第17章 再会への一歩
あかねと会ったら、何と言ってあげれば良いのだろう? 彼女に伝えたい言葉は山ほどあるのに、口から出てこない。これまで女性と縁がなかったわけではない。
けれど、二十歳を過ぎた大人の男なのに、こんな気持ちになるのは初めてだった。あかねは僕にとって特別な存在なのだ。恋の火蓋が切られたにも関わらず、僕はまだ自分の感情をうまく表現できない。自分のことながら、つくづく呆れてしまう。
ただひたすら、あかねに会いたい。あかねの声が聞きたい。吐息をもらしてしまいそうだ。もう、とっくに自分の気持ちを抑えることは出来なかった。
考えれば考えるほど、さらに胸が熱くなってくる。この気持ちは何だろうか……。僕の心の中には、もうすっかり春が訪れていた。
心を落ち着かせるために、いつものように窓から外を覗いてみる。今日はガラスも開けたくなった。思い切り、すーっと新鮮な空気を吸ってみた。
ああ……良い気持ちだ。
そこには、冷たい風にも負けないアネモネの小さな花が咲いている。昨日より、蕾が開いているようだ。その花びらは彼女の肌や唇のように柔らかそうだ。その色が紅紫から薄紫に変わり、少女の清楚な面影と重なってくる。僕はそんな透明感のあるナチュラルな見た目や心根の美しさに心を惹かれていた。
昼食を手早く済ませて、彼女の病室に向かう。このチャンスを逃すと、回診などで二度と彼女に会えなくなるかもしれない。
僕には明日の退院が迫り、残された時間はほとんどないのだ。思い立ったら、突き進むしかなかった。エレベーターの前で出会った医師たちの訝しげな視線を無視し、僕は気後れせずに歩みを進めていく。
彼らからすれば、僕はパジャマ姿で病院内をうろつく変人だろう。「若さゆえの軽率な行動で、無謀なことをやってしまう」と皮肉られても気にしない。もう、後ろ向きになることはしたくない。それだけは、絶対に妥協できなかった。
階段を転ばないように、ひとつひとつ上がる、廊下を進むたびに、心臓の鼓動が高鳴っていく。あかねとの再会への期待と不安が交錯する。もうすぐ彼女に会えるというのに、先ほどまでの元気は、どこに消え失せたのだろうか。僕自身が、臆病者に見えてくる。
そして、ついにその場所にたどり着いた。201号室のAー1野々村あかね。病室の外で立ち止まった。
外壁のプレートに名前とベッドの位置を示す番号が掲示されていた。彼女の名前を見つけると、緊張が一層高まった。手には汗が滲んできた。
しかし、自分の前には解決が難しい問題が立ちはだかっていた。そこは四人が共有する一般病室だった。この状況をどう乗り越えるべきか、一瞬で答えを見つけることはできなかった。
けれど、彼女に会うためには、この問題を解決しなければならない。そして、その解決策を見つけるためには、自分自身を信じるしかなかった。それが、この瞬間に必要な勇気だった。そして、その勇気を持つことができたのは、彼女に再会するという強い願いがあったからだ。
「さて……、どうしようか?」
あかね以外にも三人の患者がいる。まさかの最後の瞬間に、予期せぬ臆病さが襲ってきた。弱気なもう一人の自分が頭を覗かせてくる。「悠斗、引き返した方が良い」
パジャマ姿で女性専用の部屋に入るなんて許されるのだろうか……。もし見つかったら、不審者扱いされてしまうかもしれない。
しかし、運よく扉は開いていた。神さまが味方してくれていた。もう、引き下がることはできない。たとえ、「病院が始まって以来の前代未聞の逢引だ!」と言われても、このまま突き進みたい。息を殺してそっと音を立てずに覗いてみる。
レースのカーテンも開けられ、窓から柔らかい日差しが差し込み、病室内はかなり明るくなっており、心が安らぐ。窓の近くに若い女性の姿が見えてきた。
