第29章 祇園祭の夜


 ふたりの別れの時は音もなく、避けられない運命として僕たちに迫ってきた。僕は車の中で、運転席の鏡から、あかねの姿をそっと見つめていた。

 彼女の仕草は、夜空の透き通る星のように輝き、その鏡に映る彼女の顔は、僕にとって最も切なく愛おしいものだった。


 このまま時間が、止まってくれればいいのに……と祈ったけれど、時の神さまはそんな我が儘は叶えてくれなかった。


「あかね……」


 僕は彼女の名前を呼んだ。


 その声は、静かな夜に届く鐘のように、ふたりの別れを告げて響いた。その短い言葉には、僕の別れを悔やむ想いと、彼女への感謝の気持ちが詰まっていた。          

 鏡に映ったあかねの瞳が、僕のものと重なり合った。彼女の瞳には、切なくて甘い光が宿っていた。その瞳の光は、僕に与えてくれた愛と、もう会えないことを受け入れた悲しみを表していたのかもしれない。

 彼女も、僕との最後のひとときを心から惜しんでいたのだろう……。想えば、想うほど心が痛くなった。


「どうなさったの、悠斗はん」


 あかねのさりげないひと言は、僕の心をさらに深く揺さぶった。それでも、僕は彼女への想いを止めることができなかった。いや、止めるどころか、想いはますます強まっていたと言う方が正しいのだろう。 


「あかねが……」


 僕は、この場にふさわしい言葉を見つけられず、声が震えた。


「どこにいても、僕は君を忘れないよ」


 僕はようやく言葉を絞り出した。


「そうやな、おおきに。うちもやで。優斗はんのこと、ずっと忘れへんで」


 彼女はうなづいて、涙ながらに返事をした。僕はあかねの切なげな言葉に胸が締め付けられた。突然、心の奥底に眠っていた恋愛に関する優れた哲学者の教えがよみがえった。


「恋する相手が神の紡ぐ運命の人ならば、ひとときの別れは出会いの始まりに過ぎない。それは、別れた相手との再会を願うときめきや、運命の人との出会いには試練があるという信念の表れなのだ」


 その言葉であかねとはまたいつか必ず会えると信じさせてくれた。僕は涙を必死にこらえて、そう心に刻んだ。落ち着こうとして、ラジオのスイッチを入れた。すぐに祇園祭のニュースが流れてきた。


 祭りは一か月間にわたるロングランのイベントだ。京都市内の中心部や八坂神社では様々な行事が執り行われるという。中でも「宵山」と「山鉾巡行」は祭りで一番盛り上がるイベントだ。今夜の宵山も、僕らが走る市内の一部では、車の通れない交通規制があるらしい。


 間もなく黄昏を迎え、空が少しずつ淡い橙色に染まっていく。通り抜ける古都の至るところに、平安絵巻の時代を偲ばせる風情豊かで幻想的な雰囲気が漂ってきた。


 今夜はひょっとして、突然の雨に見舞われるかもしれない。蒸し暑さが強まり暗闇の広がる中、どこからか、祇園囃子のコンチキチンという音色が、魂に響くように届いてきた。  

 それは、僕たちが初めて出会った祭りの音色であり、祭りの賑わいの中で、僕の心を揺さぶった。見渡す限り、街の全てが祭り一色になっていた。それは、この夏祭りが、京都の人々にとっていかに大切なものだということを裏付けていた。  


 あかねから以前に、なぜか「祇園祭が嫌いや!」と言われたことがあった。ところが、今夜だけは彼女も目を輝かせて、懐かしそうに眺めていた。その心境の変化はわからなかったが、この光景は、僕にとっても忘れられない思い出になるだろう。


 僕は車を降りて、カメラを手にした。祭りの煌びやかな明かりを背景にして、山鉾を狙った。そして、あかねの笑顔にシャッターを押した。一枚だけではなく、二枚、三枚と……。


 彼女の笑顔は、夏の夜空に輝く星のように美しかった。道路に並んだ山鉾の華やかな布飾り(懸装けそう)が、彼女の白い肌に赤い色を映していた。その姿は、まるで月下美人の花に寄り添う夜のホタルのように妖艶で、はかない魅力と調和していた。


 あかねは京都の夏の風物詩であるロウソク売りのわらべうたを口ずさんでいた。どこで覚えたのかは知らないが、彼女の愛らしい声に心を奪われた。


「あんさんも一緒に歌うとぉくれやす」


 無理は承知でおねだりまでされてしまう。


 ロウソク一丁献じられましょう~

 疫病除けのお守りに~

 うけてお帰りなされましょう~

 常は出ません、今晩ばかり

 ご信心の~御方様は~

 うけてお帰りなされましょう~


 祭りの音色に包まれたあかねの歌声は、東京人の僕の心を確実に揺さぶった。彼女自身も、その響きに心を静かに揺さぶられていたのだろう。彼女の歌は、祭りの喧騒を背景に、僕らの想いを深く繋いでくれた。


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