第15章 アネモネの誓い


 深夜の十一時が近づくと、僕は読み終えた本を閉じて、寝床を抜け出した。個室の扉をそっと開けて、廊下を中から覗いてみた。

 すると、病院の通路は、青白い誘導灯と薄暗い照明の明かりで、不気味に照らされていた。凍りついたような雰囲気が漂っていた。  


 一瞬、ひとつの明かりが残り火を燃やすように消えつつあるのに気づくと、僕は男だというのに、恐怖感に苛まれた。実際に今回の入院で、立ち会ったことはなかったが、この病院からも黄泉の国に旅立つ患者もいたのだろう。そう思うと、人の命の儚さを感じると同時に胸が締め付けられた。


 ナースセンターに明かりと動く人影が見えたので、ほっと安堵した。一方では、見つかったらまずいと気づき、直ぐに扉を閉めた。その後、先ほど読んだ少女漫画の世界に心を奪われた。もちろん、目指す場所は既に決まっていた。


 深夜の静寂が広がる中、僕は人の気配が感じられない窓際の椅子に座り、ひとりで夜空を眺めた。月明かりがぼんやりと照らす中、目を細めて、ひとつだけ特定の星を探した。

 それは、乙女座の中心に美しく輝くスピカという星だ。つい先ほど読み終えたばかりのアニメ、「乙女座のスピカ物語」に登場する女性と同じ名前の星だった。  


 やがて、月の近くに一番光り輝く明るい星を見つけることができた。その星をじっと見つめていると、ひとりの女性、あかねの顔が思い浮かんできた。まだ、彼女と会うことができなかった。


 思い起こすと、後悔ばかりで自分のことを責めてしまう。あかねの連絡先のひとつすら知らなかった。住所はもちろんのこと、スマホの番号やLINEなども。僕は、なんと愚か者なのだろうか。このままでは、あかねと二度と会えないはぐれどりになってしまうかもしれないのに……。




 ◇◇◇


 そんな重苦しい日々が、一ヶ月近く続いていた。今日、運が良いのか悪いのか知れないけれど、退院の予定が決まっていた。今月の末には自由の身になれるという。

 退院まであと二日か……。自由になれると思うと嬉しいはずなのに、なんだか寂しい気持ちが募って、胸を締め付けてきた。

 でも、病院は個人的な感情で居座っていられる施設ではない。ここは、否応なしに別れを告げなくてはならないところなのだ。


 入院した当初は退屈で暇を持て余し、闇の巣窟みたいな館から一刻も早く抜け出したかったはずなのに……。

 ところが、今や180度反対となるコペルニクス的転回の感情を抱いていた。一日でも多くこの病室にとどまり、あかねと会える機会を待っていたかった。

 その思いがけない変化に、僕は自分自身で驚いてしまう。いったい、どうしたことだろうか……。こんな想いをしたことは、初めてだった。



 今日は、親父と弟たちが浮世気分で見舞いにやってくるらしい。朝起きたら、連絡が入っていた。壊れたスマホも詩織が直してくれていた。おふくろは入院した当日に来ていたのに、彼らは随分のんびりとしたものだ。


「悠斗、良かったじゃないか。いよいよ、明後日に退院だって聞いたよ。このまま京都観光して帰るけど、大丈夫だよな」


 久しぶりに親父のしわがれた声を聞いた。弟は窓から見える景色に心を奪われたのか、父親の話にも上の空だった。男同士の親子の繋がりなんてこんなものである。

 それとも、カメラマンとなるのに、後先構わず東京の実家を離れた僕自身へのしっぺ返しだろうか……。


 きっと、ふたりは春を待つ京都市内を気の赴くままに見て歩き、おふくろの目を盗み、祗園の街まで足を伸ばして帰るのだろう。本当にのんきなものだ。そんなことなら、入院費用と小遣いだけをさっさと置いて、一刻も早く姿を消してほしかった。


「おはよう。いよいよ退院だね」


 立ち代わりに、いつも優しい看護師の柴咲さんが朝の挨拶にやって来た。こっちの方が僕にはよっぽど心地よかった。毎日のように顔をあわせる、僕らには看護師と患者の他人行儀な言葉はもうなかった。

 彼女のホンワカする笑顔にいつも癒されていた。僕は、ふたりきりの世界となれるのを心待ちにしていた。

 今日は彼女にひとつだけお願いしたいことがあったのだ。それは、あかねと会うための最終手段だった。


 昨夜も眠れずに、人知れずおぼろ月を見ながら手紙を書いていた。書き終わると、折り畳んで枕元に隠していた。


 動けるようになったら、彼女に会いたい。会ってみたいのだ。突然に不思議な感情を抱いてゆく。会ってくれるだろうか……。

 無為に過ごす時間を終わらせようと、心の奥底から決意が湧き上がってきた。

 失敗を恐れるばかりではいけないだろう。何もせずに後悔するより、失敗しても挑戦する方がましだ。僕は便箋を取り出し、拙い筆を取っていた。


「これを、あの娘へ届けてほしい」


 僕は柴咲さんの顔を見つめながら、心からの言葉を探していた。そうして彼女に手紙を託した。看護師にラブレターを託すなど、きっと病院内では許されないことだろう。僕は心の中で手を合わせて詫びていた。

 思っていたとおり、一瞬、彼女は黙ってしまった。けれど、僕の切なくも熱い気持ちを察してくれたように、柴咲さんは笑顔となりうなずいてくれた。


「まさか、これラブレターなの。やっぱり、あの娘のこと、好きなんや。彼女は昨夜から少しずつ起き上れるようになったみたい。やっぱり、若い人たちっていいなあ……」


 彼女が満面の笑みを浮かべて、僕の顔を覗き込んだ。僕は「少しずつ起き上がれるようになった」という言葉を耳にして、幸せと不安が同時に心を満たした。


 彼女の去っていく足音が聞こえると、僕はいつものように窓から外を眺めた。病院の庭に咲くアネモネの花が目に飛び込んできた。小さくて愛らしく、風に揺れるその姿はまるであかねそのものだった。


 柴咲さんに頼んで手紙をあかねに届けてもらった。その中には、僕の想いが詰まっていた。これが恋というものなのだろうか。不思議にドキドキが止まらなかった。


 窓から外を見ると、空は深い青色に澄み切り、病院の建物が太陽の光を受けて輝いていた。夕暮れになると、空は青紫色に染まり、建物のシルエットが浮かび上がった。

 アネモネの花はその色を失わず、夜の訪れとともに一層鮮やかさを増していた。この街にも、ようやく春の息吹が感じられるようになった。


 退院まであと二日だけ

 自由になれるけど

 心は ぽっかりと

 穴が空いて

 あの子の笑顔が

 忘れられない


 窓越しに見える庭先に

 早咲きのアネモネが

 淡い紅紫色に染まって

 風に揺れるその姿は

 あの子そのものだと思う


 あの子に渡した手紙は

 読んでくれたのだろうか

 返事はないけれど

 僕の想いは届いていると

 信じていたい


 空は青く澄んで

 五重塔がきらめく

 日が沈むと色が変わる

 その色が僕の恋心を映す

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