龍の天空を往く如く(安土のころの時代物)

上松 煌(うえまつ あきら)

龍の天空を往く如く(安土のころの時代物)

               1



 ゴロッと寝返りを打って黙考する。

これはいつものクセだ。

鼻毛をむしって、鼻くそとともにフッと吹き飛ばす。

「きゃつは恐がい(おそがい=危険)がや」

たかが田舎土豪の一匹や二匹とさげすみながらも、そんなひとりごちが漏れる。

信長の懸念の元は、上松左馬介康光(うえまつさまのすけやすみつ)。

武蔵国嵐山(埼玉県嵐山町)で誕生した源義仲の系統である。

1155年8月、父の義賢(よしかた)が大蔵館の戦いで敗れると、義仲は木曽に逃れたが、弟の上松義康は一族を二分して木曽と上毛とに別れた。

そして上毛残留方は、四百数十年後のこの1581年(天正9年)まで、坂東太郎(利根川)のほとりで、養蚕・馬産・稲作・川漁・通船により、関東の辺境の地でありながら都とも交流があった。

今の今まで織田(このころ官職名なし)信長が未開の地と思ってきた「毛(け)の国」(上毛=群馬県)に、意外な文化が花開いていたのだ。



 1576年(天正4年)、彼は嫡男信忠に家督をゆずって美濃尾張の支配をまかせ、後顧の憂いなく安土城の建設にかかっていた。

その2年後の1578年(天正6年)には越後の上杉謙信が死去し、都合のいいことに御館の乱といわれたお家騒動が勃発している。

目の上のタンコブだった武田勝頼は若さゆえの短慮か、当初、支持していた上杉景虎を見限り、上杉景勝側に回った。

膨大な金子(きんす)と領土割譲に目がくらんだらしいが、景虎は北条氏政の実弟である。

それを自害に追い込んだのだから勝頼への恨みは深く、即座に徳川と手を結んでいる。

これは結果的に東西から攻められる二正面作戦にならざるを得ず、武田家としては痛恨の極みだった。

だが、信長はこれによって漁夫の利を得、願ってもない織田・徳川・北条の連携が労せずして実現したのだ。


 時流は武田を離れ、しだいに新しい渦を巻き始めている。

これは彼にとって好都合だった。

現に、1581年(天正9年)3月、徳川家康は高天神城を勝頼より奪還し、武田の弱体化を見せつけている。

先へ先へと考えをめぐらす信長としては、死に体(たい)の勝頼はゆるゆる始末するとして、気にかかるのは上毛の小童(こわっぱ)だ。



 指にまつわるむさい塊をピッと庭先に弾き、ムックリと起き上がった。

渡殿(わたどの)を巡る足音がしたからだ。

「ちいとねゃあ(もう少しで)夕餉じゃき」

自分に向けられた声に、幼児のように甘える。

公では鎌倉室町以来の武家言葉を使っていても、家中、あるいは夫婦間ではむつまじいお国言葉になる。

「お濃。ちゃっ(さっさと)としてちょうよ。めちゃんこひもじゅうてまぁあかんワ」

母親にまつわる子供さながらに彼女の腰にしがみつき、媚びた目で見上げる。

肖像画でわかるとおり、織田信長は肩幅の狭いなで肩で、胸板も薄く少し猫背だ。

背丈も豊臣秀吉と大差ない小兵であり、晩年のこのころは病人のように生っちろい顔だった。

まるで暴力団の二代目のように運と地の利と親の七光り、褒章と暴力、恐怖と悪知恵でのし上がってきた彼には、腕力や筋力といった体力面はあまりない。

なにせ、少年期に背骨が弱くて真っ直ぐに立っていられず、悪仲間の荒小姓の肩にすがり、あるいは肩を組んで、ブラ下がるようにしか歩けなかったという、稀代の「腑抜け」だ。

それ反し、かつて美濃の毒マムシと恐れられた斉藤道三の娘帰蝶(濃姫)は、大柄で弓馬学問にもすぐれ、美濃一番の手弱女(たおやめ)と詠われるとおり、立ち居振る舞いも美しい。

