門なのだが、生物学にも造詣が深く、実際には教授の知識と実力があれば、

「生物学者としてもやっていける」

 と言われていたほどの逸材だったという。

「どちらか、一つ」

 ということだったので、物理学を専攻したのだが、教授になってからは、生物学の研究も、遅ればせながら行うようになった。

 というのも、教授の恩師が引退する時、

「彼の生物学の知識は、いずれ物理学においても、大きな転機を迎えることになるのではないか?」

 ということで、引退のはなむけに、

「生物学研究を、解禁しよう」

 と言い出したのだ。

 そして、その時を機会に、自分のゼミ生や研究員に、生物学に造詣の深い人も、どんどん入れるということをした。

 さすがにゼミ生の場合は、なかなかこれからの進路を考えると、中途半端なことはできないということで、二の足を踏む人が多かったが、研究員は、結構幅の広い考え方の人がいて、早い段階で、予定人数が埋まったのだ。

「今までにも、生物学に興味のある物理学専攻の人が、結構いたということなのだろう」

 と、教授は納得していた。

 そんな研究員の中にいたのが、サイトウであり、彼には、

「いずれ、生物学と物理学の融合を新しい学問として認められることが来る」

 ということが、予見できていたのだった。

「これを、先見の明というんだろうな」

 と、教授も思っていて、二人は教授と研究員という立場を超えて、結構対等に話をしているところが見て取れたのだ。

 教授にとって、サイトウという研究員は、最初に面接をした時から気になっていた。

 別に何か特徴があるというわけではなく、他の面接をした研究員も、

「まさか、教授がサイトウを推すなどと思っていなかった」

 と後から言っていたくらい、正直目立っていなかった。

 教授は、実は、そんな目立たないところに興味を持ったのだ。

「どこにでもいる青年なのに、何か、こちらを見る目が捉えているようで、こちらが気にすると、サラリを避けるのだ」

 と、教授は思っていた。

 教授にとって、研究というのは、

「人材を育てることだ」

 と思うようになった。

 それは、生物学も一緒に研究していれば、研究だけが自分の人生だというように思っていたことだろう。

 しかし、そうではなく、生物学への研究を断たれた時、

「私は、研究員という器ではないのかも知れないな」

 と思うようになった。

 というのも、

「研究をしていても、時々、何か壁にぶつかったような気がするのだが、それでも、研究をしていると、その不可思議な感覚を忘れるほどに没頭できるのだ」

 という。

 しかし、結局、やりたい研究を、半分もできないのであれば、何が楽しいというのか、分かったものではなかったのだ。

 教授は、自分が研究するよりも、

「研究員を育てる」

 ということに興味を持つようになった。

 だから、研究員やゼミ生が、

「私は、他にも研究したいことがあるんです。教授は、そんな人たちの気持ちを受け入れてくださる人だということで、教授の研究室を志願しました」

 といってやってくる人も増えた。

 基本は物理学なのだが、学生や研究員で、

「他の学問に造詣が深い」

 ということで、やってくる人間の多くには、

「心理学を裏で勉強している」

 という人が多いのだった。

 心理学というと、ある意味、

「学問の中での、中心といってもいい」

 と思っている人が多い。

 ただ、考えてみれば、

「心理というのは、ものを考えることができる人間だけに許された学問だ」

 といってもいいだろう。

 しかし、物理学などは、確かに心理学と大きく結びついていたりする。

 いや、もっとも、

「心理学に結びついているのは、物理学だけではなく。数学や化学、そのあたりの学問とも、ある程度、均等な距離の中心に、位置しているものではないか?」

 と教授は考えていた。

 同じことを、サイトウも考えているようで、このあたりの話は、いつも、教授と話をする時、時間を忘れて、議論をぶつけ合うのであった。

 時々、教授とは、酒を呑みに行くことがあった。

 教授は、人と交流するのは好きなのだが、酒を呑む時は、よほど気に入った相手でないと、一緒に行くことはない。

 ほとんどがいつも一人で行くのであって、サイトウと飲んでいる時も、

「私は、いつも一人でしか飲まないので、人との飲み方を知らない」

 と言った。

 実際に、サイトウも同じようで、

「私も同じようなものですよ。そんなに強い方でもないですからね」

 とサイトウは笑ったが、確かに呑める方ではなかった。

 ただ、居酒屋のようなところは雰囲気が好きなようで、一緒に飲みに行く相手は、こっちが欲しても、まわりが受け付けない。つまり、誰も誘ってくれないというわけだった。

 サイトウはそれでよかった。

「そんなに強いわけでもない酒を、誰が好き好んで飲んだりするものか」

 と言い訳にも聞こえるが、それこそ、この男の本音だった。

