第18章 あかね色の夜


 医師の言ったとおり、僕は怪我から回復して病院を後にすることができた。


 退院手続きをさっと済ませると、カメラバッグを肩にかけて、玄関で足を止めた。そこから見える病棟は、僕が一ヶ月間暮らした場所だった。  

 その一ヶ月は、切なさと無力感に満ちた時間だった。時には長く感じられ、時には短く感じられた。それは、僕の不思議な想いが詰まった期間だった。

 

 看護師の碧さんが忙しい仕事を抜け出して、見送りに来てくれた。今日が最後に会う日だと思うと、胸がいっぱいになった。


「神崎さん、おめでとうございます。けど、もう会えなくなるのは寂しいなあ……。早く一人前の写真家になってくださいね。あかねさんとのことも応援してるから」


 碧さんは優しい言葉で送り出してくれた。それは看護師としては相応しいものではなかったかもしれない。けれど、僕の耳にはこの上ない温かい言葉で届いた。彼女は別れの時が名残惜しそうに、いつまでも手を振ってくれた。

 僕は腰を折り深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べて、病院を後にした。タクシーに乗りながら、彼女の寂し気な姿を感じて、涙が止まらなかった。彼女の笑顔が最後の記憶となり、僕の心に深く刻まれた。



 ◆◆◆◆


 病院を出てから二か月が過ぎた。


 桜の花びらが儚く散りゆくのを見送った僕は、初夏に近づくのを感じた。


 僕は、退院するとすぐに、アルバイト先の写真スタジオに戻った。社長の大和田からは「悠斗、もっとゆっくり休んでも、良かったのに」と優しい言葉をかけられた。


 ところが、仕事に戻ると同時に、アルバイトながら甘える余裕はなくなった。幾度となく悠斗、悠斗と声をかけられた。社長から「おーい悠斗、こっちこっちだ。早く機材を持ってこいよ!」と厳しい指示が飛んできた。 

 それでも、僕は専門学校とバイトの慌ただしい日々を送る中で、夢と希望に向かって走り続けた。


 プロフェッショナルなカメラマンになるには、「もも栗三年、柿八年、シャッター覚え十年」と言われる。その習わしを教えてくれたのは、経営者としてだけでなく、一流のカメラマンとしても有名な大和田自身だった。

 彼のふたつの素顔に、僕は深く憧れ、尊敬の念を抱いていた。彼からの指示があれば、足の痛みさえ忘れて、重い荷物を背負い、どこにでも走り回ることができた。


 しかし、今日は運が良かった。バイト先に顔を出すと、すぐに社長から呼ばれた。


「悠斗、おめでとう!」


 それは、まさに夢のような嬉しい知らせだった。僕はコンクールに「冬空に風花さくインクライン」と「嵐山の朝焼けのうた」というふたつの作品で応募していた。後者の作品が新人特別賞を授かったという連絡が入った。


 これで、僕もようやくアマチュアからひと皮むけて、プロのカメラマンとして認められたことになるのだろう。思わず、感動と喜びで胸が熱くなった。  


 あかねに直接会って、この知らせを伝えられるときが待ち遠しかった。彼女はきっと喜んでくれるだろう。そして、ふたりきりのデートを果たせる日が近づくことを心から願った。


「悠斗、すぐ事務所へ連絡してくれ」


 しかし、撮影の合間に社長から突然の指示があった。電話の相手はなんとあかねの母親だった。聞くところ、あかねはあと数日で退院できるらしい。「ああ……良かった……」と心の中でつぶやいた。けれど、同時に、彼女との約束を思い出すと不安がよぎった。


「一緒にあかねと京都の街を歩きたい」


 確かにそう約束したはずだ。叶えられるとすれば、二か月ぶりの再会となる。

 ところが、あかねと会った日、病室の外での出来事を思い出していく。会ったのは紛れもない彼女の母、野々村すずさんだった。    

 僕とあかねの会話を全て盗み聞きしていたらしい。急に、病室から少し離れたところに連れて行かれていく。娘に聞かれるとまずいと思ったのだろうか……。



「あの娘は目がまだ不自由で、真っ直ぐに歩くことも出来ひんのどす。まだ二十歳にならへん高校生や。うちには父はんもおらんし、あんさんとは生きる世界がちゃうんどす。どないな気持ちで、誘うてるんや?」


