第34章 六角堂の誓い

 

 ついに、野々村すず(あかねの母親)との対決の時が訪れた。戦いの火蓋は切って落とされ、もはやためらっている余裕はなかった。

 

 夜の帳が下りると、あかねを暗闇から救い出すための議論に挑むことになった。六角堂近くの古民家で、母親は小間物屋を営んでいると聞いていた。

 相手の母親は舞妓あがりで、海千山千の手ごわい女性だった。もしかしたら、あかねもそこにいるかもしれない。お盆休みならば、好都合だろう。正直に言えば、彼女には味方して欲しかった。


 時刻は五時半を迎えて、夕暮れ空に雷雲が迫ってきていることに気づく。しだいに暗雲が漂う中、手紙の宛先を頼りに訪ねていた。六角通りを歩きながら、鐘の音が聞こえてきた。近くには鐘楼が建ち、通りの両脇には京都らしい町家が見えていた。

 水を打ったような石畳の通りに、紅殻格子べんがらごうし虫籠窓むしこまど。軒下には竹の犬矢来いぬやらいといった瓦屋根の軒を連ねる京町家が建ち並んでいた。


 六角堂に入ると、空気が一変し、そこは不思議な魔界と化していた。急ぐべきなのに、「縁結びの柳」と書かれた案内板に目が留まった。何でも興味を引かれて、すぐに脇道に逸れてしまうのが、僕の悪い癖だ。


「六角堂の柳に願をかけると、良縁に恵まれる。昔、この地に住んでいた女性が愛する男とやむを得ず別れる際、柳の枝を”輪っか”にして渡し『再会を願った』という。すると、一年後の春を迎えて、ふたりは再会できたと伝えられていた」


 目の前に、ヤナギの枝が風に揺れている。その枝にはおみくじがたくさん結ばれていた。二本の柳の枝をひとつにし、おみくじを結ぶと、絶大な縁結びの御利益があるらしい。


 御神木に向かって、若い女性たちが大勢集まり、そっと手を合わせていた。彼女たちの真剣な眼差しに驚く。美しく健気に思える女性たちを横目に通りすぎた。

 また、本堂前には丸く穴のあいた六角形の石があり、「へそ石」と呼ばれている。京都市中心部に位置するからその名が付けられたようだ。「今宵、僕に力を貸してください」と思わず手を添えてしまった。


 六角堂を抜けると、一軒だけ小間物屋があり、その店先から明かりが漏れてきた。屋号の看板が確認できた。「風祭の小町紅屋おまちべにや」はなかなかおしゃれな店の名前だ。これが母親の営む店だろうか。   

 もう一度、住所を確かめてみた。中京区六角通東洞院西入堂之風祭町241。間違いなく合っていた。


 ところが、突然夕立に遭遇して、古風な小間物屋の格子木戸の軒下で雨宿りをせざる得なくなった。このままでは濡れねずみになってしまう。

 僕はふうとため息をついて、嵐となる前夜の気持ちとなり、空を見上げていた。こうなれば、当たって砕けろだ。いつまでも、町家の庇に身を寄せているわけにはいかない。清水の舞台から飛び降りてやる。



 扉を慌てて開けると、鈴の音が聴こえてくる。人の気配は感じられない。誰もいないのだろうか……。正直、恐怖を覚える。しかし、気まぐれな風が店に届いたのか、藍色の暖簾がユラユラと揺らいで、心の奥底まで見透かされそうな感覚に襲われた。


 店の中には丸い窓(円相窓)をくり抜いたような簾戸すどがあり、見れば見るほど、まるで花街の待合茶屋(置屋)のように、しっとりとした艶やかさが感じられてくる。間口は狭いが、奥まで続いており、京都らしい雑貨が見受けられる。

 あぶらとり紙、椿油、髪飾り、くし、かんざし、お手玉、和紙の便せん……が所狭しと並べられている。天井からは吊るし雛が飾られており、女の子なら思わず「可愛らしい」とつぶやいてしまうだろう。どこからともなく、京都の手まり歌の音色が聞こえてくる。


 まるたけえびすに おしおいけ

 あねさんろっかく たこにしき  

 しあやぶったかまつまんごじょう  

 せったちゃらちゃらうおのたな  

 ろくじょうひっちょうとおりすぎ  

 はっちょうこえればとうじみち

 ……………


 懐かしい響きにより、心が高揚し、同時に癒されていく。他にもお客様がいるようだ。今、艶やかな装いの舞妓さんが京紅を手に取り見ている。さらに、一歩ずつ奥へと進んでみる。僕の存在を感じ取ったのか、少女が振り向いてくれた。


 その笑顔は間違いなくあかねだった。


 糺の森を一緒に歩いたあの少女に再会できた。彼女は紺地の上品な綿紅梅浴衣めんこうばいゆかたを身につけていた。生地に描かれた月、すすき蜻蛉とんぼの図柄からは秋の風情を感じ、少女が少しずつ大人へと成長していることを実感した。



 あかねと視線が交わった瞬間、彼女の目は驚きで丸くなり、今にも涙があふれそうな表情となった。その儚げな姿は、以前よりも一層美しく輝いて見えた。


 本心では、もう二度と会えないと諦めていたのかもしれない。一歩、二歩、三歩と彼女に近づき、距離がゆっくりと縮まっていく。思わず、あかねを抱きしめてやりたくなったが、必死に感情を抑え込んだ。

 母親に気づかれないように、人差し指を口元に当てながらカバンから写真の入った封筒を取り出して、そっと彼女に手渡した。


「これ、現像できたから」


 それは、初夏の光り輝く日に、糺の森で撮った写真だった。どれを見ても、あかねの思い出深い素敵な笑顔が映っていた。


「悠斗はん……。おおきに」


 彼女の声は不安と期待が混じり合ったようなか細さで、心に響いてくる。しかし、言葉はそこで途切れてしまった。


「今夜はお母さんに用事があって……。すずさんは?」


 静かに低い声で尋ねた。あかねとは、後でゆっくり話がしたい。彼女は暖簾をくぐり、奥の方へ向かって声をかけた。


「おかん、悠斗はんが来られてます」


 すずさんは慌てて顔を覗かせたが、眉間に皺を寄せていた。少し間をおいて、女性特有の鋭く荒々しい京都弁を口にしてくる。恐ろしい雰囲気に一瞬身構えてしまう。


「早う、入っとぉくれやす。あんたは、店番しといてや」


 母親の言葉は娘に向けてだろうか……。いずれにせよ、まったりとした方言ではなく、早口で冷たい響きに聞こえてきた。

 

「うちは古い家やさかい」


 京都の友禅を思わせる美しい和服を身に纏った母親の背中を見つめながら、細長い廊下を進んでいく。小上がりには彼岸花が咲き誇っている。その美しさの中には毒も秘めており、花が咲く期間も短いと聞いていた。

 目の前に広がるのは、まるで炎のように真っ赤に燃え上がる曼珠沙華だ。あかねの母親が生け花の先生をしていたことを思い出す。


 別名で白い花はリコリスとも呼ばれ、その花言葉は「また、会えるのを楽しみにしています」という意味を持つと言われている。行灯の柔らかな光が、赤い花と母親が身にまとう花鳥風月の文様を幻想的に照らし出していた。「我が家は貧しいさかい」とあかねから聞いていたが、その場の雰囲気は異なって感じられた。


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