第39章 初めての夜


 空を見上げると、大気が澄み渡り、耳の奥までキーンと響くような冴えた月が顔を覗かせていた。

 

 窓からの月明かりが、古ぼけた六畳一間のアパートを優しく照らし出していた。僕は、思わず、身をすくめてしまう。寒さが身に染み入り、心まで凍えてしまいそうだった。


 僕はこの部屋で、京都の生活を始めてからずっと過ごしてきた。安普請のアパートで、どこからともなく風が吹き込んでくる。それでも、僕にとってはこの上なく愛着深い場所だった。


 今日、初めてあかねをこの部屋に招待した。彼女は、僕が愛する大切な人だ。僕たちが部屋に入るとすぐに、底冷えする寒さが広がった。けれど、あかねは笑顔のままで、部屋の中をキョロキョロと見回して楽しそうだった。


「えらいさぶい。どないかならんのやろか」


 彼女はぼそっとつぶやいた。僕らはストーブの青い炎にふたりして両手をかざしたが、寒さに耐えきれず、ベッドから毛布を一枚持ってきた。


「まだ、寒いやろう」


 僕はそう言って、毛布を彼女とふたりで分け合った。それは、ふっくらとした魔法の布切れで彼女との隙間を覆ってくれた。同時にその柔らかな触感と暖かさで、僕の心を満たしていく瞬間だった。


「おおきにあったかいなあ……。もっと、近くに来ておくれやす」


 あかねからほっとするような可愛らしい京都弁が届いてきた。僕は思わず華奢な身体をギュッと抱きしめると、小さな胸からは高鳴る鼓動が感じられてくる。

 美しい妖精のような甘い香りがほのかに届き、堪えきれず、瞳を閉じる小さなくちびるにそっとキスをした。心地よい余韻にひたりながら、僕は彼女につぶやいた。


「あかね、聞いてくれるか。さっきの話だけど、明日の朝は早起きや。夜明け前に出なくてはいけない。一緒について来てほしい」


「かまわへん。うちは、いつも悠斗がそばにおって欲しい。どこまでも一緒やろ。もう、離れんさかい」


 あかねの言葉に胸が熱くなった。彼女は僕のことを信じてくれている。僕はあかねの手を握りしめた。あまりの素直で健気な姿に、涙すら溢れてしまいそうだ。

 

 僕は気を取り直して正直に打ち明けた。それは、ずっと自分の心にわだかまりとして残っていたことだった。


「お母さんとの約束を果たしたいのや」


「そうやな。そやけど、どないするんや?」


「今は何も言えないよ。ただ、黙って、ついて来てくれ」


「ええやん、信じてるさかい……。でも、優斗はひとつだけ約束してな。うちのことだけは見捨てへんでな」


 彼女が僕の胸に寄り添って、切なそうに囁いた。


「ああ、もちろんや。それだけは絶対にしないから安心していいよ」


 僕はあかねに笑顔を見せた。彼女は僕の手を握り返してくれた。


 窓ガラスに結露が降りて、星や月の光が隠れてしまった夜。それは神さまのいたずらかもしれないけれど、僕らにとっては意外な恵みだった。部屋の照明は柔らかく、テーブルには二本のキャンドルが灯り、ロマンチックな雰囲気を作り出していた。

 窓の外の世界が見えなくなったことで、僕らの世界はよりプライベートで特別なものになった。


 あかねと過ごす初めての夜、贅沢なものは何もないけれど、このひとときは僕らだけの記念日となった。それは、星空よりも美しい、忘れられない時間だった。


 僕とあかねは一緒にオムライスを作ることにした。冷蔵庫を開けると、必要な材料がすべて整っていた。僕らは玉子を割り、チーズを散らし、ケチャップを絞った。それは子供の頃に遊んだままごとのような感覚だったが、とても楽しかった。


 オムライスが完成すると、彼女はそれを見つめて笑みを浮かべた。その目は喜びで輝いていて、それを見て僕も嬉しくなった。そして、彼女は嬉しそうに話し始めた。


「おかんに習うたさかい、料理は得意やで。おっきなまん丸お月様みたいのをひとつだけ作るんやさかい。分けて食べよう」


 僕らが作ったチキンライスを覆うまん丸のタマゴのドレスの上には、ハート型のケチャップマークがいくつも並んでいた。


 僕はあかねの手作りオムライスを見て、拍手を送った。形は少しブサイクだったけど、味は最高だった。彼女は僕の好みをよく知っている。甘くてふわふわの卵と、ピリ辛でジューシーなチキンライスが絶妙に合っている。彼女は僕の顔を見て、自慢げに言った。