鷺山殿と呼ばれ、後に安土殿となった今でも、なかなかにイイ女であった。



 彼女にあっては信長も形無しで、それは初夜の晩にさかのぼる。

寝屋のぼんぼりの薄明かりの中で、当時の武家の風習どおり手を仕える帰蝶を見下ろして、開口一番、

「おみゃ~が帰蝶がや? でぇ~りゃぁ(どえらく)しこる(スカしてる)おなごだぎゃ」

と、やった。

同時に小馬鹿にしてケタケタと嗤う。

信長としては、やはり気恥ずかしかったのだ。

それでちょっと憎まれ口をたたいで見たのだが、彼を守護大名の陪臣(家来の家来)として下に見ていた彼女はたちまち柳眉を逆立てた。

美濃では蝶よ花よと称えられた身だ。

このような無礼にはあったことがない。


 跳ね起きると一歩で間合いを詰め、胸倉をつかむや足払いをかけ、夜具の上にたたきつけた。

「ぶ、無礼であるっ」

今更、大たわけが威厳を取り繕っても、もう遅い。

彼女の怒りに油を注ぐ結果になり、四つんばいの尻を蹴り上げられたあげく、背中に馬乗りになってバタバタする両足をつかみ、エビ反るように締め上げられた。

サバ折りである。

彼はたちまち音を上げた。

嵐のような一瞬の後、帰蝶は見返りもせず出て行き、付き人が大慌てで後を追う。

信長は練り絹の夜着をはだけたまま、それを呆然と見送ったのだった。



 彼は臆病なだけに執念深い。

自分は非力だが、手下には剛の者がゴマンといる。

それらを使って復讐を、とは思うのだが、あの尻を蹴られた感触が、どうにもそれを妨げる。

幼少より母土田御前に疎まれていた彼は、深層心理の中に母という大きな存在に強い傾倒とあこがれがある。

女性から受けたあの晩の圧倒的な暴力はそのまま母の存在感への畏怖と庇護の願望をかき立てるのだ。

奸智の信長は、彼としては最も利口な手段に出た。

つまり詫びを入れ、赤子のように甘えて、帰蝶の母性本能に訴えたのだ。

彼女は見事にそれにはまった。

かくして彼は豊かな母性愛を手に入れ、同時に運命共同体の「妻」という絶対に裏切らない参謀を得て、天下取りに乗り出して行ったのだ。



               2



 木の香もみずみずしい安土城の上段の間に向かってかしづきながら、蜂須賀彦右衛門正勝(はちすかひこえもんまさかつ)=蜂須賀小六は、今日の用命の意味を考える。

今でこそ羽柴藤吉郎秀吉配下の小大名に連なるが、前身は川並衆といわれる土豪集団の1人で、やってきたことは、いわゆる野伏せり野盗の類とあまり変わらない。

そんな小物の自分がなぜいきなり右府様(信長)に拝謁を?

なにか気づかない罪咎(つみとが)でもあったのでは?

思いは悪いほうに傾く。


 

 やがて足音が響き、平伏する頭上にせっかちな声が降ってきた。

「おみやぁ~、いや、そのほう、上毛を知りおるか?」

「はっ」

戸惑いながらも即座に返事する。

「母方が羽生(はにゅう=埼玉県羽生市)の在ゆえ、川向こうはよく存じております」

「うむ。さもあらん。では、上松左馬介康光なる若輩は?」

「はい。古くは清和源氏に連なる旭将軍(木曽義仲)の実弟にて、坂東太郎(利根川)がほとりに生業(なりわ)う土豪。以来今まで、どの家中にも仕官せぬ東夷(あづまゑびす)と心得まする。ただ……」

「ただ?」

「実は無下にはできぬうわさが。その、あるお方の落とし胤(だね)と……」

信長は突っ立ったまま、傍若無人に呵呵大笑する。

「知っとるぎゃ。胤は時の帝(みかど)正親町(おおぎまち)公よ」

「御意。この上松康光なる母は美女の誉れ高く、上毛は良馬(りょうめ)と上絹を産するゆえに都とも通商がございまする。ある年、白馬の節会(あおうまのせちえ)並びに、それに連なる競馬(くらべうま)の駿馬を上毛より宮中左馬寮(さめりょう)に引き連れし折、帝の玉眼にとまりしとか。東(あづま)では女人も馬を巧みに操りまする」

