第36章 月明かりの告白


 あかねの母親、すずさんは目を伏せて、今まで誰にも明かすことのなかった過去を話し始めた。その声は静かで重苦しく、傷ついた心の痕跡が感じられた。僕は言葉にならない悲しみに包まれて、ただひたすら耳を傾けた。


「まつりなんて、えらい好かん」


 彼女は、祇園祭なんて大嫌いだと言い切った。その言葉が衝撃的で三人の世界は静寂に包まれた。すずさんは何年もその祭りには近寄らなかったという。涙をこらえるように、着物の衿元から白いハンカチを取り出した。

 

 七月になると、京都の人々はみんな祭りの雰囲気に包まれる。けれど、すずさんは別だったようだ。彼女には祭りがどんなに辛いものだったのだろうか……。母親は一息ついてから沈黙を破った。すずさんは、あかねに父親との出会いから別れまでを語り始めた。それは、京都の祇園祭を舞台にした切なく美しい恋物語だった。


「あかね、あんたがおっきなったら、いっぺん話したろうと、ずっと思うてきたことあるんや。よお聞くんやで」


「おかん、何の話かいな。おとうのこと?」


 母親の話に、あかねは驚きと興味を隠せなかったようだ。彼女は父親のことをほとんど知らなかったからかもしれない。あかねは真剣な眼差しで、母親を見つめて尋ねていた。彼女には僕との関係と同じように、父親のことが心配なのだろうか。


 僕はすずさんが遠い過去に置いてきた恋にも興味を惹かれた。――――母親は一旦深く息を吸ってから、静かに口を開いてきた。


「そうや。あんたの父親のことや。もう会えんとさっき言うたやろう」


「ほんまか。どこ、どないな場所に生きとるん? 知っとるなら、教えてくれてもええやろ? うちは、おとうが生きてるなら会いたいんや」


 祇園祭での出会い、そして別離。――――母親は目を潤ませながら、我が子が幼かった頃のことを思い出しては言葉にしてきた。


「あかね、七五三のお祝いを覚えとるか?」


「忘れてなんておらん。うちが初めて着物の帯をつけたときやろう」


「ああ……そうや。あの着物はあんたの父親が買うてくれたものなんや。三条大路沿いの老舗の店『京の赤羽堂』 のこと、知っとるだろう」


「うん。おかん、その着物で花火したの覚えてるわ」


 母親は今でもその着物を大切にしまっているという。月明かりの中、六角堂での七五三の参拝が終わった夜、見知らぬ男を含めた親子三人で、季節外れの線香花火を楽しんだらしい。彼はあかねにとって、初めて会った人だったそうだ。彼女は、母親の話を聞いてから、自分の記憶を少しずつ辿っているようだった。


 それから、あかねは自分の幼い頃のことをゆっくりと話し始めた。それは、感動的なドラマの映画のひとこまを観ているかのように、僕の心を揺さぶってきた。彼女はその日家に帰ると……。


 あかねは、疲れ果ててまどろんでしまった。縁側で、母の背中が優しく、そして切なく映った。彼女はひとりの男とささやきながら、スズランに似た愛らしい馬酔木の花に見入っていた。その花は、母の心の中に咲く恋の花に似ていたのかもしれない。


「あかね、そろそろ起きてもええ頃やで」と母の声が優しく響き、あかねは目を覚ました。彼女は、わがままばっかりを言っていたらしい。


「おかん、線香花火、縁側でやりたい」


 すずさんは、あかねのわがままに応えて、白い和紙の花火と水桶、そして生け花で使う陶器皿を持ってきた。なぜかしら、彼女は紫の菊花の和服に着替えていた。その顔は笑顔だったけど、目尻には涙がにじんでいたという。


「うちの大切な花を燃やさへんようにな。じっと花が咲くまで辛抱強う待つんや」


 あかねは母の言葉を素直に受け止めて、線香花火を見つめ動かさないようにした。母親も手に一本線香花火を持っていた。そばには、見知らぬ男が寄り添っていた。

 最初、花火はジリジリと牡丹のような火の玉ができた。パチッパチッと松葉のような火花があがった。音が小さくなり、すだれ柳のように火花が垂れて散ってゆく。 

 菊の花のような花火。残り火の花びらが一度元気よく静かに舞うと、チリッと音を立てて、おぼろげな空に吸い込まれるように火の玉は消えてしまった。


「終わってもうた。 おかん、もう一本させてえな」


 そう言うと、母親は首を振って、あかねに語りかけた。


「花が咲くのは、一回だけやろ。花には散り際があるんやで。一回だけ綺麗に咲くんや、先に部屋へ戻っとき。おかん、火ぃ消して行くさかい」


 あかねは、柱の陰からそっと見ていたらしい。母親は懐から写真みたいな紙をいっぱい出して、一枚ずつ手に取って眺めていた。男の姿は「すずさんは月下美人のような女性だ。娘も可愛らしい瓜二つや」そう言い残すと、いつの間にか消えていた。彼はあかねに笑顔で手を振って別れを告げたという。


 母親が別れを惜しむように、一枚ずつ写真に火をつけていた。それぞれの写真が炎に包まれるたびに、彼女の涙が陶器皿の上に落ちていった。そして、最後の一枚を手に取ったとき、彼女は長い間ただその写真を見つめていた。

 火をつけようとした瞬間、彼女はあわてて止め、袖口からハンカチを取り出して、優しく写真のススを拭き取った。そのとき、母さんの目には、涙が溢れていた。あかねには、その光景が目にしっかりと焼き付いていたという。あれは、母さんが男との別れを告げる儀式だったのだろうか……。今になって、そう思うと、あかねは娘として胸が痛んだという。


 あかねは目を閉じると、もうひとつの光景となる夏祭り、祇園祭の様子が思い出されたらしい。

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