第38章 初雪と約束
時は無情にも流れ、あの日から三ヶ月が過ぎていた。
初冬の訪れとともに、京都は暑かった夏との別れを告げ、美しい紅葉の季節を迎えていた。街角は色とりどりの葉っぱで彩られ、空気は新鮮で心地よく、まるで自然が僕に何かをささやいているかのようだった。それは希望の予感か、新たな始まりの予兆か、それともただの季節の移ろいだろうか。
しかし、それが何であれ、そのメッセージは僕の心に深く響き、新たな一歩を踏み出す勇気を与えてくれた。母親への約束を果たすために、そして一流のカメラマンとして。年内には大きなチャンスが控えていた。それは有名なカメラメーカーが主催するフォトコンテストだった。
週末の早朝、目覚めると窓から見える「大江山」は初雪に包まれていた。京都の海が近くて鬼退治伝説で知られる山に、こんな早く雪が降るなんて珍しいことだ。そういえば、空が赤く染まっていたような気がする。それは天気が急変する前触れかもしれない。
だけど、そんな不安も午後になると吹き飛んでしまった。一刻も早くあかねと会いたかったのだ。神さまが味方してくれたのか、秋雨が上がり、日も差してきた。嬉しくなって、あかねに電話をかけた。
「いつもの場所で待ってるから」
「悠斗、わかった。ちょい遅れるけど……。今何してはるん?」
もう僕らは呼び捨ての仲となっていた。
「あかね、鴨川デルタで写真を撮ってたんだ。豆大福を食べてたら、トンビに持っていかれちゃったよ」
「えっ、ほんま? おもろいなぁ」
目の前には亀の甲羅が埋め込まれたコンクリートブロックが並んでおり、子供が犬と一緒に鴨川を渡っている。観光客だけでなく、橋を使わずにこの飛び石を渡る人も多く、生活の一部となっていた。
「うち、今日は特別に可愛い服を着て行くさかい、写真をぎょうさん撮ってな。踊りの稽古終わったら、一目散にそっちに向かうわぁ。楽しみにしとっとってや」
電話を切ると、あかねの笑顔が浮かんでくる。母親の言いつけを守り、学校帰りに舞妓見習いの修行をしていた。
しかし、彼女との出会いは数えきれないほどあり、母親も一切怒ることなく、優しく見守ってくれていた。ただ、母からの許容がいつまで続くのかは、定かではなかったが……。
時刻は午後四時を迎えようとしていた。
三条大橋の手前で待ち合わせていた僕の目に飛び込んできたのは、あかねの和服姿だった。彼女が振り袖を着るのは初めて見る光景だ。髪には赤い鹿の子が揺れ、薄紫色の花かんざしは風にそよいでいた。
だが、彼女は相変わらずおてんばだった。京下駄を履いた足で黒髪をふり乱しながら、小走りで僕のもとへ駆け寄ってきた。その姿は、たおやかに歩く美しい舞妓さんとは正反対だった。
「お待たせ、かんにんえ。うちの振り袖姿、初めて見るやろか。じっくりと見とぉくれやす。悠斗はんには可愛いんやろか」
彼女は自慢げに一周回り、顔いっぱいに笑みを浮かべていた。もうすぐ、「鴨川をどり」で新人の舞を披露するという。まだ十七歳の高校生だが、その無邪気な振る舞いは、何もかもが自然体であることを物語っていた。
しかし、しっとりとした和服の衿元からうなじが覗くその姿は、少女とは思えないほどの色香を放っていた。その姿に思わず心が揺れ動き、彼女を抱きしめたいという衝動に駆られた。
「すごいよ、本当に可愛いよ。まるでおきゃん娘だね」
「違うわよ、もう大人なんだから。まだ見習いさんだけど……。さっき、姐さんにメイクを教えてもらったのよ。可愛くなったでしょ? しっかり褒めてえ~な」
彼女は少しだけ口を尖らせて自分の頬を指差した。その顔を見ると、目元や鼻筋に微かにピンクが差していることが分かった。頬紅も変えたのかもしれない……。一方で空を見上げると、さまざまな形の灰色の雲が迫り、風も少し冷たくなっていた。
「寒くなってきたね。今夜は雪が降るかもしれない」
そう言いながら、マフラーを彼女の首に巻いた。
「うそやろう。そやけど降ったかて、毎年京都の雪は年明けやんな。今朝、朝焼けを見ーひんかった?」
「ええ、うそだよ。見逃してしまった」
「もうほんまに寝坊助なんやさかい」
あかねの視線の先には、鴨川の岸辺に数珠繋ぎで座っている光景が広がっていた。大勢の恋人たちが、きちんと間隔をあけて座っている。ここは京都の名高いカップルの聖地だ。しかも、皆がラブラブの真っ最中のように見えて、羨ましくなる。
しかし、彼女は立ったまま、視線を足元の赤茶けた地面に落としながら、寂しそうにつぶやいていた。
「素敵やんな。あないな風に一緒に寄り添うとったら、あったかそうやなあ……」
「あそこ、空いてるよ。あかね、座ろう」
「やっぱし聞こえとったんや。ほな行きましょか。そやけど、うちらの繋がりはいったい何なんやろう?」
今日の彼女は少し違っていた。無邪気な少女というより、大人の女性の香りすら感じられた。ひとことひとことから熱い感情を感じ取ることができた。
「それはもちろんカップルだよ」
「あかんわ、そないな言葉は京ことばにはあらへん。ちゃんとうちに向き合ってくれる? うちは悠斗のことどこまでも好きやさかい」
あかねは僕にしっかりと寄り添いながら、甘えた感じで口にしてきた。そのつぶらな瞳は潤んでいた。けれど、彼女はもっと別の何か言いたげな笑顔を浮かべているのに気づいた。
「幸せは神さまがきっと平等に分けてくれはると信じとったさかい。そやけど、ほんまにうちでかまへんの?」
ここまで言われると、目頭が熱くなった。土手沿いに広がる料亭から漏れる薄明かりが、僕たちを暖かく包んでくれるようだった。
「当たり前だ。この間、好きだって宣言したやろう。忘れたのか?」
「おかんの前でやろ。好きなら、うちに好きって言うてや。今夜はおそうなる。もしかしたら、泊まるかもとおかんに言うてきたんやさかい」
踊りの修練で遅くなるから、姐さんのところに泊まると言ってきたらしい。口止めしてくれる代わりに、今度、彼氏を紹介すると約束してきたそうだ。
「嘘ついて、大丈夫か」
「かまへんわ」
「実は、無理なお願いがあるんだ」
もちろんのこと、あの夜の約束は忘れていない。このチャンスが来るのをずっと長く待っていた。
「なんやろか……。早う言うてや」
「あとで、分かるさ」
怪訝そうな表情を浮かべる彼女に、あえて気づかないふりをしていた。ここで、反対されたら、長く抱いてきた希望や野心が尻切れトンボに終わってしまう。ちょっとだけ冷たく言い放つと、彼女を猫のひたいほどのアパートに案内していた。
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