第27章 時を越える恋


 僕らの初デートの終わりが近づいていた。腕時計を見ると、長針と短針が重なっているのが見えた。まるで僕らを嘲るかのように。

 午後五時二十七分。あと三十分もしないうちに、あかねと永遠に別れなければならないのだろうか……。


 時は容赦なく進んでいく。六時になれば、夕暮れがやってきて、あかねとの最後のひとときまで奪ってしまうのかもしれない。


 仕方なく出口に向かった。彼女の母親との約束を破ったら、二度と会えないことになる。あかねに本当の気持ちを隠して、「そろそろ行こうか」と笑顔を作ったが、胸は苦しくてたまらなかった。


「もう、終わりなんやね。ふたりだけの時間は、止まってくれると思ってたのに、残念やわ」


 あかねも同じことを考えていたらしい。僕は彼女の目を見た。そこには切なさが溢れていた。僕は何も言えずに、強く抱きしめた。


「また、会えるよ」


 僕はそう言って慰めたが、涙がこぼれそうだった。


 僕らは蓮池のほとりを歩いていた。目の前には藤棚が広がっていて、その中で一本だけ真っ白な藤の花がひときわ目を引いていた。あかねはその花にそっと手を伸ばして、「同じ色でも、違うんや」と言った。何かを求めているようだった。  

 彼女の未知への探究心や、諦めない姿勢に感心して、思わず微笑んでしまった。僕も一緒に探そうとしたが、あかねは急に早口で話し始めた。


「もう少しだけ、ええやろう。いけずせんといて。子供の頃、ここに来たことあるんや。日の差すとこに、淡い紫の小さな花咲いとったんや。名前は日々草。『京の風車』っちゅうんや。風がそよぐと回ってるみたいで、えらい好きになってもうた」


 あかねは藤棚の下を歩きながら話した。彼女の目は輝いていて、昔のことを思い出しているみたいだった。僕は彼女のそばにいて、聞いていた。話がどう移り変わってゆくのか見当もつかず、ただじっと耳を傾けた。


「おかんが、指を口にあてて一輪摘んでくれて、胸にさしてくれたんや。今日探したけど、見つからへんかった。残念やわぁ。もう少しだけ、よろしおすか」


 あかねはそう言って、肩を落とした。彼女は自分の好きな世界を教えてくれた。


 美しい植物の世界には、太陽を愛する花や、強い日差しに耐えられない繊細な花があるという。彼女が探していた「京の風車」は、その繊細な花のひとつで、若葉の季節にその特徴を見せるらしい。    

 その花びらがそよ風に舞うとき、それはまるで太陽を求めて踊っているように見えるという。それは、自然の中で生きるすべてのものが持つ、生きるための強さと、美しさを秘めた瞬間なのだろう。 


 僕は、あかねの話に興味を持った。


 「京の風車」っていう花は初めて聞いたし、どんな姿をしているのか見てみたかった。彼女はその花に思い入れがあるみたいだった。


「日々草ってどんな花なの? 見せてくれない?」


 僕はそう尋ねた。すると、あかねは小さくうなづいて、スマホを見せてくれた。


「これや。おかんが写真撮ってくれたんや」


 スマホの画面には、淡い紫色の小さな花が集まって風車のようになっている花が映っていた。本当に可愛くて魅力的な花だった。


「すごくきれいだね。こんな花が咲くんだ」


 僕は感嘆した。あかねは嬉しそうに笑って、スマホをしまった。


「ええやろ? 日ぃ当たらな咲かへんさかい、ちょいややこしい花やけどな。そやけど、それがええんや。おおきに。こないな話、聞いてくれて」


 あかねは懐かしそうに言って、僕の手を握った。彼女の目には涙が浮かんでいた。僕は彼女を抱き寄せて、優しく頭をなでた。


「いや、こちらこそ。君の大切な思い出を教えてくれて」


 僕らはしばらく抱き合っていた。藤の花の香りが漂ってきた。時計の針は動いていたが、僕らはそのことを忘れていた。


「ううん、ええんや。おかんがね、女性にもおんなじ運命があるって教えてくれたんや。無理してはあかんって。そやさかい、幼い頃は神様のそばにいられる巫女はんになりたかったんや。そやけど、庭に伸びる竹の子みたいな夢だから、あんたには無理さかい諦めるべきやて」


 彼女は精一杯思いの丈を伝えてくれるけど、謎だらけで思わず尋ねてしまう。


「巫女さんは素敵やろう。どうして、ダメなの? 竹の子って何や?」


「あんたに三々九度の手伝いは似合わへんって。竹の子ぉは根元からすぐにはみ出してまうからや。うちの定めやさかいしゃあないやろ。今は四季を通じて風花を咲かす仕事をしたいねん」


「風花を咲かせるなんて、すごいね。どんな仕事なの? 花屋さんか?」


「ちゃうやろう。もっとはんなりとした音色で舞ってくれるたくましい白ギツネや。子連れの艶っぽいものもおるで。分からんか、野暮天やなあ。大人になったら分かるさかい……」


 あかねの言葉は照れくさそうに途切れてしまう。その一瞬、彼女の顔には微かな怒りが浮かんでいたが、それさえも彼女の可愛らしさを引き立てていた。

 そして、あかねの黒髪を飾る花かんざしは、風前の灯火のように揺れ動き、その美しさと存在感を放っていた。それはまるで、風に舞う花びらのように、儚くも力強く生きる彼女自身を象徴しているかのようだった。


 車を止めた駐車場の大門が見えてきた。彼女の手を握りながら、ゆっくりと歩き始める。その一歩一歩が、まるで時間を刻んでいるようだ。でも、時計の針は容赦なく進んでいく。ふたりはほとんど話さなかったが、その沈黙がふたりの間に深い絆を感じさせた。


 金堂の前で人々が立ち止まっているのを横目に、僕たちはやっと言葉を交わした。それは、別れを惜しむ心からあふれ出る言葉だった。彼女との時間が止まればいいと願う、そんな切ない気持ちがこみ上げてくる。それは、離れたくないという強い想いだった。


「あかね、そこに立ってくれ。最後に……。君の姿を残しておきたい」


 僕は「最後」という言葉を口にしようとして、一瞬ためらった。そして、カメラのレンズをあかねに向けた。彼女の笑顔を二十一枚目の写真で残して、僕の心に焼き付けた。僕はその笑顔が最後にならないことを祈っていた。


「ほんまに可愛う撮れてるなぁ。まるで別人みたいや、おおきに。うち、ふたりで並ぶ写真も欲しい、誰か撮ってくれへんかいな」


 あかねはクスクスと笑ってくれた。でも、その笑顔はどこか虚ろで、心がここに在らず。何かに気を取られているようにも見えた。



 最後に大門脇の社務所で立ち止まり、御守りを買ってあげた。僕はあかねの健康と夢を祈り、空に向かって真っ直ぐに伸びる竹が描かれたお守りを手にした。


「あかね、これ、今日のお土産」


 その瞬間、僕たちはただ静かに時を刻んでいた。それは、別れを惜しむ心から溢れ出る言葉だった。あかねと過ごす時間が一分でも止まればと願う切なさで胸を締め付けた。それは、離れたくないという強い想いだった。


 けれども、新しい旅立ちへの期待と不安も同時に感じていた。あかねと過ごした時間は、僕にとってかけがえのない宝物だった。その思い出はこれからの僕の力になるのだろう。そして、この「別れ」の瞬間こそが、新たな「出会い」や「旅立ち」への第一歩、つまり新たな「始まり」へのきっかけになると心から願っていた。

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