第46章 下弦の月


 すずさんの明るい笑顔と元気な声に心が軽くなり、あかねと共に最終電車に飛び乗り、家路についた。僕の心は、彼女に伝えたいことで満ち溢れていた。


 しかし、あかねが先に口を開いた。それは僕たちの間では日常的なことだった。



「悠斗、今夜はうちで一緒に過ごさへん。おかんがおらんさかい、ひとりやと寂しいんや。それに危ないやろ。ほな、行きまひょ」


 あかねは、いつもの無邪気な少女に戻っていた。僕は彼女の手のひらで踊らされているようだった。彼女がそう言い終わると、すぐに疲れからか座席で眠り始めた。

 

 心配していた通り、僕は話す機会を逃してしまった。彼女の揺れる身体を支えながら、すずさんの病気やあかねとの未来について考えるしかなかった。

 しかし、怒りは感じなかった。いつの間にか、そんな生活も悪くないと納得していたのかもしれない。


 彼女の可愛らしい寝顔を見つめながら、微笑みを浮かべ、ひとりで車窓から外の景色を眺めた。秋の夜空には、半分欠けた月がぼんやりと浮かんでいた。


 突然、月の神秘的な姿に、興味を持ったのかもしれない。「月の満ち欠け」とネットで検索してみた。そこには、「朔月」「半月」「下弦の月」などの様々な形が並んでいた。なぜかしら、「下弦の月」という名に目が留まった。

 そして、その説明を読んでみた。それが不吉なことを暗示する月だという言い伝えがあることを、そのとき初めて知った。その言い伝えは、不思議なほど僕の心に重くのしかかった。すずさんの病状は、どうなるのだろう。あかねの舞妓としての夢は、どうなるのだろう。


 僕はこれまで占星術や占い、手相などのスピリチュアル(精神世界)には興味がなかった。けれど、今夜の月を見て、自分の未来に対する不安を感じた。それは、すずさんが心臓の病気で長期入院していることも影響しているのかもしれない。


 僕は彼女の回復を祈りながら、あかねと一緒に暮らすことにした。あかねは母親が大切にしてきた小間物屋を守ろうとしていた。長年愛情を込めて営んできた店を閉めるわけにはいかなかった。


 僕はあかねを全力で支え、できる限り手伝うことを決意した。自分のアパートに戻る必要はなく、バイトや専門学校もあかねの家から通えば問題なかった。僕らの家は同じ京都市内にあったので、必要な荷物だけを持って行けば十分だった。


 一方で、大切な思い出の品だけはそばに置いていた。それは、撮りためた写真のアルバムだ。あかねに見せてあげたかったからだ。その中には、コンテストに応募した「蹴上インクライン」の写真も含まれていた。



 あかねは店の留守番をするために、舞妓の修業は一時休んでいたが、「来春、卒業やさかい頑張る!」と口にしながら、以前と同様に高校には通っていた。僕は彼女の健気さに感心しながらも、ひとつだけ不安が、心に残っていた。

 このままあかねは舞妓になる夢を捨ててしまうのだろうか……。母親からも「卒業」の話を聞いていたが、それだけは彼女にまだ聞くことができなかった。


 あかねを僕だけのものにできるという幸せと、彼女の心の奥底にあるものに触れられないという焦りとが混ざり合い、僕の心はもやもやしていた。


 でも、すずさんには、あかねの晴れ姿を見せてあげたかった。特に「都をどり」などの舞台に上がるところを。いや、違うかもしれない。僕自身がもう一度あかねの晴れ姿を見たかったのかもしれない。 


 しかし、母親が大切にしてきた店のことは依然として悩みの種となっており、あかねから「どないしたら、ええやろう……」と相談を持ち掛けられていた。



 *


 すずさんの突然の発作に気づいて、救急車を呼んでくれたおばさんにもお礼をしなくてはいけなかった。翌日、あかねと一緒に隣の家を訪ねた。 


「都希子はん、ほんまにおおきに」


「あかねちゃん、かまわんて。すずさんとは長年のつきあいやさかい。こないなんせんでも良かったのに……。そやけど、せっかくやさかい貰うとくわ」


 僕らが用意した菓子は、「京都風流堂」の栗きんとんの詰め合わせだ。それは、すずさんも大好きで、お茶菓子によく食べていたものだという。おばさんは、菓子折りに視線を向けて、微笑んで口にした。


