第16章 春を告げる封筒


 退院まであと一日になったが、あかねからの返事はなかった。手紙のことが寝ても覚めても頭から離れなかった。彼女は僕の想いに気づいていないのだろうか。それとも、僕の手紙は夜空の向こうで星屑になったのだろうか……。


 諦めと一縷の望みが、心の中でせめぎ合っていた。僕はあかねのことを思うと、胸が苦しくなった。目を閉じれば、虚ろな気持ちになる。けれど、目を見開けば、希望が見えてくる。


 あの日、あの瞬間、あの笑顔……。先斗町でのひとときは心から離れない。忘れられない。彼女に会える日を夢見ていた。


 時間があればきまって、「あの子に、会いたいんだ!」とひとりつぶやいていた。この込み上げてくる気持ちは、ただ単純に助けた命を見守りたいというものだろうか……。いや、そんな高尚なものではないはずだ。

 そうすると、この心の奥底に渦巻く、マグマのような抑えきれない感情は一体なんだろうか? どんなに打ち消そうとしても、残り火のように燃え盛ってしまう。僕はまさに恋をしてしまったんだ。


 あかねの病室は、ひとつ下のフロアーにあるという。柴咲さんが内緒で教えてくれた。彼女があかねの返事を届けてくれることを願って、朝からドキドキしていた。

 ところが、今日に限って、白いナース服に身を包んだ彼女の笑顔が見られなかった。病室のドアが開く音がするたびに、期待と不安で胸が高鳴った。


 入院してまもなく一ヶ月になる。病室には時計はあるけど、カレンダーはない。スマホで日付を確認して、「ああ……、また一日無駄にした!」と自分を責めていた。


 廊下からクラシック音楽が聞こえてきた。病院のBGMだろうか。美しいメロディーなのに、僕には切なくて耐えられなかった。音楽は僕の心を揺さぶって、涙がこぼれた。


 ベッドの脇にある自分の荷物が片付けられていた。昨日お見舞いに来てくれた紫織さんの心遣いだった。カメラを取り出して、撮り溜めた写真をモニターで確認していく。見たかったのは、先斗町で撮影したあかねの写真だった。

 彼女は笑顔でポーズを取っていた。その笑顔が僕を惹きつけて苦しめる。僕はあかねを助けようとして、自分も重傷を負ってしまった。それから、僕は病院で彼女のことを想い続けていた。


 あかねは傷ついた顔や包帯の姿を、僕にも見られたくないのだろう。会ってどうするのか、分からないことばかりだ。一歩誤れば、軽はずみな行動だと非難されるかもしれないし、奇妙で儚い妄想ばかりが浮かんでくる。

 あかねへの恋は、やはり僕だけの身勝手な妄想だったのかもしれない。けれど、僕は彼女に伝えたかったんだ。「ありがとうとごめん、そして好きだ」と。



 僕はまだ二十一歳だ。青春(アオハル)は遠くまで見渡せる空とは限らない。一寸先は闇かもしれないが、分からないからこそ、未来に夢や希望があると信じていたくなる。


 こんなことなら、柴咲さんに頼むことはなかったはずだ。かえって、迷惑をかけたのだろうか。後悔はしていないけれど、胸が痛んだ。頭の中では僕を責める声が響いていた。もうひとりの僕がまくし立てていた。


「彼女は助かったんだから、それで十分じゃないか。お前の役目はもう終わったんだよ。他に何を望むんだ!」


 お昼になっても、柴咲さんは姿を見せてくれなくて、目の前に暗雲が漂っていた。もうダメだろう。僕は諦めようとした。もう会えないのだと覚悟した。そんな想いに苛まれているとき、扉の外から声がした。誰かが入ってくる。


 柴咲さんだろうか……。ひそかに最後の期待を抱いた。ところが、そこに立っていたのは、体温計を手にする別の看護師だった。彼女は笑顔で挨拶してくれた。


「神崎さん、こんにちは。今日は私が担当です。よろしくお願いします」


 ところが、僕はがっくりと落胆した。柴咲さんではなかったのだ。彼女は僕に近づいてきて、血圧や体温を測った。そのあと、薬を持ってきてくれた。


「これを飲んでください」


 看護師さんは水と一緒に薬を差し出した。僕はそれらを受け取ったが、薬を飲む前に彼女のポケットから何かを取りだすのを目にした。それは、春を告げるさくら柄の封筒だった。


「あの……。神崎さん……」


 彼女はそう言いかけて、一瞬ためらうように、言葉を詰まらせた。僕は彼女の顔を覗き込んだ。彼女は吸いこんだ息を吐いてから、口にした。


「実は、頼まれてきたの」


 彼女はそう言って、手に持っていた封筒を見せてくれた。僕はそれを見て驚いた。それは手紙だった。あかねからの待ちに待った返事だった。封筒の表書きには「親愛なる悠斗さま」と書かれていた。