 教授もそのことが分かっているので、ニッコリと微笑んで、サイトウと一緒に飲めることを喜んでいた。

「サイトウ君が、酒が弱いのは分かっていたからね。だから、誘うのは、おこがましいと思っていたのだよ」

 と教授がいうと、

「そんなことはありませんよ。おこがましいなどと言われると、却って恐縮してしまいます」

 と、サイトウがいう。

 これもサイトウの本音だった。

 サイトウは、人と絡むのが苦手だった。友達もいる方ではないのだが、なぜか彼の周りにやってくるのは、似たような性格の人ばかりで、

「類は友を呼ぶ」

 と言えばいいのか、

「俺は、本当は人と飲みたいと思っているんだけどな」

 というと、仲間も同じように、

「そうなんですよ。サイトウさんもそうじゃないかと思って、声をかけたんですよ」

 というではないか?

 学生時代には、特に一年生の時には、挨拶だけの友達をたくさん作ったものだった。

 その人数がまるで、大学生活でのステータスでもあるかのように、争う必要などあるわけはないのに、誰か一人ターゲットを決めて、勝手にライバル視していたのだ。

 しかも、そのライバルの決め方もいい加減で、後から思い出しても、

「あの時のライバルって、どうやって決めたんだろうな?」

 と思うくらいに、時間が経てば、意識はどんどんと曖昧になっていった。

 その意識が曖昧になる理由は、

「思考というものは、時間軸のように一直線ではなく、らせん状になっているもののようだ」

 と考えていたが、逆に、

「時間軸自体がらせん状になっていて、普通の世界は、そのままなのかも知れない」

 と考えると、

「考え方が違うだけで、まったく違う世界が出来上がるのではないか?」

 と思うと、そこにあるのは、

「同じ時間軸における別の次元」

 という発想と、

「別の時間軸における、同じ次元」

 というものが存在していると思うと、それこそ、

「パラレルワールドではないか?」

 と感じた。

 しかし、

「パラレルワールドという考え方だけでは、説明がつかないことがある」

 と考えたのが、最近話題になっている。

「マルチバース宇宙論」

 に代表されるものがそれではないだろうか?

 もっとも、マルチバースのように、

「多元宇宙論」

 以外にもいろいろなものが存在し、それがひも状になり、超弦理論というものと結びつくとも考えられる。

 ただ、これを、サイトウは、

「それらの宇宙論や、次元なんかの考え方も、心理学から解き明かせるのではないかと思っているんですよ」

 というのであった。

 同じような考えを教授も持っていて、

 パラレルワールドのように昔から言われているもの。そして、最近注目されるマルチバース宇宙論などというものが、どう結びついてくるのかということを考えると、元々、心理学を考えたことがなかった教授も、サイトウの言葉には、素直に考えるところがあるので、そういう意味でも、サイトウと話をするのが好きだった。

 教授もサイトウと話をしている時は遠慮しない。

 サイトウも同じように、遠慮をしないのだが、それは、教授も願ったり叶ったりであった。

 サイトウと、意見を戦わせるのは、昔自分がまだまだ学者として、これからだと思っていた時期にまでさかのぼって、

「ああ、こんな時期もあったな」

 と考えさせられる。

 今では、何か世の中の発想に自分が取り残されているように思えることで、どうしても、前を向くことができないでいたのだ。

 一緒に飲んでいる時、教授が面白いことを言い出した。

「パラレルワールドというのは、タイムパラドックスの証明のような言われ方をしていることがあるけど、あれをどう思う?」

「考え方は悪くはないと思いますが、パラレルワールドとを結びつけるのは、ちょっとどうかと思ったんですよ」

 と、サイトウは言った。

「どういうことだい?」

 と教授に聞かれて、

「私が考えるパラレルワールドというのは、可能性が広がっているものだと思うんです。でも、実際には、時間軸が同じで次元が違うという発想でしょう? そんなにたくさんはないですよね? でも、可能性という話になると、これは無限ですよね? 無限ということになると、パラレルワールドではなく、マルチバース理論の方位なるんですよ。そもそも、マルチバースとパラレルワールドというと、背中合わせの関係のように思えるでしょう? そうなると私の考えは、ちょっと違っているように見えてくるんじゃないかと思うんですよ」

 と、サイトウはいう。

「なるほど、確かにその通りですね。私も昔、まだ学生の頃は、サイトウ君と同じで、パラレルワールドと、マルチバースを混同したように考えていました。でも、だからこそ、マルチバースという理論が、パラレルワールドほど、浸透していなかったのではないかな? どちらか一つが大きな幹になっていればいいという考えだったとすれば、考えが混同したまま、らせん状になって、スパイラルを形成していたとしても、それは無理もないことだと思うからね」