「京都で生きるには、昔からの付き合いを大切にせなあかん」と、あかねは母親からずっと教えられて育ったらしい。僕は黙ってふたりのやり取りを聞いていた。


「おかん、しばらく入院なんや」


 あかねが心配そうに言葉をもらした。


「そうやてな。うちも昨日すずさんに会うてきたわ」


 おばさんが優しく答えた。


「うち、昨日はいけなかったんや。おかん、元気やった?」


 あかねがさらに尋ねた。


「ああ、元気そうやった。お医者さんからも褒められたそうや」


 おばさんがそう言って、僕らふたりに目を向けた。担当の医師からも、「思っていたより、順調に回復しているね。この調子なら春には退院できるかもしれない」とすずさんに言われたらしい。それを聞いて、安心した。


 僕は胸を撫で下ろしながら、すずさんの退院の日を思い浮かべていた。


「そうそう、 忘れとったわ。ひとつだけ、頼まれたの」


「おかんから?」


 あかねが驚いたように聞いた。


「そうや。小間物屋のことや。すずさんは、『店のことは心配せんでええさかい』とあんたに言ってほしいって」


 おばさんが、伝えてきた。


 彼女は続けて、「あんたは頑張り過ぎるさかい。そやけど、気になってな。うちなら、暇やさかい、店番ぐらいならしてあげられるのに……」とあかねに提案した。


 ところが、あかねは首を振って断った。母親からの言いつけで、「他人さまの親切には感謝するけど、甘えたらあかん」と習ったという。彼女はまだ高校生なのに、教えられることも多かった。


「おばちゃん、おおきに。そやけど、うちらでなんとかやるさかい。お気持ちだけで十分。悠斗はんがおるさかい」


 あかねが丁寧に答えた。


「そうかい。ならええけど。あかねちゃん、困ったら、なんでも遠慮のう言うてくるとええ。あんたのわがままだったら喜んで聞いたるさかい」


 おばさんが笑顔で口にした。


「ほんまにおおきにな」


 あかねが感謝の言葉を繰り返した。


「ところで、隣の人は? 彼氏がおってん」


 おばさんが僕を指差して聞いた。


「ちゃう。婚約者や」


 あかねが誇らしげに答えた。


「ほんまかいな。すずさんも、知っとるのかい?」


 おばさんは驚きながら尋ねた。


「もちろんや。うちはもう大人やさかい」


 あかねはすぐにうなずいた。


「あれま。ビックリや。いつのまに。でも、優しそうな男でよかったなあ」


 おばさんが僕を見て微笑んだ。



 僕らはおばさんとの会話を終えて、あかねの家に戻った。僕はあかねに「今日はお疲れ様。ありがとう」と言い、彼女を部屋に送り届けた。彼女は「おおきに。おやすみなさい」と言って、ベッドに横たわった。僕は彼女の寝顔を見て、優しくキスをして、自分の部屋に向かった。


 今夜はひとりであかねのことを考える時間が欲しかった。部屋に入り、撮りためた写真のアルバムを開いた。そこには、あかねの可愛らしい魅力的な姿がたくさん写っていた。写真を観ていると、彼女が舞妓になる夢を諦めてしまうのではないかと心配になった。そして、自分の力でその夢を守ることができるのかと悩んだ。


 母親から「あかねを支えるカメラマンになれ」と言われていた。数か月経ったが、僕はまだそのレベルには達していないと感じていた。


 コンテストの結果はまだ発表されておらず、来春になるかもしれない。自分の写真にも満足していなかった。あかねの晴れ姿をもっと美しく、鮮やかに撮りたかった。彼女に自分の写真で、喜んでもらいたかった。


 アルバムを閉じ、ベッドに横たわった。秋の夜風が窓から吹き込み、肌寒さを感じた。目を閉じると、すずさんとの約束が頭に浮かび、心が締め付けられた。


 考えてみれば、あかねの方がずっとしっかりしている。高校生でありながら、母親の店を守ろうとしている。舞妓の修行は休んでいるが、高校卒業まで勉強を頑張ろうとしている。彼女は母親の入院を気にしながらも、いつも明るく振る舞っている。


 東京から京都に来て二年が経つが、自分は何を成し遂げたのだろうか。自分の未熟さや無力さに落ち込んだ。

 

 あかねと出会ってから一年が過ぎたというのに、彼女に何も与えられず、伝えられず、してあげられなかった。僕はただの愚か者だと、自分自身を激しく責めた。


 今夜の僕は、月や小間物屋のこと、そして自分の写真のことに想いを巡らせ、少し敏感になりすぎていたのかもしれない。

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