あかねは窓辺で本を読んでいた。その表情は目尻に深いシワを寄せて、まるで何かを我慢しているようだった。でもその瞳は澄んでいて、まるで水面に映る月のように美しかった。僕は彼女に気づかれないように、しばらく彼女を見つめてしまった。
あかねは本を読む合間に、ときおり窓から外を見上げていた。そのはかなげな視線は遠くをさまよっているようだった。彼女は何に魅せられているのだろうか……。僕は自分でも驚くほど、嫉妬深くなっていた。それは想像もつかない姿だった。
────この時間、他に人の気配は見あたらず、良かった……。思わず、ほっと安堵する心強い味方がそばにいてくれた。
少しずつ、ふたりの距離を一歩一歩縮めていく。白い包帯が細い手足を覆っているのが見えるが、その顔を隠すものは何もない。
痛々しい傷跡を見て、冷たい水に漂う哀れな姿を思い出し、悲しみがこみ上げてくる。
彼女は枕元から素顔のままで静かに外を眺めていた。明日がどうなるかもわからない風前の灯火のような雰囲気を感じ、そっと声をかけてしまう。
「あかねさん」
「もしかして、……」
少女は苦しそうな表情を浮かべながらも、一生懸命に起き上がろうとする。瞬時に手で制止して優しく見守るが、涙が一粒こぼれてしまう。突然に胸が締め付けられた。
とても切なく、途切れることのない静寂な時間が流れるのに気づいていく。
「助かって良かった」
やっと言葉を絞り出した。
それが、何の慰めにもならないことは十分理解していた。それしか思いつかないのだ。あかねは黙ったままうなづき、涙を溜めている。素肌は透けるように白い。少しすると、女性の方からゆっくり話しかけてくる。
「悠斗はん、いっぱいいっぱい、傷ついたけど。そやけど……、生きとって良かった。助けてくれて、おおきになあ」
恥ずかしそうに頬を赤らめている。あかねはさらに言葉を続けてくる。
「元々、うち美人でないし。もっと、綺麗やったら良かったのに」
どこまで、健気なのだろうか。彼女は両手で顔を覆ってしまう。でも、謙遜して言っているようには思えない。僕がやっていることは、あかねの心を傷つける独りよがりなのだろうか……。
確かに下肢にも包帯が見え隠れし、小さな額にもあざのようなすり傷がたくさん残されていた。退院して元気になるまでは、まだ時間がかかりそうだ。
でも、神さまから許されるものなら、もっと彼女の美しい顔を見ていたいという不思議な感覚になっていく。このままで良いから寄り添っていたい。
身体の傷はすぐに治るだろう。けれど、心のキズをどう癒せばいいのだろうか。突然、思いがけない言葉を口にしていた。
「元気になったら、僕と一緒に歩いてくれますか? 兄貴ではなく男として」
いや、違う。これは、思いつきではないはず。しかも優しい言葉は、決して同情からではない。おそらく、ずっとそう願っていたに違いなかった。
「えっ、どうして。うちなんかと……」
「僕、あかねと一 緒に歩いてみたい」
「………」
彼女からの返事はなかった。
余計な言葉で、彼女の心を混乱させてしまったのだろうか。もちろん、遊び心など微塵もなかった。
しばらくすると、彼女は僕の真剣な想いを察したかのように、静かに見つめたままうなづいた。そして、自分の連絡先が書かれたメモをそっと僕に手渡してくれた。
その瞬間、他の患者が戻ってくる気配が感じられた。残念な気持ちがこみ上げてきた。彼女の顔をもう一度見たかった。微かに笑っている彼女の姿に気づいた。もう、涙はなかった。ずっと泣き続けて、涙さえも枯れてしまったのだろうか。
しかし、病室の外から、僕たちの話を待ちわびたように、見覚えのあるひとりの女性が顔を覗かせていた。
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