 と、教授は言った。

「教授の言いたいことは分かります。パラレルワールドを、マルチバースと同じ発想で見ているから、見えてこない世界、いや、宇宙が存在する。それを、解明することができる学問があるとすれば、まず思い浮かぶものが、物理学ですよね? 素粒子の考えから、宇宙の広さであったり限界を考える。逆に、限界というものが存在しないということを証明しようとしていると思えるんですよ。それこそ、矛盾しているのかも知れませんけどね」

 と、サイトウは言った。

「確かに私もパラレルワールドというと、無限にある可能性が広がっている次元のようなものがあると想っていました。その時に考えたのが、ちょうど、本の厚みというような考え方だったんですよ」

 と、教授がいうと、

「本の厚さですか?」

 と、怪訝な感じがして、サイトウが聞いた。

 サイトウとすれば、尊敬している教授なので、何ら脈絡のないことを言うはずはないということで、ハラハラドキドキで話を聞くことにした。

「ああ、そうなんだよ。例えば、本の五ページって、ほとんど厚みがあるのかないのか分からない感じだろう? だけど、その厚みも、10枚になると、それなりになる。それが10枚重なると、100ページになって、それこそ、10×10という感覚になるだろう?」

 という。

 サイトウは、まだ何を言いたいのか分からずに、まだ頭が混乱していた。

「どこから、学問が入ってくるのか? これは物理学なのか、数学なのか?」

 と考えていた。

 すると、教授がニンマリとして、

「加算と減算があるように、積算と、除算があるよね? 理論的には、加算と減算に関してのたとえはよく言われるけど、積算と除算に関してはあまり語られることはない。だけど、これだって十分に面白い発想になるんだよ。たとえば、私は、この時にたとえとして、

「合わせ鏡」の発想と、「マトリョーシカ人形」たとえに出すんだが、この話の理屈が分かるかな? この両方の共通点とでもいえばいいのかな?」

 と教授は言った。

 サイトウはそれでもまだハッキリとは分からないが、

「どんどん小さくなっていくということでしょうか?」

 というと、

「そういうことなんだけど、それだと、半分しか正解していない。ここで、数学的な発想が生まれてくることいなるんだけどね」

 というので、

「合わせ鏡というのは、自分が真ん中にいて。左右か、前後に鏡を置いた場合に、永遠に移り続けるということですよね? だからさっき私が、どんどん小さくなるとう指摘をしたんですよ」

 とサイトウがいうと、

「そうなんだよ。小さくなっていって、どうなる?」

 とさらに、その先を聞かれた。

 なるほど、理論で考える時は、一つの道筋ができれば、そこから先を発想を変えずに、まっすぐに進むこということが大切だった。

「小さくなっていけば、例えば半分になって、反対側の鏡に。また半分の自分の姿が写る。それが繰り返されて。どんどん小さくなっていくわけですよね? そう考えると、マトリョシカ人形も同じことで、入れ子になった人形なのだから、蓋が開いて、その中に小さな人形があり。さらにその中にということになると、それこそ、合わせ鏡と同じになるということですね?」

 とサイトウは言った。

「そう、普通の人はそこで考えることを辞めるんだよ。だけど、答えを求める我々学者は、どんなに小さなことであっても、答えを求めようとする。そのためには、こんな小さなことを誰も考えないよな? と思うようなことを、拾い上げていく必要があるんだよ。それを思えば、どんどん先を考えると、どこに行き着くかい?」

 と言われたサイトウは、

「ああ、そうか。どんどん小さくなっていっても、存在しているものが、消えてなくなるということはないんですよね。小さくはなるけど、マイナスになることも、ゼロになることもない。つまりは、限りなくゼロには違いが、ゼロではないということですね?」

 という。

「じゃあ、マイナスもないということですよね?」

 とサイトウが再度聞くと、

「理論的にはそういうことになる。しかし乗法のグラフのように、0を中心に、マイナスとプラスで、左右対称のグラフができるものだってあるではないか? それを考えると、理論上は存在していない、積算、除算にないマイナスという概念を持たせるには、別の次元という発想が生まれるのではないかと思うんだよ。それがパラレルワールドの発想だとすれば、可能性すべての世界などというものを考えるというのは、それこそ、理論上の矛盾ではないかといえる気がするんだ」

 と、教授は言った。

「なるほど、確かにそうやって考えると、除算法では、限りなくゼロに近くなるが、まったくなくなってしまうということは、理論的にあり得ない。ましてや、マイナスなどになることはない。マイナスになることがあるとすれば、最初からマイナスがどこかに存在しているという発想がなければ、ありえないですよね?」

