第35章 母親との約束


「悠斗はん、よう聞いとぉくれやす」


 流暢な母親の京都弁を聞いて、僕は肩の力が抜けていく。こんな形ですずさんと向かい合ったのは、京都の典型的な町家造りとなる小間物屋の居間だった。

 一階は大板戸にくぐり戸、二階は格子になっている。小屋根は吊り金具で吊り上げられていた。時刻は六時すぎだった。


 雷の夜の喧騒も収まったのか、部屋は月の光でほんのりと明るくなり、壁には古い写真や絵などが飾られていた。すずさんの目は厳しくも優しいものと変わっていた。それは、花街で長い人生を生き抜いてきた女性の証だったのかもしれない。


 母親は扇子を脇に置き、襟を正してきた。今夜は薮から棒に喧嘩を目的にして、来たわけではなかった。ただ一度あかねと僕の関係を母親にじっくり話したかった。僕も彼女に合わせて心を開き、真剣に耳を傾けてゆく。


「はい。何でも言ってください」


「あかねもおっきなったさかい、もうええやろう。一緒にここで聞いてーな。今夜は店じまいや。客も来いひんやろう。ここは、昔から舞妓の住まいや。置き屋からイノベーションして雑貨屋にしとるさかい、分からん人もおるけどなあ」


 僕の気持ちを察したのか、母親も気が変わったようだ。


「おかん、それ、リノベーションやわ」


 あかねが口を挟んで冗談めかしてしまう。緊張していた場がその言葉で和んだ。なぜかしら、彼女たちの顔には笑顔まで浮かんでいた。続けて、僕は正直に思ったとおりに答えていた。


「なんか、奥ゆかしい家だと思いました」


「そうやろう。もともとこのあたりは花街なんや。前の女将はんの祖母から引き継いだんや。悠斗はん、ゆっくりでええのやろう」


「はい。すずさんがよろしければ」



 突然、すずさんが「ぶぶ漬け」を提案した。これは京都風のお茶漬けで、「そろそろお帰りください」という意味も含まれている。僕はまだ来たばかりだが、もしかして帰るように言われているのだろうか……。母親はそんなことに無関心を装いつつ、勝手口でお茶漬けの準備を進めていた。 


「悠斗はん、ぜひ食べてみて。うちのぶぶ漬けはうまいさかい」


「えっ、いいのかい」


 僕の心は揺さぶられていた。


「気にせんで、食べていっとぉくれやす」


 あかねはそんな僕の複雑な気持ちを察してくれたようだった。


「おかん。そないなん知っとったで。そやけど、花街が何や。関係あらへんやろう。うちにはおとんの写真もあらへんし」


 あかねが続けて、不満そうに口を挟んできた。母親は黙っておられず、彼女をたしなめてゆく。


「あんたも彼とおんなじようにきちんと聞く方がええ。おとんは生きてるのや。嘘は言わん。覚えておらんと思うけど、幼い頃に会わしたことあるでぇ……」


 最初は七五三の日に。次は同じ年の祇園祭の夜だという。


「おかん、ほんまか。おとうはどこ、どないに生きとるんや。知っとるなら、教えてくれてもええやろ! うちは、会いたいんや」


 彼女の気持ちは、僕には手に取るように分かった。父親がとっくに亡くなったと、聞いて育ったらしい。あたかも、死んだと思ったものが急に蘇ったような驚きを示している。

 しかも、父の分からない〝 ててなし子 〟と勝手に決め込んでいたという。彼女は目を輝かせて、母親に問いただしていた。


「けど、会うことは、許されへん。たとえ、どない愛しとったとしても、奥さまが生きとる限りは認めんやろう。娘でもおんなじや。これが昔からの花街で生きる舞妓の悲しい定めや。あかねには可哀想やけどなあ……」


