第14章 運命の涙

 

 午後になり、骨折した左足にギプスが巻かれた。これで杖を使わずに少しずつ歩けるようになった。けれど、それがかえって心の奥底に、切なさと熱い想像の世界を引き立てていく。


 病院の消灯時間はやみくもに早く、夜型の僕にとっては極めて冷たい宣告だった。夜の九時になっても、いっこうに眠気などはやって来ない。


 とりわけ他にやることもないので、月明りが届く蒼然たる薄暗い中で、病院の休憩所から借りてきたアニメの本を手に取っていた。

 それは、「乙女座のスピカ物語」というタイトルで、まるで異世界を描くような少女漫画だ。フランスの片田舎の人々に伝わる童話を題材とした話だった。読み進むにつれ、時間を忘れたように心を揺さぶられていく。


 この物語は、冥界の権力者となる王のハーデスが「自然豊かな国『メーテル』にはこの世のものとは思えない爽やかで可愛らしいスピカという名の娘がいる」と、人づてに聞くところから始まる。

 スピカは全能の神のゼウスと心優しいリュンヌの間に生まれた娘で、ふたりから大切に育てられて、とても美しく成長していた。ハーデスはまだ娘に一度も会っていないのに、恋心をいだいていた。


 冥界は娘の住むメーテルの国から、1200光年という途方もないほどかけ離れた遠くて火の燃えるような熱い国だった。

 一方でメーテルは、四季を通じて美味しい果物が採れ、野山には小川が流れて、美しい花々が咲き誇る穏やかな国だった。

 女王のリュンヌは、こよなく自分の娘を愛していた。ふたりは、ゼウスに見守られながら、いつも一緒にお城の庭で花を摘んだり、歌を口ずさんだりして、幸せな日々を送っていた。


 ハーデスは自分の権力でなりふり構わずスピカを妃にしたいと企む。ところが、スピカの母親は娘をそんな遠くの国に嫁がせるのに断固として拒否した。

 その言葉を聞いたハーデスは怒り狂い、使者を送ってリュンヌの宮殿を襲撃し、スピカをさらってしまう。リュンヌは愛する娘を奪われたことに悲しみ、冥界に向かって声が枯れるまで叫び続けた。


「スピカを……。わが子を返して」


 スピカは冥界に来てから、ハーデスの愛を受け入れることができなかった。何ひとつ口にせず、ただ毎日、涙を浮かべ泣き暮らしていた。


 彼女は夜の帳が下りるチャンスを心密かに狙っていた。夜半になり、午前二時の刻を教会の鐘が告げてくる。この時刻は城の警備兵が交代するもので、一瞬、空白の間合いが生じるものだと知っていた。脳裏に母親の優しい笑顔が浮かんできた。


「これで、帰れるかも……」


 心の鏡に向かってつぶやいた。


 月夜の明かりを道しるべに、銀河の架け橋を渡って母の住む故郷にこっそりと抜け出そうとする。

 ところが、その日に限って、時計の針が五分遅れていた。彼女はハーデスの使者に捕まって、城下の牢屋に幽閉されてしまう。希望の架け橋は彼の命令により、二度と使えないように、木っ端微塵に壊されていた。

 スピカは母に会えないことに絶望し、ますます涙を流していく。リュンヌは娘の涙を感じたのか、冥界に災いをもたらすように、主人の神となるゼウスと相談した。


 彼女は冥界から四季を奪って、畑の作物をすべて枯らし、水源を汚して、山を噴火させたかった。ゼウスは妻の申し出をやんわりと断った。ハーデスの畑だけに竜巻を送り、食べ物が取れないような罰を与えて、冥界に響き渡るように叫び声をあげた。