「えっ、本当に?」


「はい。あかねさんからです」


「これを渡してくださいと頼まれたの」


 彼女はそう言って、微笑んだ。


「ありがとう」


「神崎さん、よかったですね。でも、今回のことは内緒にしておいてください」


 彼女は人差し指で口にあてる仕草をして、部屋から出て行った。僕はひとりになった。呆然となり、こみ上げてくる喜びを抑えられなかった。この時間をどれほど待ち望んだことだろうか……。

 すぐさま、「やったあ!」と歓喜の叫びをあげたくなった。僕は本当に愚か者だ。他の人が聞いたら、些細なことなのに。


 手に封筒を握りしめ、周囲に人の気配がないことを確認した僕は、ベッドに静かに腰を下ろした。心臓の高鳴る音だけが、部屋に響いていた。封筒を丁寧に開けるその瞬間が、急に恐ろしく感じられた。中に何が入っているのか、その想像するだけで胸が高鳴った。


 もしかしたら、僕の想いを受け入れてくれる言葉が書かれているかもしれない。それとも、僕を拒む真逆な言葉が待っているかもしれない。

 どちらにせよ、これが最後のチャンスだ。その事実が、僕の心を一層高鳴らせた。

 この封筒の中には、僕の未来が詰まっている。それは、希望か絶望か、僕にはまだわからない。しかし、どんな結果であれ、僕はそれを受け入れる覚悟がある。

 だから、もう一度深呼吸をして、封筒を開けることにした。その瞬間、僕の心は、未来への一歩を踏み出していく。


 僕は勇気を振り絞り、さくら柄の封筒を開けた。その中から滑り落ちてきたのは、一枚の白い便箋だった。それが目に入った瞬間、僕の心は高鳴り、目頭が熱くなった。それはあかねの手紙だった。

 あかねの文字は、まるで彼女自身がそこにいるかのように、僕の心に響いた。文字のひとつひとつが、彼女の優しさと愛情を伝えてきた。 

 


 僕は手紙を広げて、内容を読んだ。


 ────よもや諦めていた返事が戻ってきたのだ。まだ、安心は出来ない。即、崖っぷちから叩き落とされることだって、十分あり得る。後者の方が心の傷は深くなるかもしれない。でも、そんなことどうでもいい。ゆっくりと読んでいく。


 手に浮かんでくる汗はなんだろうか。白い便箋には色鉛筆で描かれたような花が描かれている。小さくて可愛らしい紅紫色こうししょくのつぼみだ。アネモネの花だろうか……。昔に母親から習ったことを呼び起こしていた。


 アネモネの花言葉は「はかない恋」


 白いアネモネは「真実」

 紫のアネモネは「あなたを信じて待つ」

 紅のアネモネは「君を愛す」


 紅紫色は、花や女性、そして衣服など様々な美しいものを表現するのに、最適な彩りだと教えられていた。ならば、その色合いの花言葉となる「あなたを信じて待つ」「君を愛す」を信じていたくなった。


 あかねも病室の窓から同じ景色を見ていたのだろうか……。手書きの文字には、筆の色あとが滲んでいた。いや、ひょっとしたら涙の雫かもしれない。



 ♧


 「悠斗さん、

 そしてお兄ちゃん、

 ありがとうございます


 明日、ご退院とのこと

 あなたのお怪我、

 ずっと心配していました

 わたしの為に

 ご迷惑をおかけしてしまい

 本当にごめんなさい


 お会いしたいとのお申し出

 傷だらけの醜い顔で良かったら

 直接お礼を言いたいので

 お越しいただけますか  

 わたしが動ければ、

 こちらから伺いたいのですが

 本当にごめんなさい」  

            (あかねより)



 僕は手紙を読み終えて、あかねの顔を思い浮かべた。彼女は僕の想いを受け入れてくれたのだ。それが嬉しくて、苦しくて、切なくて……。手紙を胸に抱きしめて、目頭を押さえるのが精一杯だった。


 あかねは僕に会いたいと言ってくれた。それが信じられなかった。僕は夢を見ているのだろうか。それとも、これが現実なのだろうか。僕は自分の目を疑った。


 彼女は僕のことを醜いと思っていないのだろうか。それとも、僕のことを愛してくれたのだろうか。いや、もしかすると、お兄ちゃんとして、見ているのかもしれない。


 僕は自分の心を問いただした。彼女は僕に何を言ってくれるのだろうか。それとも、僕が彼女に何を言うべきなのだろうか。僕は自分の口をつぐんだ。



 

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