第32章 嵐山送り火


 日々はあっという間に過ぎていく。京都の街は晩夏を迎えていた。耳に残るのは、夏の終わりを告げるセミの切ない鳴き声と、自分自身の深いため息だけだ。

 どんなに美しい風景をカメラに収めても、心から楽しむことはできない。目を閉じれば、あかねが舞妓の衣装を身にまとい、夜露に照らされて輝く姿が浮かんでくる。


 彼女が残した言葉「うち、もう半年で高校を卒業やろう。そやけど、大学へは行かん」は、心の奥深くに響き渡り、刺すような痛みを与えた。あかねが卒業を待つことなく、舞妓の修行に旅立つという現実は、到底受け入れられない。

 それはまるで、遥か遠くの星から降り注ぐ光が、夜空を照らす前に消えてしまうような絶望感だ。この感情を誰にどう表現したら、良いのだろうか……。


 彼女が何気なく口にした「お父さんがいない」という言葉と、「うちの定め」という解明されていない謎が、僕の心を揺さぶった。彼女の言葉は、いつも可愛らしい流暢な京言葉で、今どきの女の子が使うであろう若者っぽい言葉とは全く違っていた。その疑問は次から次へと湧き上がってくる。


 僕は彼女を止めることができなかった。夜露に照らされて、ほのかに光る彼女の姿は、まるで夢の中の幻のようだった。僕は彼女と駆け落ちしたいと心から願った。

 けれど、それは叶わない夢だった。自分の弱さや臆病さに嫌気がさして、後悔の涙を流した。


 僕の心は、古都・平安京の幽玄な世界に迷い込んでいた。そこでは、寂しげな風花が舞い散り、少女との別れの言葉が響いていた。彼女は僕の心の中に、消えない傷跡を残していった。


 あかねと下鴨神社で再会したあの日、僕は初めて本当の愛を知った。彼女の笑顔、声、仕草、全てが僕の心を奪っていった。だから、彼女と別れることは僕にとって死と同じだった。彼女が去っていったとき、僕の心も一緒に失ったような気がした。


 僕は激しい怒りと悲しみに震え、セミの抜け殻のように虚しく過ごす自分に憤りを感じた。このまま別れてしまうなんて、絶対に許せない。もう一度彼女に会いたい。どうしても会いたい。その一心で、手紙に想いを綴って送った。


 数日後、返ってきた郵便物を見て、血の気が引いた。開封されていないその封筒には、受け取り拒否の烙印が容赦なく押されていた。


「なんで……」


 せっかく選んだあかねのベストショットを届けたのに。彼女に見てほしかった写真なのだ。どんな事情があっても、人の好意を無視するなんて、許せない。涙が止まらなかった。


「この恨み、はらしてやる」


 僕はそう心に誓った。でも、本当にそうしたいのだろうか。それは、あかねが本当に望んでいることなのだろうか……。僕は自分自身がわからなくなっていた。


 怒り狂って手紙を引き裂き、床に投げつけた。そして、泣き叫ぶように独り言を漏らした。母親があかねと僕の繋がりを引き裂いたんだ。彼女は僕から唯一の幸せを奪ったんだ。

 残念無念で極まりなく、母親への憎しみが波立つ心は、悔しさでいっぱいとなっていた。けれど、あかねへの愛情はまだ消えていなかった。彼女の笑顔や声や仕草が頭から離れなかった。


 六角堂や手紙の住所を頼りにすれば、あかねの居場所は分かるはずだ。夕暮れ時、星空が広がると、自宅へ向かい、母親と直談判したくなる。


 しかし、今日は八月十六日。まだ、お盆の最中なことを思い出してしまう。祇園囃子の祭りの音色がやんで、古刹の庭で蝉しぐれが名残惜しそうにこずえを揺らしていた。いにしえの都は、五つの里山で送り火を迎える夜だった。

 京都の人々は、先祖を偲ぶ「おしょらい迎え」や「五山の送り火」に心を込めていた。この情緒豊かな風景は、京都ならではのものだ。  


 けれど、僕は違っていた。あかねに会いたくて仕方がなかった。でも、それは叶わなかった。この伝統的で大切な日に私怨を晴らすのは心苦しい。そんな想いから、ひとり出かけて行くことにした。

 

 僕はあかねの命を助けた縁の深い嵐山の渡月橋へと向かった。なぜか、彼女の姿を探しているような気がした。けれど、カメラなんかは持って行かなかった。あかねがいない写真なんて、見る気にもならなかったからだ。

 

 今夜の八時頃には、「大文字」が点火されるはず。「五山の送り火」は古都に伝わるお盆の精霊を送る伝統行事だという。東山に大文字が浮かび上がり、松ケ崎に妙・法、西賀茂に船形、大北山に左大文字、そして嵯峨野に鳥居形が点灯するらしい。


 四条大宮の駅から嵐山まで路面電車で移動した。京都市内から三十分ほどで嵐山に着いた。僕は日没前に渡月橋から流れる桂川を眺めていた。浴衣姿の女性たちがラムネを手に持ち、大文字焼きを観ようと場所取りしていた。


 空はロイヤルブルーに染まり始めた。黄金色に輝く渡月橋が浮かび上がった。夜の帳が下りてくると、僕はその中でただひとり孤独になった。暗闇から紺色へと変わる時間を刻む中で、先祖への思いを馳せる灯籠の明かりが静寂な流れに乗って漂っていった。周りは美しい風景であふれていた。でも、僕の心は暗く冷たくなっていた。

 そのとき、灯籠の火が目に入った。木枠と紙で作られた鳥籠を赤く染めていた。あかねの面影が浮かんだ。ゆっくりと揺らめくその火は、人間の優しさや思いやり、そして死後の世界の儚さを教えてくれた。


 僕はその火に向かって手を伸ばし、あかねに触れたいという切ない想いが胸を締め付けた。でも、その火は遠くて届かなかった。僕は力なく手を下ろした。あかねはもう僕の手の中にはいなかった。僕は泣きながら、おぼろげな彼女に「あかね、元気にやってるのか」と呼びかけた。


 あかねは本当にこの地で自ら死を選んだのだろうか……。僕が彼女を助けられたのは運命的な絆なのだろうか……。彼女の父親は、母親が言う通り、二度と現世に戻ることは許されない永遠の世界にいるのかもしれない。そんな疑問が頭をよぎり、涙がこぼれてしまった。 


 僕の目の前に漆黒の川面が広がっていた。灯籠の明かりがゆらゆらと揺れ、遠くの山に「鳥居」の送り火がゆっくりと燃え上がっていく。その光景は京都ならではの夏の終わりを告げる美しい風情が漂っていた。


 ひとりで五山の送り火を眺めていると、縁結びの神様の門を守る白ギツネが寂しそうに、「悠斗はん、まだ諦めたらあかん」と囁いてくれているようだった。その声は僕の心に深く響き、あかねへの想いを再び燃え上がらせた。それは切なさと希望が混ざり合った、甘く苦い感情だった。


 この感情は僕自身でも理解できなかった。


 しかし、それでも僕はあかねを追い求め続けることを決意した。それが僕の心から湧き上がる本当の気持ちだったからだ。



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