「今でも、そんなこと、あるのですか?」


 母親の涙を感じながら、尋ねてみた。


「そらあ、分からん。伝統と格式があるとこなら、人知れず続いとるかも知れん」


 そこには、何か詳しくは言えない事情があるみたいだ。けれど、すずさんは少し口ごもりながら、さらに教えてくれた。


「花街は京都の幽玄の世界、舞妓と旦那の恋物語は続いてるはずや。あくまでも、大人同士の契りが前提やけどな。そやさかい、世間様からは闇が多いと、陰口を叩かれる。そやけど、ここは『悠久に語り継がれる、儚くも美しい愛の巣 』なんや!」


 その言葉は切なく美しいものだった。けれど、僕は納得できなかった。すずさんの語る花街の愛は、僕とあかねの恋とはまったく別世界の話だ。僕は、このままで黙ってはいられなかった。


「なら、僕らが付き合うのを認めてくれても良い話ではないっすか。愛する男女が一緒になれないなんて、悲劇そのものですよ」


 すずさんは、僕の言葉を聞いて思い悩んだのだろうか……。黙ったままで目を閉じていた。────しばらくすると、ようやく決心したかのように口を開いてくる。


「悠斗はん、よう聞いとぉくれやす。あかねもしっかりとな。あんさんに娘を幸せにできる甲斐性はありまへんやろ。まだ、青二才のひよっこや。女ひとり食べさすのもやっとなら、綺麗ごとを言わへんどぉくれやす」


 母親の手元から、白い封筒が見え隠れしていた。それはまるで、僕が命を助けたお礼のようだった。中身は現金そのもの、紙幣の束だったかもしれない。すずさんは口を閉じ、それを僕の前に並べた。

 しかし、僕には受け取るつもりなど、少しもなかった。あかねを助けたのは、そんな報酬を期待していたわけではなかったからだ。


 確かに母親が言うとおり、お金は大切だろう。これまで僕には優しさがあっても、頼もしさや物事を最後までやり遂げる気力が欠けていたのかもしれない。けれど、あかねと一緒なら、何でもやっていけると希望を抱いていた。


「でも、これから一流のプロとして……」


「戯言など口にせんでええ。悔しかったら、男として一人前になってから言うなら聞いたるわ。愛だけで、ご飯食べられるほど甘い世界やらありえへん」


「…………」


 あまりの剣幕に何も言えなかった。


「自信がのうて、出来ひんなら、東京にとっとと帰りなされ」


「いや、帰れません」


 男として、黙ってはいられなかった。


「いつまでも待てへんさかい。あかねも来春で十八歳。昔ならとうに嫁にいっとる。この娘やったら舞妓になったら、身請けされる若旦那がぎょうさんおるやろ」


 母親の言葉は、氷山の尖端のように冷たく鋭利で、それはあかねを見捨てるという同じ意味を持っていた。その言葉は僕の心に深く突き刺さり、怒りが湧き上がってきた。彼女も涙を浮かべて、心配そうに見つめていた。ここは、僕にとっての正念場だった。男として、決断を下すしかなかった。後退することなく、自分の意志を言葉で示すことを決意した。


「お母さん。愛する女が身請けなんて、許せません」


「あんたに母親呼ばりされるなんて百年早いわ。男は一旦口にしたら、覆すことは許されんのや。やれるもんなら、結果で勝負しとぉくれやす」


 このままでは、男がすたる。もうこれ以上あかねを泣かすわけにはいかない。絶対に一流のプロカメラマンになってやる。母親の厳しい言葉を聞いて、揺るがない信念と覚悟を固めていた。


「すずさん、あかねを幸せにする自信があります。そして、一流のプロカメラマンになります。それが僕の夢であり、目標です。だからこそ、僕はあかねと一緒に京都で生活したいんです」


 母親はしばらく黙って考え込んだ後、深々とうなづいた。


「そうか……せやったら、あんたらの道を邪魔するつもりはあらへん。ただし、約束やで。あんたが一流のプロカメラマンになったら、許すさかい」


 母親の言葉は厳しかったけれど、その中にも曖昧な余地があった。僕たちはこのまま付き合っていくことが許されるのだろうか。その一筋の光に、僕は希望を見つけ、心の中で願いを込めてみた。それは、僕たちの愛が許され、共に歩んでいける未来への願いだった。

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