 とサイトウがいうと、

「そうなんだよね。そして、先ほどの紙が束になる話なんだが、これは逆に積算法であって、一枚の紙というのが、まるで、除算法の最期に行き着いたところみたいな、限りなくゼロに近い状態のように思えないかい? ということは、除算法を証明するということは、この場合の積算法を証明することになり、逆に積算法を証明するということは、除算法を証明することになると言えないかな? ただ、これは、加算法と減算法の考え方とは、少し違っていると思うんだけどね」

 と教授がいう。

「どういうことですか?」

「積算法と除算法は、その証明をお互いでできるのだが、加算法と減算法の場合は、そう簡単なものではないと思えるんだ。こちらには、積算法や除算法ではなかった考え方である、ゼロやマイナスという概念が存在しているんだ。そして、出発点の違いにも問題があり、考え方を変えないといけないと思えるんだよ」

 というではないか。

「ますます難しいですね?」

「まず減算法から考えてみると、減算法は、最初を100と考えれば、その時点では、完璧なものだと言えるだろう。そこから、どんどん減っていくことになる。これは、テストなどで考えた時、受験人数や、合格者人数には関係なく、定められた合格点に達するかどうかということを考えた時に、出てくる発想だと思うんだ。たとえば、自動車免許などの発想に近いものであり、あれは、70点以上が合格ということだったと思うが、特に実技などというものは、基本、減算法なのではないかな? ペーパーのようにプラスマイナスの発想ではなく減点対象があれば、点数が減っていくということになる」

 と教授がいうと、

「なるほど、そうですよね。一旦停止をしないと10点減点されたり、エンストすれば、5点とか、そんな感じですよね?」

 とサイトウがいうと、

「ところで、サイトウ君は、将棋で、一番隙の無い布陣というのは、どういうものなのか、考えたことがあるかい?」

 と言われ、考えたが、しばらくして、

「そういう言われ方をすると、どうも、最初に並べた、あの布陣なのではないかと思いますね」

 と、サイトウが答えると、

「ああ、そうだ。あの形が、一番隙のない形なんだ。つまり、一手差すごとにそこに、隙が生まれる。減点方式のようなものだろう? だから、王将を相手に取られる瞬間が、いわゆる合格点より下回る70点以下ということになるんじゃないかな?」

「なるほど、それが将棋の世界ということですね?」

「そうなんだ。逆に囲碁の世界ではどうだろう? 何もないところに、一手を置いて。そこから展開される形というのは、まさに加算法だと言えるのではないだろうか? これも、最終的に勝ちを治めるということで、100点満点を目指すことになるのだが、果たして勝利というのが、100点なのかどうなのか、判断が難しい。ちなみに将棋だって、こちらが、勝手に70点といっているだけで、60点かも知れないし、50点かも知れない。その点数いかんにかかわりなく、勝敗がついてしまうとそこで終わりなんだ。加算法も同じだと思うと、行き着く先の点数は、関係ないということになる。これが、相手がいてもいなくても関係のないことになるテストということなんだろうね」

 と教授が言った。

「でも、テストというと、基本は、人数が決まっているものが多いですよね。特に入学試験などですね」

「そうなんだ。入学試験の場合と、先ほどの検定的なものというのは、同じ試験という言葉を使っているけど、手法も、採点方法もまったく違うといって、いいのではないだろうか?」

 と教授はいうのだ。

「私が気になったのは、減算法においての、教授の言われた、一番隙のない布陣という考え方ですね。将棋のあの形には、当然意味があり、完全な減算法を絵に描いているような感じですよね」

 と、サイトウは言った。

「将棋の最初の形というのは、かなり考えられたものなのだと思いますよ。それぞれの駒には役割があり、動ける方向や飛べる数も決まっている。本来の戦争の布陣であったり、動きとは違うものであり、これこそ布陣としては、最高のものなのかも知れないですよね?」

 と教授はいう。

「そうですね、ここが、実際の戦闘とは違いますよね。何が違うって。将棋には飛び道具がない。しかし、一撃必殺ではあるんですよ。相手を射程に収めれば、その時点で、駒同士の勝負は、決していますからね」

「その通り、そこで勝負が決しないと、生身の人間同士の戦いではないのだから、逆に冷めたところがどこかにあるような気がして、でも、それだけに、こういう勝負は、減算法としてしっかり確立されたものとしての、代表例になるんだって、思いました」

 とサイトウは言った。

 サイトウは、減算法の説明の時、わざと将棋の話を教授が出してきたのだと思った。わかりやすいというだけではない何かの意味が、そこに潜んでいるように思えたからだ。

 二人は、そんなことを考えながら、その日はいろいろと、それからも議論を重ねたが、あまり飲めないと思っていたサイトウはその日、かなり酔っていることに気づかないほどに、会話が充実していたのだった。

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