「ただ彼女を励まそうと思っているだけや」


 声を大にして答えていたが、母親は聞く耳を持たなかった。


「まだ、若おして、女心が分からへん思うけど、ただ思いつきのからかいなんでしゃろ。惑わすようなこと、止めとぉくれやす。あの娘に期待をさせてしまう。辛い思いで辛抱させるのは、もう懲り懲りなんどす」


「惑わすって? そんなつもりは……」


 僕は弁解しようとしたが、母親は僕の言葉を遮って言い放った。僕は憤りを感じながらも、その勢いに押されて言い返すことができなかった。


「神崎はんは娘にとって命を救うてくれた恩人どす。心から感謝してます。短い時間やったら散策することは許すけど、これ以上惑わすのんはやめとぉくれやす」


 そう言葉を残して、彼女は僕から離れていった。その厳しい眼差しは、最初に病室で会った時の岩陰に小花が咲くようなしおらしい女性とはまるで別人だった。


 今になってみると、母親の心配は無理もないだろう。あかねたちの過去は謎ばかりだったのだから。

 けれど、あかねは、元気になったのだろうか……。「頭を強く打った」と母親から以前に聞いていた。もし、記憶障害となり、僕のことを忘れてしまったら、どうしようかと不安にも駆られていた。



 それでも、僕は夜の散歩を続けた。京都の初夏は、蛍の季節だった。


 蛍の光が草場からこぼれる。夜空に浮かぶ光は揺れて消えて、また現れる。僕のアパートの近くの川沿いでも、雨上がりの夜は水面に蛍が映る。花火のように美しい光景だった。

 蛍の光に目を奪われた。夜空に舞う光は華やかで幽玄だった。夏の夜の魔法に、僕は魅せられた。でも、僕の心にあかねの姿が浮かぶことはやまなかった。



 あかねの笑顔が恋しくて、目を閉じた。彼女は元気になって、僕に微笑んでくれるだろうか。僕は彼女の声が聞きたくて、耳をすませた。彼女の手を握りたくて、手を差し伸べた。でも、それは夢の中でしか叶わない現実だった。

 

 僕は彼女との再会を待ちながら、手紙やメールでやりとりを続けた。彼女はリハビリに励み、元気な声を届けてくれた。それでも、彼女のことを思うと心配で胸が締め付けられた。僕は毎日、彼女に手紙やメールで返事を書き、自分の撮った写真を添えて送った。


 しかし、あかねの母親は僕たちの関係を良く思っていなかったようで、娘が退院するまでは会わせてくれなかった。


 僕はアパートを目指して、三条大橋の夜道を歩いた。歩く足元には、提灯や置き行灯が照らしてくる。照らされる古都の息吹。その明かりは僕の胸に切なさと郷愁を誘ってくる。老舗の料亭から心に優しくしみる、ノスタルジックな和風の音色が耳に届いて心を奪われた。




 僕には病室でほほ笑んでくれたあかねの顔が、目に焼き付いて離れなかった。その笑顔は僕の心に光を灯してくる。

 けれど、今夜はあかねの面影を脳裏に浮かべると、ゆらゆらとおぼろげな空気すら感じていた。そこには透き通った瞳が消えてしまい、虚ろな表情が浮かぶばかりだった。その顔は、僕の涙を誘った。


 アパートに帰ると不安ばかりが募り、さっそく彼女への手紙を書き始めた。その手紙には、僕が彼女に伝えたかったことが全て詰まっていた。

 手紙には、新人コンクールの受賞と、あかねに会えることへの期待を書き込んだ。言葉が足りないと感じながらも、ペンを走らせる指先に力が入った。


 一方では、受賞のきっかけを作ってくれた詩織さんや優しかった看護師の碧さんのことも触れていた。自分でも心の奥底までは覗き込めないものだ。迷いが生じていたのは事実だろう。それでも、僕の正直な心の中では、きっとふたりとはもう吹っ切れていたのだろう……。それは、恋ではなく、ただの憧れだったのかもしれない。


 あかねが読んでくれると信じて、封筒に入れてポストに投函した。ポストに入れてから手を離す瞬間、目頭が熱くなってしまった。


 その日は夜更かしして、あかねとの再会を夢見ていた。彼女の顔を思い浮かべると、胸が高鳴った。僕は本当にあかねが好きなんだと、心から感じた。


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