第30章 宵山の音色


「悠斗はん、うちには定めがあるんや。祭りの神さまは冷たいなあ。今日だけでも、夕暮れを長くしてくれたらええのに……。夜なんかいらん」


 彼女の可愛らしい京言葉は、別れを予感させるものだった。それでも、僕は諦めていなかった。その刹那を永遠な時間にすることを願っていた。


「あかねのことを忘れないよ。君がどこにいても、僕はずっと君を想ってるよ」


「うん、おおきに。うちもやで。あんたのこと、ずっと忘れへんで」


 そのあと、僕らは言葉もなくなり、ただ見つめ合った。彼女の瞳に映る僕自身が、僕には愛おしくて仕方がなかった。僕は何度も何度も彼女の名前を呼んだ。


「あかね……あかね……」


 僕の声だけが車内に響き渡った。


 山鉾の影が、暗闇の中鮮やかに浮かび上がった。つづれおりの懸装けそうに提灯の明かりが照らされ、真っ赤に染まってゆく。  

 三条大路沿いにはびっしりと屋台が立ち並び、ちまき売りの呼び込みに立ち止まり、はしゃぎ廻る浴衣姿の子供たちが群がっていた。

 もうこうなったら、少しぐらい遅くなっても仕方ないだろう。どうせ、祭りの交通規制で車は動かないのだから。


 厄除け 安産 お守りは これより出ます

 常は出ません! 今晩かぎり


「粽を買ってあげるよ。後で食べれば良い」


「ダメやん。あれ、食べられへん。そやけど、うち、豚まんがええな」


「もち米のちまきやろう。今晩かぎりと言っているし……」


「ちゃいます。あれ、厄除けの飾りや」


 肝心なところが、祭りの喧騒で聞き取れていなかった。東京人の僕みたいな凡人には、粋な習わしは知りえなかった。ここにも京都に昔から伝わる習わしが感じられた。しみだれ豚饅の売り子の声も、夜祭りのムードを盛り上げていく。


 うまいしみやれ食べてみとぉくれやす 

 コンコンチキチン~♪ コンチキチン♪


「悠斗はん、うっとこは、もうちょいや。うちら食べな急ぐで。おかんが角出して痺れ切らして待っとるやろう」


「うっとこって、なんや?」


「知らへんのかいな。花街で言われる我が家のこと。可愛いやろう。うちのえらい好きな風車の山鉾も見られるかいな」


 あかねは若いのに、可愛らしい京言葉一色となっていた。彼女の説明では、花街や花柳界はもちろんだが、商家の多い中京や北野の方は今でも京都弁が使われているらしい。彼女は名残り惜しそうに、目に飛び込んでくる祭りの景色を眺めていた。


 烏丸通(からすまどおり)には「京の赤羽堂」が見えてくる。四層造りの軒高がある呉服屋の家屋は老舗らしさが際立っていた。


「あの店でうちの着物を仕立ててもらっているんやで。えらい大きな呉服屋さんや」


 彼女はそうつぶやいた。


 そばには「風祭町」と濃墨の文字で描かれた提灯をたくさん吊り下げ、てっぺんに飾り車がクルクルと廻る山鉾が巡行への骨休みをしていた。


「あれ、うちらの山鉾や。立派やろう」


 あかねはひとつひとつ丁寧に教えてくれた。


 山鉾は街の代表選手みたいなものらしい。ノスタルジックな雰囲気と高揚感、そして哀愁が同時に押し寄せる宵山の祭りは、一度知ったら二度と忘れられない景色を刻み込むだろう。僕は心から、来年も再来年も、永遠に彼女と祇園祭を見続けられることを願っていた。


 間もなく黄昏時を迎え空が少しずつ淡い橙色に染まってくる。日中では見られない風情豊かで幻想的な雰囲気が漂ってきた。


 目の前に広がる店の軒先には、将棋の駒のような提灯がともされていた。目と鼻先の郷愁を誘われる山鉾や提灯の揺らめく明かりに心を奪われてしまう。そこには橙色に染まった空と観光客であふれる喧騒な街色が美しいコントラストを描いていた。


「あかね、綺麗やなあ……」


 思わずつぶやいていた。


「悠斗はん、ほんまやなあ……おおきに。今夜は京都のまつりの華やさかい」


 彼女はデートの道すがら、「さん」ではなく「はん」と呼んでくれていた。京都の人々は心を開くことが少ないと聞いていた。男女間では特にそうだった。  

 しかし、そう呼ばれることで、彼女とは何か特別な絆で結ばれており、ふたりの距離が縮まった気がした。


 車を走らせると、祇園祭のメインイベントである「山鉾巡行」の準備が始まっているのが見えた。巨大な山鉾が、人力で引かれているのだ。その姿は、まるで時代劇のワンシーンのようだった。


「あの山鉾は、明日の朝から巡行するんやで。えらい迫力やで。見たことある?」


「ないよ。初めてだ」


「そうやったら、見とかなあかんで。京都の文化や歴史や信仰が詰まっとるんや。うちも毎年見に行くんや」


 彼女は興奮気味に話していた。僕は彼女の笑顔に見とれていた。彼女は祭りのことをとても愛していたのだ。それなのに、なぜ祇園祭が嫌いだと言ったのだろうか。その謎は、まだ解けていなかった。


 車を止めて、彼女に手を差し伸べた。彼女は僕の手を握って、車から降りた。ふたりで山鉾の近くまで歩いていった。その途中で、彼女は突然立ち止まった。


「悠斗はん、ここでちょい待っとって」


「どうしたの?」


「うち、ちょい用事があるんや。すぐ戻るさかい」


 あかねはそう言って、僕の手を離して、人だかりの中に消えていった。僕は戸惑いながら、彼女の後ろ姿を見送った。彼女は何をしに行ったのだろうか。僕は不安になった。彼女は本当に戻ってくるのだろうか。


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