第28章 花街の運命
「目の病気のこと、おかんに聞いたんや?」
「ああ……」
僕はそっとうなづいた。
「そやけど、うちはそないな地味なの好かんて。さくらんぼのお守りがええわ」
あかねはそう言って、僕に寂し気な顔を向けた。さくらんぼのお守りはいくら探しても見つけられなかった。
しかし、白金のハートを模した鈴がついた招き猫があかねの目を引いたらしい。彼女はそれを微笑みながら、大切そうにしっかりと握った。
「それなら、君にぴったりだね」
「悠斗はん、おおきに。もうひとつ、おねだりしてもええ?」
あかねは木陰を見つけると、目を閉じて唇を突き出してきた。彼女の細くて小さな身体がお堀池に映し出されて微細に震えていた。僕は、その涙を誘われる仕草から、あかねの悩みや不安を感じた。
目の前に広がるお堀の池では、初夏になると白蓮の花が咲くという。咲いているのは、早朝から午前中だけ。お昼になると花びらを閉じてしまう不思議な花である。花の咲く時間は限られている。
やはり、いくら見渡しても、蕾はまだ小さく固いままで開いていなかった。
僕らはその場に立ち止まった。あかねは名残惜しそうに小さな蕾に見惚れていた。
言葉では言い尽くせないものが、僕の心に染みて、いつ途切れるかわからない甘い鈴の音色が耳元に届いてきた。それは、僕らの切ない恋の歌だった。
「あかね、僕は君が好きだよ」
「うちも好きやで。そやけど……」
「そやけどって?」
「うち、あんたに言わなあかんことがあるねん。前に少しだけ話したやろ」
あかねはそう言って、僕の顔をじっと見つめた。彼女の瞳には涙があふれていた。僕は不安になって、彼女の手を強く握った。
「何んでも、言ってごらん」
「うん……実はね、うち、元々から花街の娘やねん」
あかねはそう言い終わると、小さく息を吐いた。彼女の声には、僕に打ち明けるのに勇気がいったことが伝わってきた。
その言葉は以前に聞いたことがあったが、彼女から改めて聞くと、僕は驚きで目を見開き、その言葉に耳を傾けた。それは、彼女の隠された過去だった。
「元々、花街の娘? どういうこと?」
「うちはずっと花街で育ったんや。そら芸妓さんが住むとこやねん。芸妓さんは京都の伝統芸能を継承する女性やさかい。お客さんにお茶やお酒を出したり、歌や踊りを披露したりするのや」
あかねはそう言って、僕に説明しようとした。その言葉は、先ほどまでのあかねの雰囲気とは何かが違うと感じた。
「でも、それって尊敬される仕事だろ? それがどうしたんだ?」
「そうやねんけど……実はね、うち、まだ芸妓さんになっておらん。今は見習いやねん。見習いのことを〝舞妓〟って言うねん」
「舞妓さん、それも素敵じゃないか」
「そうやけど……。我が家にはおとんもおらん。舞妓さんになるにはね、お稽古事をしなあかんし、お金もかかるし、厳しい決まりもあるねん。それにな、舞妓さんが貧しいときはね、『お茶屋の若旦那』に〝身請け〟されるねん」
「身請け? それは何だ?」
あかねから、花街の伝統である身請けの制度について教えてもらった。身請けは、お茶屋が舞妓の教育費や生活費を全額負担し、その見返りとして舞妓がお茶屋の一員となるというものだ。この制度の下では、舞妓の自由は大きく制限され、恋愛や結婚すら許されないこともあるという。
「えっ、そんなことあるの。まさに時代錯誤だ。それはひどすぎる」
「そうやろ。でも、遊女とは違うねん。我が家は貧しいさかいしゃあないねん。そやさかい、うちもそろそろ十八歳になるさかい、身請けされる時期に来てんねん」
僕は先斗町で彼女から聞いた儚いことを思い出していた。彼女は、身請けされる前に一度だけ恋をしたかったと言っていたのだ。
「じゃあ……君はもうすぐ僕と会えなくなるってことか?」
「そうや……そやさかい今日最後やねん。今日までしか会えへんようになるさかい……せめて最後にデートして欲しかってん」
あかねはそう言って、涙を流した。僕は彼女の気持ちを知って、胸が痛くなった。
「あかね、本当にそうなの? 本当に僕と別れないといけないのか?」
「うん……ほんまや。おかんにも釘を刺されたねん。〝あんたは花街の娘やろう。恋なんてするな〟って。そやけど、うち、あんたが好きやねん。あんたと一緒におりたいねん」
あかねはそう言って、僕に抱きついた。僕は彼女をぎゅっと抱きしめて、何か言葉を探した。その時、僕の心の中には、あかねとの別れが迫っていることが重くのしかかっていた。でも、僕はあかねを失いたくなかった。
彼女と一緒にいたいという気持ちが、僕の胸の中で強く膨らんでいた。そんな僕の気持ちを、あかねはきっと理解してくれるはずだった。そして、僕は彼女に囁いた。
「あかね、僕も君が好きだよ。だから、どうにかならないのか? 身請けされるのを止められないのか?」
彼女は僕に微笑んで、そっとうなづいた。その瞬間、僕たちは、お互いの気持ちを確かめ合った。しかし、彼女から戻ってくる言葉は別だった。
「無理や……。お茶屋さんはもう決まってるし、おかんも納得してるし……うち、逆らえへんねん。それに、お茶屋さんはお金持ちやねん。奥さまがおるけど、うちを大切にしてくれるって言うてくれてるらしいし……」
「でも、君は僕を愛してるだろ? 僕も君を愛してるよ。それなのに、他の人と一緒になるなんて……」
「かんにんしておくれやす。うち、あんたを裏切ったかもしれん。でも、あんたのこと、ずっと忘れへん。悠斗はんもそうやろ?」
あかねは、「悠斗のことえらい好きや」と言って、僕の唇に情熱的なキスをした。彼女の唇に応えて、僕は涙を流した。
時計を見ると、その針は冷酷にも六時を指していた。夜の帳が下りて、ふたりの最後の抱擁を奪ってしまった。それでも、互いに強く抱きしめ合い、その瞬間を永遠にすることを心に刻んだ。
僕たちはひとりごとみたいな切ない声で、何度も何度も噛みしめながら同じ話をくり返した。そろそろ、あかねの家に送って行かなくてはいけない。
僕はあかねの手を取り、彼女を車の助手席に誘おうとした。しかし、あかねは頑なに首を振り、その提案を拒んだ。彼女は後ろの座席に座り、ただ黙って下を向き続け、ハンカチで顔を覆っていた。
「あかね、君がそばにいなくなると思うと、僕は……」
「うん、うちもやで。そやけど、これがうちらの運命やさかい……」
彼女の言葉は涙声となり、僕の胸を締め付けた。彼女との別れは、僕にとって世界が終わることと同じだった。それでも、彼女を想う気持ちは消えることはなかった。
「あかね、君のことを忘れないよ。君がどこにいても、僕はずっと君を想ってるよ」
「うん、おおきに。うちもやで。あんたのこと、ずっと忘れへんで」
そのあと、僕らは言葉もなくただ見つめ合った。彼女の瞳に映る僕の姿が、僕には切なくて仕方がなかった。
どんなにあかねが好きでも、彼女の心の奥深くまで見通すことはできない。
ところが、あかねの繊細な視線からは、涙が溢れていることに、僕は確かに気づいていた。それはまるで、彼女の心の奥底に秘められた感情の波紋が静かに水面に映し出されているようだった。
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