第26章 何でも柊

 

 糺の森ただすのもりの案内板を見つめて、しばし立ち止まった。――――この森にあるもうひとつの比良木神社ひらきじんじゃを探していたのだ。そこには不思議なご神木があると教えてくれた。


 白い紙飾りが風になびく、威厳のある木は不思議な厄除けの神さまで、女性の願いごとなら叶えてくれるという。読んでいるうちに、気になって仕方がなくなり、あかねの手を引いて、その神社に向かって急いだ。



 お宮に近づくと、真剣な眼差しをする若い女性たちの姿が目立ってきた。彼女たちは、不思議にもひとり残らずご神木の苗木を手にしていた。僕たちはもう一度案内板を覗いてみた。そこにはこう書かれていた。


 彼女たちは厄年に苗木を植えて、柊になれば願いが叶うとされていた。柊は神さまがお気に入りの木で、願いが叶うのは神の恵みだと信じられていたのだ。  

 しかし、柊に育つかどうかは運によるところが大きかった。柊の葉はのこぎりの歯のようにギザギザしており、冬には白い花を咲かせるという。

 柊にならなかった木は、南天やヒイラギモクセイなどになるらしい。僕はその伝説を信じて、あかねの心の闇を払うために、この神社に連れてきたのだ。僕は苗木がそばで売っていることを知り、彼女と一緒に苗木をご神木に供えた。


「ねえ、あかね。いくつになるんだっけ?」


 女性の本厄は数え年で19歳である。あかねは来年前厄を迎えることになる。しかし、そんなことを気にしている余裕はなかった。

 彼女は嵐山で自殺しようとした過去を持っているのだ。僕はいつまた悪魔が彼女に忍び寄ってくるのかと心配していた。だが、あかねからは何の返事もなかった。


「ここにいるとどんな気分になるの?」


 僕は話題を変えて、あかねに尋ねた。


 彼女は、お宮に入った途端から、不思議な感覚に襲われているようだった。僕の手を握りしめて、不安そうに周りを見回していた。

 僕はそれがあかねを苦しめる闇を祓うヒントになるのではないかと思って、彼女を見守り続けた。


「わからへん……そやけど、なんかが呼んでるみたい。うち、怖いねん」


 彼女は震える声で言った。僕は彼女を抱き寄せて、励ました。


「大丈夫だよ。僕が守ってあげるから。一緒に探してみようよ。きっと素敵な奇跡が待っているんだよ」


 僕は笑顔で言った。彼女は少し安心したように微笑んだ。


「おおきに。ほな、もっと行ってみよか」


 あかねは勇気を振り絞ったように言った。彼女の手を引いて、お宮の裏手に一歩ずつ進んだ。静かで神聖な雰囲気だった。木々の間から差し込む光がキラキラと輝いていた。鳥やセミの声が聞こえてきた。僕らはしばらく歩いていたけれど、特に変わったものは見つからなかった


「なあ、ほんまになんかあんねんか?」


 あかねは不安げに言った。


「あるよ。信じようよ。もう少し歩こう」


 僕は励ましながら言った。すると、その時だった。いつの間にか、そこには僕らだけがたたずんでいた。


「あっ! あれ!」


 あかねが驚いて指さした先には、「何でも柊」の看板が掲げられた一本の木があった。葉はノコギリの歯のようにギザギザしていたが、それ以外は普通の木と変わらないように見えた。


「これが、七不思議の柊なのだろうか」


 僕は首を傾げてつぶやいた。けれど、言い伝えによると、この柊は魔除けや祈願成就、何でも願いを叶えてくれる木とされていた。この木が現れたということは……。あかねの心の闇を……。


「見て! 花が咲いているわ!」


 あかねが驚いて言った。確かにその木には白い花が咲いていた。それも一輪ではなく、たくさんだった。こんな暑い日に、花が満開になるなんて信じられないことだ。


「すごい……こんなことってあるんだね」


 僕も感動に思わず声を漏らした。


 柊は冬に咲く花だが、今は夏だった。しかもこんなにたくさん咲くなど奇跡的な出来事のはずだ。しかも、枝の一部には黒紫色の果実まで実っていた。僕たちはいつの間にか、魔界の伝承の地に迷い込んでしまったのだろうか……。