「ふん」

不満そうに鼻を鳴らす。

「正親町公は好事家ゆえ、今を去ること14,5年ほどかのう? 子の誕生を見越してか名を下し置いたげな」



 左馬介は御所の左馬寮副官の官職名だ。

もちろん、称号にすぎず実権はないが、織田信長が一時期、上総守や上総介と経歴詐称したのとはワケが違う。

信長は当然、これを警戒し、即座に実子に帝位をゆずって隠居しろと退位を迫っている。

もちろん、正親町(おおぎまち)公は、帝の威光を弱めようとの黒い腹の内を見破って応じない。

そのままズルズルと現在に至っているのだ。


「恐れながら、上松左馬介康光なるは本年、数え年15にて元服いたしおるはず」

「それよ。なびくも良し、なびかぬも良し。書面をしたためるよって使者に立て」

言い捨てて信長はクルリと背を向けて去っていく。

その後姿にあわてて平伏しながら、蜂須賀彦右衛門正勝は思わず顔をしかめる。

「母方が羽生ゆえに、わしに白羽の矢が立ったか……さても因果なことよ」

 

 彼はこの後すぐに自分も上松康光に丁重な書状を送って、天下に王手をかけた平朝臣織田三郎信長への帰順を勧告している。

これは母方の小土豪、藤井五郎典正(ふじいごろうのりまさ)のたっての進言で、無理強いや恫喝にはテコでも動かなくなる上毛人気質を案じてのことだった。

それに対し、康光は「やはり野に置け蓮華草」と返している。

つまり、堂々と断ってきたのだ。

上毛人なら当然の反応だが、正勝にとっては偏頭痛が起きそうなほど厄介な事態だった。



               3



 蜂須賀彦右衛門正勝が信長からの書状を携えて上毛を訪れたのは、桜花3月のことだった。

古海(こかい)の渡しから坂東太郎(利根川)を渡ると、上松側の先触れが馬を連れて迎えに来ていた。

大柄の南部馬と小型の木曽駒を掛け合わせて、南部の馬格と木曽の頑健さをかねそなえさせた「上州馬(じょうしゅうめ)」という高価な馬だ。

馬具も無骨ながら確かな技術が感じられた。

利根川べりは湿地が多く耕作には適さないため放置されていて、川からやや離れたところに水田、少し小高い原野に牧、養蚕の桑畑と土地の高低により使い分けられているが、全体に葦原と松の生えた荒地が多くいかにも未開の印象を与えた。

