第48章 月下美人の雫
夜が更け、僕たちは知らず知らずのうちに初日の出を見逃し、眠りに落ちていた。静寂が包む中、突然あかねの携帯が鳴り響き、メロディーに乗せた神秘的な歌詞が空間を満たした。
それは、下弦の月が海に映る姿を描き、「愛する人に逢いたい」という女性の切ない願いを情熱的に歌い上げるものだった。
スマホが止まることなく鳴り続ける。僕は彼女を揺り起こし、「スマホ鳴ってるよ」と告げたが、彼女は深い眠りについていた。どうすべきか迷いながら、時計を見ると午前七時を指していた。「こんな時間に誰からだろう?」と思いつつ、彼女のスマホを手に取り、電話に出た。
「はい、野々村ですが……」
「すずさんの容態が急変しました。すぐに……」
連絡はすずさんの担当看護師からで、彼女が発作を起こしたという。「一刻も早く病院に来てください」とのことだった。僕はあかねを急き立て、タクシーに飛び乗り病院へと急いだ。
病院に到着し、ICUへと案内された。すずさんは眠っている間に冷や汗と吐き気、咳と息切れに襲われ、ナースコールを押したという。診断は突発性心筋梗塞で、心電図は脈の乱れを示し、血圧も危険な低さだった。
僕らは窓からぼんやりと月明かりが届く薄暗い待合室で待っていた。目と鼻先にある手術中のランプが、やけに青白く点滅しているかのように感じられた。無機質な治療室から、すずさんが運び出されるのをずっと待つしかなかった。それは天国から暗闇の世界に叩き落とされたような苦しい時間だった。
あかねはただひたすら胸に手をあてがいながら、「おかん、おかん……」とすすり泣いていた。その声は、母親に逢いたいと願う子供のように切なく、僕の心を引き裂いた。僕も、思わずもらい泣きした。二時間ほど、待ち続けた。やっと手術中の表示灯が消えて、数人の医師たちが現れた。
「先生、おかんは?」
あかねはすぐ医師のそばに駆けつけた。
「やれることはすべてやりました。でも、今日の朝までが峠かもしれません。他のご家族にもすぐに連絡した方が良いと思います」
「おかん、おかん。うちを置いていかんといて。もっとわたしのおかんでいてな」
病院の廊下に、「おかん、おかん。死なないで……」という叫び声が鳴り響いた。それが、娘から母への最期のやり取りとなった。そのまま、すずさんは、二度と目を覚ますことはなかった。
ベッドに横たわる彼女の寝顔は穏やかで透き通り、「月下美人」の花が咲いたような美しさを漂わせていた。僕は命の儚さを知るとともに、彼女の人生がどんなものだったのだろうか……。幸せだったのだろうか……と思い返していた。病室にはいつまでも、あかねのすすり泣きがとどまることはなかった。
あかねはすずさんの手を握りしめて、「おかん、おおきにな。うちを育ててくれておおきに。うち、おかんみたいに強うなるさかい。おかんみたいに笑顔で生きるさかい。おかんみたいに愛されるさかい。おかん、いつまでもえらい好きやで」と泣きながら、叫んでいた。
そのひとりごとのような言葉は、母親に対するあかねの深い愛情と感謝、そして尊敬と希望を表していたのかもしれない。それは、僕にとって母と娘の燃ゆるような熱い絆を感じさせてくれる瞬間だった。
僕は、あかねのそばにいることしかできなかった。それが彼女の心の支えとなる一番だと期待を抱いていたのかもしれない。黙ったままで、彼女の肩に腕をまわした。
なんと慰めてよいのか、すぐ口にできる言葉が見つからなかった。だからいつまでも涙を流すあかねの頭を優しく撫でていた。
僕にもすずさんに伝えたかったことが山ほどあった。彼女は僕にとっても大切な存在だった。あかねをこんな素敵な女性に育ててくれてありがとう。色んなことがあったけど、僕を家族みたいに迎え入れてくれた。そして僕らの幸せを心から祈ってくれたことに、もっと感謝したかった。
一方で、僕は「ごめんなさい」と言うべきこともたくさんあった。すずさんが病気になってから、もっと会いに行けばよかった。
彼女が苦しんでいるのに、何もしてあげられなかった。僕はもっと早くすずさんに約束したかった。あかねを幸せにするって。彼女の夢を叶えてあげるって……。
すずさんを忘れないように、思い出を大切にすると約束したかった。彼女が死んでしまう前に、もう一度話せなかったことを悔やんでいた。
けれど、それらの言葉は、もう届くことはない。すずさんは月の世界で永遠に眠り続けるだろうから。僕は自分の無力さや後悔や悲しみに苛まれるばかりだった。僕はあかねと一緒に泣き続けるしかなかった。
享年四十二歳。それは野々村すずさん、京都の花街で精いっぱい生き抜いた女性のあまりにも早すぎる突然の死だった。病室の窓から空を眺めると、日の出と同時に、月の姿は見えなくなっていた。
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