春
第49章 秋桜と月下美人
「この花、おかんの忘れ形見や」
あかねは真っ白な花に手を添えながら、声を震わせて言った。母親が亡くなってから、彼女は涙の海に身を投じていた。しかし、四十九日の法要が終わり、春風が心地よく吹き抜ける季節になってから、彼女の心には再び生命の光が灯り始めていた。
すずさんは生け花の名人であり、花をこよなく愛していた。縁側がある中庭には、彼女が愛情を込めて育て上げた花々が咲き誇っていた。
あかねの言葉によれば、毎年春になると、シャクナゲやヤマブキ、ミツマタなど、色とりどりの花が満開になったそうだ。それは、彼女の花街での生き方や美しさを表していたのだろう。
今はその花々の中に、真っ白で可憐なコスモスが春風に揺れて咲いている。その花を見て、僕はすずさんがまだ僕らのそばにいると信じて疑わなかった。
コスモスは一般的には秋に咲く花だが、実は春にも咲くのだ。だから、すずさんが季節を越えて生き続けていると感じた。僕の想いがあかねにも通じたのか、彼女もコスモスの植わっている土をそっと撫でてくれた。
*
今年は不思議な正月だった。すずさんが亡くなったというのに、何枚もの年賀状が届いた。彼女と縁が深かった大勢の人々に訃報を知らせるのが、遅くなったからだ。
まさか、世間では華やかな正月を迎えているというのに、こんなことが起きるとは、あかねも思ってもみなかっただろう。
僕は久しぶりに店先で日向ぼっこを楽しんでいると、顔見知りの郵便配達員さんと出くわした。「野々村さん、手紙ですよ」と一通の封筒を手渡してくれた。
手紙の表書きの宛先を見ると、間違いなく野々村あかねになっていた。僕は裏面も確認した。そこには、差出人として野々村すずと書かれていた。すずさんが亡くなってから、もう二か月が経っていた。
この便りは、何かの間違いだろうか。封筒におされた消印は一昨日とすぐに気づいた。けれど、どこの局名かは滲んでいて明らかではなかった。
僕は、突然途方に暮れて、呆然と立ち尽くした。手紙を持ったまま、気持ちを落ち着かせようとした。しばらくして、あかねの名前を呼ぶことができた。
「あかね、信じられないことがあるんだ。お母さんから手紙が届いたんだよ」
「えっ、ウソやん。だって、おかんはお月さまの世界に逝ったんやさかい」
あかねは驚いて目を見開いた。
僕らは、店に誰もいないことを確かめて、封筒の中身を見た。それは、すずさんの直筆の手紙だった。あかねに聞くと、間違いなく母親の文字だという。けれど、そのとき、あかねの携帯がまた音を鳴らした。
「はい。あかねどす。どなたやん?」
相手は、すずさんが世話になった病院の看護師さんからだった。
「突然にごめんなさい。すずさんの手紙が届きましたか?」
「はい。今さっき受け取ったばかりや」
看護師さんは、すずさんが亡くなる前に書いた手紙のことを教えてくれた。あかねの母親は、病院の庭に咲くコスモスの花に夢をふくらませながら、娘に宛てた手紙を書いたのだという。
コスモスの花は、彼女の一番好きな花だった。すずさんは、病院の入り口にコスモスの花が咲くのを待って、手紙をポストに入れるように頼んでいたそうだ。あかねが春の季節を迎えれば、少しでも元気になってくれることを祈っていたのだろう。
看護師さんは、手紙を隠していたことを申し訳なさそうに謝ってくれた。僕はあかねからその話を聞いて、胸のつかえがとれたように感じた。彼女と手を握りながら、すずさんの書いてくれた「最期のメッセージ」を読み始めた。
あかねちゃんへ
こんな手紙を送ることになって
ごめんな 許してください
もう少し落ち着いてくれたかな
母さんは花街で生きてきた
けど、本当に幸せだったよ
だから、もう泣かないでね
あんたみたいな
可愛くて優しい娘を
神さまから預かって育てられて
生涯にわたり愛し続ける男との
素敵なご縁があったんだから
あんたにはいろいろな
辛いことを言ったこと
本当にごめんね
お茶屋の若旦那のこと
悠斗はんとのこと
でも、そのときは
それがあんたの幸せだと
思っていたんだよ
本当にごめんね
あんたの好きな悠斗はんは
やさしくて誠実な男だよ
もう離さないであげてね
そろそろ、力が尽きそうだから
お月さまの世界に行くけど
どうか幸せになってください
(娘を愛するすずより)
手紙を読み終えたとき、僕は涙がこみ上げてきた。すずさんは、あかねの母親であり、僕の大切な人でもあった。彼女が亡くなったと聞いたとき、僕はショックを受けて、しばらく何も考えられなかった。
すずさんは、僕らの関係に最初は反対していたが、後になり認めてくれた。僕に小間物屋の跡継ぎになってほしいと言ってくれた。彼女は、僕にも優しくしてくれた。
あかねは、手紙を握りしめたまま泣き出した。想いもよらなかった出来事で、胸が締めつけられたのだろうか……。
あかねは、すずさんのひとり娘であり、僕の恋人でもある。母親と仲良く暮らしていたが、病気で倒れてからは、看病することしかできなかった。すずさんが死んだ後も、小間物屋を切り盛りしていた。あかねは、すずさんに似て強くて優しかった。
僕は、あかねを抱きしめて、声を掛けた。
「大丈夫だ。すずさんは、きっとお月さまの世界から見守ってくれてる。僕も一緒にいるから」
「おおきに……悠斗……」
「幸せになろうね。すずさんの願い通りに」
「うん……」
僕は、ひとつだけ疑問を抱いた。すずさんは亡くなる前に、自分の死期を悟っていたのだろうか……。見舞いに行きながら、理解してあげられなかった。それだけが心残りで、胸がえぐられるような想いだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます