第31章 月下のなみだ


 車を止めたまま、僕はあかねが戻るのを待っていた。


 目の前で桜色のかんざしを挿した芸妓さんたちが「綺麗やわ……」と鎮座する鉾先をつんつんしている。そこには、京都ならではのはんなりとした空気が漂っており、僕は彼女たちに熱い視線を送っていた。

 芸妓さんの姿は、あかねが花街で修行する未来の姿に重なって見えた。彼女がそんな美しい女性になることを誇りに思いつつ、その切なさに胸が締め付けられた。


「あれ、うちと同じ置屋の姐はんたちや。綺麗やろう。悠斗はん、なんでそないに鼻の下伸ばして見惚れてるんや。男の人はみんなおんなじ。こらこら、怒るでぇ。うちも、あないな、たをやかな女性になりたいなあ……」


 あかねは、気がつけば厄除けの粽を二本手にしながら、戻って来ていた。彼女に僕の悪ふざけを見つかり、やんわりと叱られてしまった。


「なりたいって、どういうこと?」


 彼女の言葉は何を言いたいのか、謎に包まれていた。あかねは本当に謎多き女性だった。けれども、そんな悠長な雰囲気に戯れている余裕はなかった。いつの間にやら山鉾の周りに大勢の人垣ができて、車が思うように進めないのだ。


 先頭に長刀鉾(なぎなたほこ)、後ろに函谷鉾(かんこほこ)、右に郭巨山(かっきょやま)と四条傘鉾(しじょうかさほこ)。左へ小さく月鉾(つきほこ)。


 そして右の隅に空高く伸びる菊水鉾(きくすいほこ)、からくり仕掛けの山鉾蟷螂山(とうろうやま)………。それぞれに面白い名前がついており、祭りに詳しい彼女から教えられていた。

 祭りの主役となる山鉾は、壮健で立派なものである。しかし、あかねの儚げな姿が気になり、後ろ髪引かれる想いで見つめていた。


 あかね……あかね……。夜が更けていくにつれて、僕の心は彼女のことでいっぱいになった。あかねとふたりで居られるのは、延ばしてもあと五分ほどだろう。


 暗くなるまでに自宅へ送り届けるとの約束をしていたはず。けれど、すっかり暗闇は深まっていた。悲しいことに時間は止まってくれなかったのだ。


 あかねとは不思議な出会いを四回繰り返してきたが、彼女の詳しい生い立ちや実家の場所すらわからない。僕はどんな存在なのだろうか。ふと、寂しさに気づくと、彼女の方から意を決したように口を開いてくる。


「うち、もう半年で高校を卒業やろう。そやけど、大学へは行かん」


「えっ。どうするんや」


「もっと花街で修行始めんねん。怪我で遅れてもうたけど……」


「…………」


 僕は黙ったまま聞いていた。


「踊りと小唄、あとは三味線かいな。うち頑張るさかい。おかんに負けへんように」


「…………」


 僕は気持ちが高ぶって、もう言葉にならなかった。


「今日は、えらい楽しかったやで。一生涯忘れられへん思い出になったさかい。おおきになあ……」


 あかねは包み隠さず話してくれ、その言葉からは生い立ちすら垣間見えてきた。母親も若い時から花柳界で生きてきた女性らしい。さらには、父親もいないそうだ。

 今は母親と六角堂近くの由緒ある風祭町に住んでいるという。母親は生け花の先生をしながら、生計を立てるために細々と小間物屋をやっていた。


 六角堂の建物の明かりがぼんやりしたまま近くに見えてくる。もっと僕らの時間を求めるのは許されないのだろうか。せめて、ふたりだけの時計の針が止まってくれればと願い求めた。


「その近うで車を止めて。最後まで、最後までほんまにおおきに」


 あかねが寂しそうにそうつぶやいた。


 僕から深遠な悲しみが溢れ出し、その悲しみの波に彼女の言葉が静かにのみ込まれていった。僕にとって、彼女は命を助けた少女というより特別な存在となっていた。初めて好きになった運命の女性、そんな気がしていた。


「お太子はんには悪いけど、うちにとって目ぇ直してくれたお釈迦様のお家。ほんまは、ここも一緒に歩きたかったのに……」


 あかねは毎日、六角堂の仏さまに向かって祈り、庭の花を摘んでお供えしていた。彼女は目の病気に苦しんでいて、その病気は幼い頃からあったようだ。


 時間がどんなに遅くなっても、僕は彼女と別れることを望んでいなかった。車のドアを開けてあかねを降ろすと、周りの目を気にせず、彼女を強く抱きしめてキスをした。その時、彼女の香りが鼻先をくすぐった。


 そのとき、突然、僕の心に今では使われなくなった「四文字」の言葉が一瞬よぎった。思い出すと、彼女はまだ未成年だった。万が一、未成年者をたぶらかした罪で逃亡者になったとしても、あかねと遠くに「駆け落ち」したいとさえ希望を抱いていたのかもしれない。


「家まで送るよ。お母さんにも謝らないと」


 けれど、僕にはまだそこまで踏み切れる勇気がなかった。


「やめとぉくれやす。うち、かえってつらくなるさかい。ほんまに、おおきに」


 あかねはそんな僕の熱い想いに気づかないのか、切ない最後の微笑みを届けてくれた。僕は男なのに、彼女の優しさにもう涙が止まらなかった。このままではふたりとも帰れなくなってしまう。あかねも僕の涙を感じていたはずなのに。


「うちな……。最初で最後のデートやと初めから分かっとった。そやけど、嬉しかった。さいならやね……。もう、会えへんのやな」


 僕は、笑顔で彼女との別れを迎えようとした。でも、その瞳にはすでに涙が宿っていた。涙は僕の力を超えてあふれ、頬を伝って、胸に滴り落ちた。その冷たさが、別れの言葉さえも凍らせるようだった。


 彼女の目にも涙が満ちており、月明かりに照らされ、キラキラと輝いていた。僕にとって最も美しく、心を刺すような切ない光だった。彼女の愛を証明する宝石のようでもあり、彼女との別れを告げる鐘の音のようでもあった。月の光を受けて星のように輝く彼女の涙が、僕の心をいくども揺さぶった。


 古民家が並ぶ通りには、ぼんやりとした明かりが灯っていた。彼女が遠ざかってゆく姿は、まるで影法師のようだった。それとも、はかなく光るホタル、あるいは一瞬で消えてしまうかげろうのようでもあった。その姿は、遠くの星々が夜空に散らばるように、僕の心の中に深く刻まれていった。


 あかねの浴衣姿が、一歩ずつ消えていく。


 彼女の歩みが、僕の心に深い足跡を残した。京下駄のカランコロンという音色が、僕の耳に永遠に響き続けるだろう。薄紫の花影が遠ざかっていく。彼女の足取りは名残惜しそうに、ゆっくりとしていた。道すがら一度だけ、その足音が止まった。


 その瞬間、時間さえも止まったようだった。


 あかねは振り返って、僕に最後の笑顔を見せてくれた。その笑顔は、僕にとって最も愛おしく、心を癒すようなものだった。

 僕も自然に微笑みを浮かべた。それは、彼女の幸せを祈る笑顔のようでもあり、彼女との別れを受け入れる笑顔のようでもあった。そして、彼女の笑顔は月の光を受けて星のように輝き、僕の心をふたたび揺さぶった。


 しかし、そのあとすぐに彼女は、まるで最後の炎が一瞬明るく燃え上がるように、小走りとなった。そして、あかねの姿は風花が夜空に舞うように、ただ一瞬の輝きと共に消えていった。 

 その姿は、夜明け前の星々が朝日に消えていくように、静かでありながらもこの上なく美しかった。そして、僕の心の中に永遠に残るひとつの奇跡となった。



 僕は「あかね……」と声を上げながら、胸に「悔恨」という文字を刻んで、涙を流した。もう二度と、彼女の笑顔を見ることはないかもしれないと知っていたから。そして、彼女の笑顔を見ることができたのは、神の紡ぐ運命の恵みだったと感謝した。





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