「どないや? 美味しいやろ?」


「うん、すごく美味しいよ。ありがとう」


 僕はあかねにキスをして、感謝の気持ちを伝えた。彼女は照れながらも、嬉しそうに僕の頬にキスを返した。


 僕らはテーブルについて、オムライスを分け合って食べた。その間も、彼女は僕と目を合わせて、楽しそうに話してくれた。あかねは京都で生まれ育ったから、花街で語り継がれる言葉がとても可愛らしかった。僕は彼女の話に耳を傾けながら、愛する女性のことをもっと知りたくなった。


 彼女は小さい頃から母親とふたり暮らしだったそうだ。お父さんとは幼い頃に会ったきりらしい。亡くなったとも聞かされてきたという。だから、たったひとりの身内となるお母さんとの絆はとても強かった。

 母親のすずさんは料理が上手で、あかねに色々なレシピを教えてくれたそうだ。あかねはお母さんのことを尊敬していた。


 しかし、あかねが高校一年生の時、突然にすずさんは心臓の発作で倒れてしまったそうだ。昔から心臓が弱くて、いつ何が起こるかはっきりしなかったらしい。

 彼女はショックで、高校をやめてしまいたいと悩んだという。けれど、母親はあかねにどんなに辛くても高校生活だけは続けるようにと言ってくれたそうだ。

 あかねは母親の願いと自分の希望を叶えるために、家事や店番、そして舞妓の見習いをしながら、彼女の看病をしたという。


 ところが、彼女にもひとつだけ大きな悩み事があった。母親からお茶屋の若旦那の身請け話を耳にしたとき、張り詰めていた心がズキンと痛んだらしい。

 あかねは母親がなんでそんなことを言いだしたのか理解できなかったという。それは、涙の告白となっていた。


 彼女の切ない言葉を聞いて、僕は彼女が冬の桂川に身投げしたことを思い出して、激しい憤りに心を揺り動かされた。僕は彼女の背中を優しく撫でながら、慰めてあげた。彼女は僕の胸に顔を埋めて、しばらく泣いていた。



 しばらくすると、あかねは静かに涙を拭った。そして、僕に謝ってきた。


「かんにんやで。こないな話して……」


「大丈夫や。ありがとう。あかねのことを教えてくれて」


「うん。悠斗には、なんでも話したい。悠斗は、うちのこと分かってくれるさかい」

 


 僕はあかねの手を握りながら、僕自身が恵まれた家庭で育ったことに感謝した。一方では、自分の甘さや幼さに恥ずかしくなった。


 彼女の優しい微笑みと温かな瞳に僕は心を奪われ、唇を重ねた。あかねは僕の腕に甘え、その手からは安らぎが伝わってきた。過去も未来も忘れ、僕は彼女との今を刻みたいと思った。


 彼女は僕の想いを察したのか、愛おしそうに微笑んだ。再び彼女の唇に触れると、甘い香りが広がった。彼女が僕の胸に抱きつくと、僕は幸せを感じた。この瞬間がもっと永遠に続けばよいと願った。


 食事を終えると、初めての夜という特別な時間に心地よい緊張感が広がり、甘くて刺激的なひとときを過ごした。そうして、「あかね、僕たち結婚しよう」と言って、小指を絡めて誓いを交わした。


 これは、舞妓さんの生きる花街でひそかに囁かれる、「夜伽よとぎばなし」の一部だったのかもしれない。しかし、僕たちにとっては、それは新鮮で甘酸っぱくて、心の奥底に深く刻まれる時間だった。それは一瞬の出来事だけど、永遠に続くような感覚を僕に与えてくれた。その時間は、僕の心を揺さぶり、あかねへの深い愛情を呼び覚ましてくれた。


「あかね、そろそろ寝ようか……」


 そう言葉を残すと明日のことに不安と期待を抱きながら、僕は少女をそっと抱きしめたまま、まどろみに落ちていく。その夜は長く感じられ、ふたりで過ごす時間は永遠に続くようだった。そしてその夜、僕はあかねと一緒に眠りについた。

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