丈高い馬の上から、やがて葦の葉越しに館が見えてくる。



 上毛人は重厚長大が好きである。

上松康光の館も豪雨となったら遊水池にもなる大堀をめぐらし、高い石垣の上の豪壮なものだが、装飾などはなく実用一辺倒だ。

材も油を含んで水に強い松材を多用し、見た目よりも耐久性を重視しているから、どこから見ても無骨な地方豪族丸出した。

1騎分の馬と従者が渡れる程度の狭い橋が湖のように広い堀に掛け渡してあり、タコの足のように8箇所あるところを見ると橋上は一方通行のようだった。

これは戦の折には焼き払われるか、敵を少人数づつ導くための誘導路になるのだろう。

東夷(あづまえびす)と言えども侮れない。

蜂須賀正勝はワザと物珍しげにキョロキョロしながら、軍事面の備えをしっかりと目に留めていく。

頑丈な櫓が豊富にあり、その景観を和らげるように京風の池泉をめぐらし、井戸と思しきものがいくつもある。

これは戦時だけでなく、内陸性気候の夏の渇水期に備えたものらしかった。


 大玄関の階(きざはし)前に肩衣姿の当主、上松左馬介康光の姿があった。

上毛人は大柄な者が多いが、数え年15歳の彼も若木のような爽やかさを残しながらも、すでに6尺豊かな威丈夫である。

正勝は急いで馬を降り、整った顔立ちに向かって慇懃に礼をした。

対面の間に通されると彼は客人として上座を与えられ、あらためで時候の挨拶と来意を告げた。

かたわらには羽生の藤井五郎典正がひかえて、老人らしく昔語りなどを交えながら時の流れと時流の変化を説き、朝廷の意を受けて天下に号令する信長を正当化する。

ころあいを見て蜂須賀正勝は居住まいを正し、懐から書状を取り出して読み上げた。

「天下布武。速やかに一族安泰を図るべし。平朝臣織田三郎信長花押」

たったコレだけの文面である。

彼は常に自分の考えをはっきりとは言わず、察しさせる手法をとる。

つまり,おとなしく臣下にくだらなければ攻め滅ぼすぞ、と言っているのだ。



 これに対し、康光は不敵な微笑で口を開いた。

「我らが意向はすでに明白のはず。重ねてのご使者とは、さてもおっ魂消た性無し(人としての性根がない)殿よ」

露骨に「性無し」と信長を罵倒する言葉に、藤井典正は目を白黒させてあわてたが、蜂須賀彦右衛門正勝はむしろ上松康光の大胆さを好ましく思うほどだった。

会談は決裂した。

正勝は報告のために飛ぶように安土に戻ったが、内心は戦々恐々としている。

信長の評定の場に連なってはいるものの、悪くしたらその場で斬られないとも限らない。

平蜘蛛のように平伏した背中が冷や汗で濡れるほどだった。

恐らく、半分は想定内であったのだろう、信長の額には神経質な青筋が立ったが勘気には至らなかった。

「兵2,000を与える。あんばよう(上手く)せい」

それっきり正勝には見向きもせず、話は武田の甲州征伐と毛利攻めに移って行った。

織田信長にとって、すべては同時進行なのだろう。



               4



 正勝の手勢が約800、羽生の典正がせいぜい集めても200程度、信長の正規軍が2,000でも総勢3,000といったところだ。

上松側に加担する小豪族がどれだけいるかは知れないが、僻地上毛の総人口から見ても大したことはない。

せいぜい未熟な農民兵を500から800も出せれば御の字だろう。

信長自身も細作を放って上毛の実情は把握しているはずだから、2,000の兵は、これで圧倒的勝利を得ろと厳命されたと同様だ。

蜂須賀彦右衛門正勝としては失敗は許されない。

せっかちな信長の意向を気にかけながらも慎重に戦の準備を整え、自らが先頭に立って上毛に向かったのは盛夏7月のころだった。

道中は平朝臣織田三郎信長の威光を前面に押し出し、旗指物を2倍に増やし、種子島隊、弓隊、槍隊、騎馬隊もできるだけ大人数に見えるように配置している。

威風堂々の討伐軍として、沿道の土民らを恫喝する目的だ。



 藤井典正の羽生の郷に入ると一旦、そこで軍を止めた。

春に比べて坂東太郎の水量は1/4ほどに減り、大した労なく徒歩渡れるほどである。

渇水期にしても少な過ぎるので、聞けば、前日より大堀に水を引き込んでいて、上松康光の館は周囲の沼地や湿地と渾然一体になった、巨大な水郷地帯と化しつつあるという。

渡橋も架け連ねたままで、なんと大門は開け放してあるらしい。

篭城か?

さなくば遁走か?

右府様(信長)の威光に、田舎土豪が恐れをなしたか?

それともやはりワナ?

