第37章 母と娘の絆


 祇園祭の宵山の夜、人々と提灯、屋台、京の音色のコンチキチンで賑わう中、すずさんはあかねの手を引き、鉾や山車、舞妓や芸妓の姿を横目に急いだ。

 でも、祭りの華やかさに心を奪われることはなく、ただ淡々と歩き続けた。彼女はある人に会いに行っていたらしい。


 子供たちの笑い声がわらべ歌に交じり、人々の視線が集まる中で、母親は夕闇に紛れて赤い建物『京の赤羽堂』の前に立ち止まっていた。その姿はまるで遠くから母さんを見つめてくる鉾の先頭の男を待ち受けていたかのようだったという。


 あかねは薄紫色の浴衣に身を包み、すずさんは白い着物姿だった。男は何も言わずに風車が廻る鉾の先頭で男らしい姿勢で扇子を振っていた。あかねにとって、その男は線香花火で遊んだ時に出会った男だった。母さんはその男に気づくと、ハンカチを取り出し、涙を拭いていた。


「おかん、どうしたの?」


 あかねが尋ねたけれど、母はすぐには答えなかった。ただ黙って、目を潤ませながら男の晴れやかな姿を見つめていた。子供心に彼はかっこよかった。その男もまた、母とあかねの姿を見つめていた。母さんは娘が寂しそうなことに気づいたのか、言葉を漏らした。


「あんた、目に焼き付けておくんやで。あれ、おとうやさかい。忘れたらあかん。もう二度と会えへんかもしれへん」


 あかねには、そのとき母親が何を言っているのか、理解できなかったようだ。その男は、若き日のすずさんが出会った恋人だったという。


 祇園祭の日には、まるで母さんが約束でもしたかのように、奥さまの目を盗んで会っていた。母からは、その男が老舗の店を営む若旦那だと聞かされたそうだ。彼女は男から援助をもらってから、日陰の花のように、小間物屋の主としてずっと過ごしてきたらしい。


 男は鉾から離れて、暫しの間だけあかねたちに近寄って来た。彼はすずさんに声を掛けてきて、「久しぶりやな。元気かい」と笑ったという。

 彼らは昔話をしながら、宵山の風景を楽しんだらしい。彼はすずさんに優しく接してくれて、「君が変わらなくて良かった」と言った。「すずが忘れられなかったよ」と言って、人目があるというのに、彼女の頬にキスした。すずさんは幸せだったそうだった。あかねには母親の目が艶やかな女性のものとなり、いつもとは異なって見えたという。


「うちも好きやわぁ。娘はあんたの子供や。大きなったさかい」と言って、男の胸に抱きついたらしい。「もっと一緒にいたい」と言って、彼の手を握ったそうだ。


 でも、彼は首を振って、「無理だよ」と言った。「すずに会えたことが奇跡だったよ」と言って、母親の髪を撫でたそうだ。「君を忘れることはできないけど、君を連れて行くこともできない」と言って、彼女の涙を拭ったという。


 あかねの母親は涙で目を赤くしていたそうだ。その涙はあかねが初めて見る熱いものだったらしい。「うちはどうしたらええの」と言って、娘がそばにいるのに男の腕にしがみついたそうだ。「うちはあんたしか愛せへんの」と言って、彼の唇にキスしようとしたそうだ。ところが、彼はお母さんを優しく押しとどめて、「ごめんね」と言ったそうだ。


「俺はもうそろそろ皆の待つところに行かなくてはいけないんだ」と言って、すずさんの手を離したらしい。「君に会えて本当に良かったよ」と最後に言葉を残して、彼女に笑顔で手を振っていた。


 それが母親と男との最後の別れだった。すずさんはその後、彼から連絡も来なかった。ただ、小間物屋の改装するお金だけが振り込まれてきたらしい。けれど、母親は彼の名前や顔、そして声も忘れられなかったらしい。


 あかねは母親の過去を知って、涙を流していた。彼女は母親に抱きついて、「おかん、ごめんね」と謝っていた。「おかん、大丈夫やで」と慰めていた。


 あかねから母親の切ない恋愛話を聞いて、感動がさざ波のように押し寄せてきた。その瞬間、僕は言葉を失い、涙がこみ上げてきた。すずさんがあの男性と出会った祇園祭、そしてその後の別れ、それがあかねの父親だったという事実。それは僕にとっても初めて耳にした衝撃的な話だった。


 しかし、それ以上に僕が感じたのは、祇園の先斗町で生きる女性のしたたかさと優しさだった。それは彼女を揶揄したものではなく、母親が娘を育てながら、どれだけ苦しんでいたか、どれだけ悲しんでいたかを思うと、胸まで痛んだ。

 その全てを胸に秘め、あかねを育て上げた母親の姿は本当に素晴らしい。僕はあかねの母親、すずさんをかつて嫌ったことすらあったというのに、今ではその想いは消えてしまった。あかねが苦しい想いを抱えながらも、母親のことを憎まなかった気持ちも理解できるようになる。


 すずさんに対する想いは、彼女があかねを育て上げる過程で見せた強さや優しさから生まれた尊敬の念に変わり、僕の心を満たしていた。そして、あかねがそんな母親を持つことは、彼女が授かった最大の幸せだと感じていた。その理由は、すずさんがあかねに対して絶えず愛情を注ぎ、困難を乗り越えてきたからだ。


「女ひとり食べさすのもやっとなら、綺麗ごとを言わへんどぉくれやす」


 すずさんから、そんな強い言葉を以前に投げかけられたのも、今となっては分かるようになっていた。それは僕が立ち入れない母と娘の固い絆だろうか……。


「でも、これから一流のプロカメラマンとして……」


 そう口にした僕は、母親との約束を決して忘れていなかった。それはあかねとの関係の話だ。しかし、どんなに思いを巡らしても、具体的な手がかりはひとつとして見つからなかった。僕は写真の新人コンクールで受賞しただけのカメラマンだ。ましてまだ学生の身だった。


 あああ……。どうしたら良いのだろうか。本当にあかねを幸せにしてやれるのだろうか……。考えれば考えるほど、僕は自分の無力さに打ちひしがれて、絶望の淵に立たされていた。あかねの無邪気な笑顔が、かえって僕の心を追い詰めていたのかもしれない。

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