「もし、娘を殺したら、次は絶対に許さんからな。全面的な戦争を仕掛けてやる」


 その夜、地下の牢屋に、恐怖に震えたひとりの男が現れた。それは、冥界の王、ハーデスだった。


「こしゃくな娘と親たちよ」


 男は強がりを吐き捨てた。


 彼はスピカが妃になったというのに、いっこうに寄り添ってくれない彼女を一瞬殺してしまおうかと憎んでいた。

 けれど、全能の神、ゼウスからの叫びが届いてきた。彼はリュンヌたちの怒りを耳にして耐えられなくなり、スピカを解放することにする。

 しかし、スピカに恐ろしい罠をかけることだけは、忘れてはいなかった。


「これを食べたら、母親のもとにいつでも帰してあげるから」


 邪悪な王の手には、四つに実が裂けたような赤い果物が握りしめられていた。それは、悪魔の食べ物、真っ赤な血の滴るようなザクロという果実だった。


「本当に……。ならば食べましょう」


 スピカは恐ろしい罠に気づかず、ハーデスの言葉を信じていた。これで、母親のもとに帰り、穏やかな日々がまた送れるものだと信じていた。

 彼女が果実を口にすると、赤い液体が噴き出して衣服を汚した。ハーデスはその様子を見て、不気味な笑みを浮かべた。

 悪魔のザクロには、一年の四分の一、春の季節が見られなくなるという恐ろしい毒が仕込まれていた。

 スピカは何も告げられずに縄をほどかれ、追放という名のもとにリュンヌとゼウスの住むメーテルの国に戻された。


 しかし、スピカの心には平和で穏やかな時は戻ってこなかった。春の季節を迎えると、突然目の前が真っ暗な闇に覆われ、彼女の目と心から恋が芽生える季節は奪われていた。母親は、これでは娘が本当の恋も出来なくなってしまうと不憫に思って涙をこぼす日々が続いた。


 娘の目が不治の病だと知って驚いた母親はハーデスの王を怨んで、冥界の四季のルーレットを探し出した。そうして、彼が好きだった熱い国を癒す樹氷の冬を選んで、二度と食べ物ができないように矢を放った。


 リュンヌは冬の地表が火山のマグマで覆われるのを見届けた。冥界に炎が立ち上ぼり、黒点の増えていくのに目が留まり、涙を浮かべた。その姿に呆気にとられる、ゼウスの手を振りほどいて、ひとことつぶやいた。


「これで、思い残すことはないやろ」


 しばらくうなずくと、リュンヌは娘とともに命を絶ち、彼女たちはブラックホールに吸い込まれるように消えていったという。


 物語を読み終えた僕は、涙を抑えることができなかった。月明かりの下で、スピカとリュンヌの顔を思い浮かべた。

 彼女たちの優しい笑顔、温かい抱擁、そして一緒に過ごした幸せな日々。それらの全てが、今は僕から遠く、遥か彼方の手の届かない場所にある。


 運命に翻弄された彼女たちの苦しい日々。それらの全てが、僕の心を深く揺さぶった。


 彼女たちの運命は、僕の心に深い傷跡を残した。父親のゼウスがどれほどの悔しさと悲しみを抱えたのか、僕には想像もつかなかった。


 けれど、「こんなに泣かせるなんてずるいよ」と、涙をこらえながらつぶやいた。僕は心の中で、彼女たちに祈りを捧げた。



 彼女たちは今、どこにいて、どんな気持ちなのだろうか。どんな光景を見ているのだろうか。僕はそっと目を閉じた。すると、僕の目の前に、美しい星空が広がった。


 その中に、ふたつの星が輝いていた。それは、スピカとリュンヌの星だった。彼女たちは星の光になり、天空に輝いていたのだ。僕に微笑みかけてくれた。「ありがとうとさようなら」と言ってくれた。僕も、彼女たちに同じ言葉をかけてあげた。 


 僕は、彼女たちに「愛してるよ」とささやいた。そして、星が見えなくなると、涙を流した。それは、悲しみの涙ではなく、感動の涙だった。彼女たちの物語に心を打たれた。


 僕は、右手を左胸にかざして、彼女たちの物語を死ぬまで忘れないと誓った。




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