正勝としても老練な武将だから、あまりにあからさまな有り様にはかえって警戒する。


 とにかく上毛側に渡らねば戦にならないから、かねてより目星をつけていた一番川寄りの牧に軍を進めたい。

典正によると取水口手前には以前から堰が築いてあって、堰を切れば一気に増水する。

兵を進めて渡河の最中にコレをやられたら一発で大打撃だから、対岸の羽生側にのろし台を置き、動きがあったら知らせる仕組みにして、とにかく全軍が粛々と押し渡る。

堰は切られることもなく、水量も変わることはなかった。

上松左馬介康光はやすやすと蜂須賀正勝の上毛上陸を許したのだ。

これには正勝も典正も拍子抜けしたが、戦にはどのようなワナがないとも限らない。

全軍に警戒を怠らない旨を下知して、放置されたままの牧に自軍の馬を放つ。

軍馬はすぐに草を食い始めた。



 長い真夏の陽もゆるゆると暮れて行く。

試しに遠矢を放って館との距離を測ったが、矢は届いたものの火矢はぎりぎり庭先か軒に落ちる程度だ。

隔たること400メートル前後か。

康光の出方を見るために続けて火矢を放つが、建物に届いてもすぐに濡れ皮や火叩きで消し止められてしまう。

手勢が館に篭っていることが明白になったので、大して効果のない矢戦はやめ、細作を放って夜通し館の動向を探らせることにした。

多少、この地を識る藤井五郎典正の助言はあっても敵地だけに、様子の知れない寄せ手より自場で戦う康光側が有利だ。

現に忍びの多くは、勝手知った上松側に捕縛されてしまっていた。


 蜂須賀軍は東国までの長旅で疲れている。

それに加えて抵抗らしい抵抗は皆無だったのだから、自然に気も緩んでくる。

中には田舎土豪如きがとすっかり馬鹿にして具足を脱ぎ捨て、下帯一丁で蚊遣りの煙の中に転がる者も出て、戦なのか遊山なのかわからない。

人の常とは言え、緊張を維持するにはそれなりの状況が必要なのだ。

そんな夜半に動きがあった。


 康光の手勢が地の利と暗がりに乗じて忍び寄り、160頭ほどの蜂須賀軍馬匹の周囲に30頭ほどの発情した牝馬を放ったのだ。

軍馬は牡馬ばかりだから牝の匂いにたちまち狂奔し、ラチを蹴破って原野に躍り出、我が牧へと駆け去っていく牝馬のあとをわれ先に追う。

上松康光はやすやすと敵の軍馬を手に入れ、逆に正勝側は馬がいなくては騎馬戦もできないのだ。

気付いた雑兵が止めようにも、次々に弾かれ、蹄にかけられていく。

いくつもの悲鳴が上がったが、本当の恐怖はその次にあった。



 読者はウエスタン映画で牛の大暴走を見たことがないだろうか?

馬の習性を熟知していた上松康光は、馬でそれを再現したのだ。

「馬、馬が逃げたぞっ」

という叫びが交錯する陣を坂東太郎(利根川)側に押しやるように、100頭ほどの大柄な上州馬(じょうしゅうめ)を横1列に並べ、その尻尾に花火をつける。

長柄の松明でいっせいに点火すると馬の目はかなり後ろまで見えるから、飛び散る火花にたちまち狂気の如く荒れ狂い、泡を吹き、大地を踏みとどろかしてひたすら前に驀進する。

こうなると人力では止めようがない。

行く手をさえぎる者は武将兵卒の区別なく、半月の薄暗がりから突如現れる奔馬に体当たりされて踏みにじられ、蹴られ、食いつかれ、引きずられて命を失って行く。

それを場所を変えながら3回繰り返された3,000の兵は、ほとんど総くずれの状態で沼地にハマって討ち取られたり、槍襖(やりぶすま)を作って襲い掛かる騎馬隊に突き伏せられ、追い散らされて、命からがら坂東太郎のほとりに逃げていく。

