第33章 運命の手紙

 

 翌朝、晩夏のセミの音色が鳴り響く余韻が僕の琴線に触れていく。カナカナ……という微かな音が、静寂を切り裂いて響き渡る。その音は日々少しずつ変化し、蜩(ひぐらし)のような儚さと切なさを帯びていた。


 そっと音色に耳を傾けると、何とも言えない感情が湧き上がり、部屋を飛び出し階段を駆け下りる自分がいた。


 何気なく手を伸ばし、集合住宅の郵便受けの扉を開けると、そこには一通の手紙が寂しげに横たわっていた。

 驚きと戸惑いで心がざわつきながら、その封筒を手に取り裏返すと、「あかね」という名前がまるで木漏れ日から映えるように浮き上がってきた。それは、遠く離れた彼女からの声なき静かなる叫びであり、僕へと向けられた深い想いの証だったのだろうか……。


「あっ、あかねからの手紙や」


 僕は夢を見ているかのような、信じられない光景に接して、思わず驚きの声を上げた。その瞬間、心は激しく揺さぶられた。それは僕にとって、夏との別れを告げる遠雷が静かな空を裂くような衝撃だった。


 部屋に慌てて駆け戻り手紙を開けると、あかねからの言葉が丁寧に綴られており、その一言一句が僕の心を打ち、目頭が熱くなった。それは彼女ならではの深い想いと切なさが、文字から伝わってくるようだった。


 あかねが母親に内緒で送ってくれたのだろうか……。その想いは胸をさらに締め付け、僕自身の無力さと不安が混ざり合い、息苦しさを増幅させた。

 恋する彼女からの想いは、僕への愛情深いメッセージであり、彼女の心からの切実な叫びだったのかもしれない。会ったばかりなのに、懐かしい京都弁の響きすら、夜空に輝く星の欠片のように届いてきた。



 神崎 悠斗 さま


「悠斗はん、よう聞いとぉくれやす」


 もう、運命の糸が切れてしまったかのように……。残念ながら、お会いすることは許されません。お手紙を書くのも、今度で最後となります。

 それが、うちら舞妓の悲しい運命の定めというものなら、「しゃあない」と諦めるしかないのです。

 そやさかい、うちは正直な気持ちを伝えたい。もう偽りをいうのは嫌なんです。


 あの寒い朝、うちは一度死にました。そやから、あれ、事故ではないのです。自分の意思で、桂川の冷たい水に……。なんでそんなこと、したのかって。ほんまのことは、うちにも分からないのです。


 けれど、前日に叔父の所に祖母の十三回忌の法要で出向いていました。深夜、おかんと叔父がこっそり話す内容が偶然にも枕元の耳へ入ってきたのです。

 幼い頃から「おとうが病気で亡くなった」と聞かされていました。でも、本当は父親が分からない〝ててなしご〟だったことを知りました。


 ご存じのとおり、若い頃の母は、祇園の舞妓をしていました。まだ十八歳の時、ご贔屓ひいきの旦那衆のひとりに恋をして、うちが生まれたそうです。


 でも、もしかしたら、おとんは別な人かもしれません。そやから、戸籍上の父親の欄には、今でも名前が書かれておりません。

 しかし、厳しい母親だけど、責めるつもりは毛頭ないのです。たったひとりの肉親なのですから……。幼い頃から気丈夫な彼女の背中を見ながら育った気がします。一人前の舞妓としてのしつけは母親からすべてを習ってきました。それが花街で生きるうちらの手段なのです。


 うちは目の病という厳しい戦いもしていました。いつ左目が、そしていつ両目が見えなくなるのかという不安が日々を覆い、そんな心配が重なり、自分自身を見失っていたのかもしれません。


 でも、驚くべきことに、母親が今出川にある「清明神社」の陰陽師はんにお百度参りまでして、うちが全快するのを祈ってくれていたことを知りました。


 けど、可笑しいですよね。そんなことで死のうとするなんて。世の中にはもっと苦労している人が大勢いるというのに。「あほんだら!」て叱っとぉくれやす。いま、うちは生きてます。運命の神さまが暗い世界から引き上げてくれました。

 色鉛筆で花の絵を描いて渡したら、病室でこないな傷だらけな女でも、悠斗はんは一緒に歩きたいと言うてくれましたね。うち、すごく嬉しかった。本当に、嬉しかったんです。


 ふたりで歩いた初夏の「糺の森」はとても眩しくて綺麗でした。悠斗はんとの最初で最後のデート。とても、短いひととき。それでも、うちにはとても楽しかった。

 最初、可哀そうに見えるからかも……。ふと、不安な気持ちが浮かんでいました。けど、やさしい笑顔に救われ、いつとはなしに不安は消えてなくなりました。


 うちのことを可愛いとも、言ってくれましたね。もう胸の中で激しく鐘が鳴って、熱うなって。それが悠斗はんに聞こえてしまうのが、とても恥ずかしかった。


「女心と秋の空」そう美しい女性の言葉として、よく言われていますね。そやけど、うちの心は京都を流れる桂川の清流のように、どこまでも透き通った水ごころ。

 その鏡にはひとりの人がずっと映っています。眩しいくらいの笑顔と思いやり、こんなに辛くて苦しい気持ち。初めて知りました。

 あなたに代わるお人なんていません。きっともう現れないでしょう。だって運命の神さまなのですから……。悠斗はんのお邪魔にならないように、その思い出を大切にしてうちは生きていきます。


 もう、死んだりしませんから。


「安心しとぉくれやす」


 早う一人前のプロのカメラマンになってください。


「ほんまになっとぉくれやす。ファイト! 色々とおおきにな」


 悠斗はんへ。最後に心からの言葉を詩に託してお届けします。拙い文章でごめんなさい。この詩を、どうか胸の奥底にそっと留めておいてください。

 

 悠久の都にこっそりと

 たたずむ祇園の花街。

 うちはそこで生まれ育った

 移ろいやすい影の中の花。


 舞台は華やかでありつつ

 届ける下駄の音もかるやか。

 そこには人々を惹きつける

 おもてなしの花が咲く。

 

 けれど、一歩でも

 花の心を覗き込めば

 風花の舞う雪景色のように

 どこまでも透き通っており

 冷たく、静かだ。


 花を舞う蝶に成り代わる

 うら若き舞妓の姿は

 恋をせずにはいられないが、

 恋をすれば美しき花は散る。

 それがこの世界の厳しいさだめ。


 けど、うちはただひとりの人を

 心から愛し、彼を想う。

 それが禁断の恋と知りつつも。


 花柳界で生きるうちは、

 その運命を受け入れながら

 人知れず愛する人へと

 切ない想いを馳せている。

 

 はかなくも美しい蝶として、

 祇園の花街で生きてゆく。

 それがうちの運命と定めて。



 長々とごめんなさい。さようなら。

(あかねより)


 涙なくしては読めない手紙を手元に置きながら、どこまでも透き通る清流に映り込む儚げな少女、あかねの姿を思い浮かべていた。このままでは、二度と会えなくなってしまう。読めば読むほど、男としてだらしのない自分を悔いていた。



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