「これって……奇跡なの?」


 あかねも信じられないという顔をして、小さくつぶやいた。彼女の手を握って、そっと木に近づいた。すると、金木犀のような花の香りが鼻をくすぐった。それはほのかに甘くて爽やかな香りだった。


「ああ……いい香りだね」


 僕は感動しながら言った。あかねもうっとりと花を見つめていた。


「ねえ、これって……うちの心の闇を祓ってくれるんか?」


 彼女はひとりごとのように言った。


「そうだといいね。でも、心の闇って何なの?」


 僕は何気なく尋ねてしまった。あかねはしばらく黙っていたが、やがて言葉を選ぶように話し始めた。その顔には、涙すら浮かんでいた。


「うちにはね……心に闇があるねん。誰にも言えへん悩みがいっぱいあるねん。せめてこの人生、楽しく幸せに生きたいねんけど……」


 彼女はうなだれるように言葉を続けた。


「そやけど、どないしても心晴れへんのや。何しても楽しめへんのや。そやからうちが嫌になってまう」


 彼女は声を詰まらせた。


「あかね……」


 僕は彼女を抱きしめて、優しくささやいた。


「大丈夫だよ。僕が一緒にいるんだから。あかねは素敵な人だよ。君の心の闇なんて、この柊の花ほどもないよ。あかねが笑えば、全てが明るくなるよ」


 僕は心からそう思った。あかねは僕の胸に顔を埋めて、泣きじゃくった。


「おおきに……ほんまにおおきに……」


 彼女は感謝の言葉を繰り返した。僕は彼女を強く抱きしめた。


 その時だった。柊の花が一斉に散り始めた。白い花びらが舞い落ちて、僕たちを包んだ。それはまるで夏の終わりを告げる姫白蝶が舞っているようだった。


「わあ……きれい」


 あかねが驚いて言った。僕も目を見張った。


「これって……もしかして……」


 僕は最後まで言おうとしたが、その前にあかねが唇を奪った。柔らかくて温かい唇だった。僕は驚いたが、すぐに応えた。柊の花びらが舞う中、僕たちは二度目のキスを交わした。振り返ると、その柊の木は消えていた。


 それはまさに奇跡でありながら、まぼろしだったのだろうか……。僕はあかねの心を覗けなかったが、彼女の切なくて美しい想いが僕の心に響いてきた。あかねは僕に感謝の気持ちを伝えようと、柊の花という詩を書いて読んでくれた。それはこういう詩で、僕の耳に切なくも美しく届いてきた。


 柊の花


 青い空を見上げて

 心は晴れやかになる

 夕焼けの赤い雲が

 背中を優しく押す


 窓の外に星が輝く

 いつか自分もそうなりたい

 でも心には闇があって

 誰にも言えない悩みがある


 せめてこの人生を

 楽しく生きたいと願って

 下鴨神社にやってきた

 糺の森で不思議な木に出会った


 小さくて細い苗木を植えても

 立派な柊に変わるという木

 厄除けや祈願成就の魔法

 心の闇を祓ってくれるのだろうか


 白い花が咲いていた

 冬に咲く花が夏に咲くなんて奇跡

 枝には黒紫色の果実が実っていた

 神様からの贈り物だったのだろうか


 悠斗はんが抱きしめてくれた

 大丈夫だよ 僕が一緒にいるんだから

 そう言ってくれた

 彼は私を笑わせてくれた


 全てが明るくなった気がした

 柊の花が一斉に散り始めた

 白い花びらが舞い落ちて

 私たちを包んだ


 まるで白い蝶が舞っているようだった

 彼と二度目のキスをした

 振り返るとその柊の木は消えていた

 それはまさに奇跡でありながら

 まぼろしだったのだろうか……。



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