ところがここでも悲鳴が上がった。


 夕刻まで浅い流れのはずだった大河は今や満々と水をたたえ、一部はあふれて洪水となり、上毛より低い羽生側に流れ込んでいる。

堰が切って落とされたのだ。

藤井典正の手勢が必死に舟をこぎ寄せ救出していくが、火矢を豊富に射掛けられてたちまち赤々と燃え盛る。

前には水、後ろからは馬と槍と白刃に追い立てられて、兵士たちは我先に水に飛び込み、流れに抗えずに溺れていく。

夜が明けたときには3,000の兵は、わずか280に満たない上松勢に蹴散らされ、押し破られて惨憺たる有様になっていた。

大将の蜂須賀彦右衛門正勝自身もほうほうの体で兜を落とし、髷も乱れた落ち武者姿で捕らえられている。



               5



 「越え来ては戻る術なき箱根山 草葉の陰に残す言の葉」

 大敗を喫した敗残の将として、館の階(きざはし)前に引き据えられた蜂須賀正勝はすでに覚悟を決めていた。

上記は彼の辞世で、

「東国に至るために越えてきた箱根山も、負けた今となっては帰ることが出来ない。死を意味する草葉の陰に無念の思いを残しで逝こう」

という意味だ。

これに対し、上松左馬介康光は、

 「心あらば寄り添う花もありしにや 如意不如意をかこつ人の世」

と即座に返している。

意味は、

「花(信長)にも心があるなら思いに寄り添ってくれることもあるだろう。思い通りになったり、ならなかったりが人の世の常なのだから」

このあたりは若輩とはいえ、実に人生の機微に通じている。

若者がなかなか大人にならない現代と違って、このころの成人は13~15歳で、平安期には7~8歳という時代もあった。

それでも早熟な彼らは立派に大人の分別を備えていたのだ。



 康光はそのまま正勝を生き残った500の兵とともに安土に帰している。

「虜は斬らぬ。裁断は主(信長)がすべきこと。斬るも善し、斬らぬも善し。けじめとはそういうもの。おれのあづかり知るところではない」

との考えからだった。

蜂須賀正勝は悄然として西国に帰ったが、登城の折は白装束に着替え、額には死者を表す三角の白紙をつけている。

もとより信長の勘気に触れ、居並ぶ諸大名の前で叱責され、あるいは折檻され、罵倒されたのち斬られる覚悟だ。

この大失態が許されるはずはないのだ。

案の定、信長は目をむき、座を蹴って立ち上がった。

「た~けっ、とろくせやぁっ」

怒りのあまり、お国なまりが丸出しだ。

同時に太刀取りの小姓の手から白刃をひったくる。

あなやの時に群臣の群れから転がるように平伏した者がいる。

蜂須賀正勝の直属の主、羽柴藤吉郎秀吉だった。


「右府様に申し上げまする。この者はすでに身まかりし者。この姿を御覧なされ。すでに鬼籍に入りしを斬るはお刀の穢れ。この場はみどもにあづかり置きくだされたく」

このような身を挺した忠言を聞く信長ではない。

割って入った秀吉を蹴倒し、抜き身を振り上げる。

 

 この時、嫣然と笑ったものがいる。

たまたまその場に居合わせた安土殿(帰蝶)だった。

「ほんに殿もとろくせやぁ~。この者が東夷の姦計にかかりしは、西国武士の本分をわきまえたればこそ。1度のしくじりをことさら咎められては、殿などはいかがなさる? その昔、わたくしめと会(お)うた寝屋にて……」

「あっ、あ~。めちゃんこぼっさい(古い)話がや。ちいとねゃあかんこ~する(少しばかり考える)よって、ちゃっちゃと去(いぬ)れ」

あわてた様子で帰蝶の言葉をさえぎる。

細君の阿吽の呼吸に、さしもの信長もたじたじの有様だった。



 かくして命拾いした蜂須賀彦右衛門正勝は、羽柴藤吉郎秀吉が天下を取り、関白太政大臣豊臣秀吉となってもかわらぬ篤い忠誠を誓い続けていた。

1585年の四国攻めでは戦功を上げたばかりでなく、戦の残務処理に尽力し、その功労を称えられて175,000石の大録を与えられている。

やはり、凡庸な武将ではなかったのだ。

しかし、四国阿波はあまりに遠かったため、それを長男にゆづり、自分は変わらぬ側近として秀吉の身近に仕え続けた。

やがて1586年(天正14年)、病を得て床に伏せる身となったが、そのころ、しきりにこんな話をしている。

「わしは東国で龍を見た。上毛の大河のほとりよ。上松左馬介康光ゆうて、右府様のご威光にもなびかずまつろわず、1人龍の如く天空をいく。わしもそうありたかったが、わしにはできなんだ。人生は夢の間。すべて昔の物語よ」


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