第42章 最後の願い


 あかねの手を引きながら、病院のナースセンターにようやくたどり着いた。僕たちの姿に気づくと、優しい言葉で看護師さんたちが迎えてくれた。


「ご家族の方ですか? すずさんが首長くして待っています」


「お部屋は606号室。とても、美しい女のひとです。男の医師もビックリしています。プリマドンナと呼ばれています」


「いつも、笑顔で全く手がかからないんですよ。本当に助かってます。私たちには飴ちゃんのお母さんと呼ばれていますけど」


 僕はあかねが面会者名簿にふたりの名前を書いてくれている間、彼女たちの話に黙ったままうなづくしかなかった。病院内で可愛がられているすずさんの微笑ましい姿が思い浮かんだ。


 病室へと足を進めると、どこからともなく懐かしいメロディーが空気を揺らし、僕の耳に優しく触れてきた。それはあかねの母親が一番好きだと言っていた曲を、彼女自身が口ずさんでいたのだ。その曲は、母の手元から離れていく娘を象徴する薄紅色の可憐な花を歌ったものだった。  

 そしてそのメロディーは、まるで甘い香りの花を求めて飛び交う蝶のように、部屋中を優雅に漂っていた。僕たちがそこにいることに気づいたすずさんが、ふたりに向けて話し始めた。


「あら、あんたたち、来てくれたのね。おおきに。うちは今、あの人のこと思い出しとったんやで。あの人と出会うたのは、この曲流行っとった頃やったわ。あの人は、うちにこの曲を歌うてくれたの。うちは、その声に魅了されたの。あの人は、うちの初恋の人やったんやで」


 すずさんは、目を細めて、遠い日の思い出に浸っていた。彼女の声には、懐かしさと切なさと愛しさが混じっていた。僕は、彼女の心の中にある、あの人の姿を見ることができたような気がした。


「おかん、かんにんえ。そやけど、発作は大丈夫なの?」


「もうしょっちゅうのことやさかい。あんたの方こそ……」


「うちは元気や。昨夜は帰らんでほんまにかんにんえ」


「ああ……気にせんでええ。あんたが大人になった証やろ」


「おかんたら……」


 母と娘の間で繰り広げられる会話が静かに続いていた。しかし、母親は僕をも温かく迎え入れてくれた。その顔からは怒りの色ひとつ見えなかった。その陽気さはいったいどこから湧き出てくるのだろうか……。それは僕が立ち入ってはいけない、まさに母と娘ならではのやり取りだった。


 僕はふたりの会話を邪魔しないように、病室の外で看護師さんの話にも耳を傾けていた。彼女によれば、今は起きられるようになったが、母親の心臓の状態は良くないらしい。またいつ発作がくるのか分からないそうだ。


 すずさんは、まだ、四十歳を過ぎたばかりのはずなのに。でも、透き通るような肌で艶やかな黒髪の彼女はとても美しい女性だった。さぞ、あかねと同様に、彼女は若い頃の舞妓姿もあでやかで綺麗だったのだろう……。僕が年配の女性に見惚れているのに、すずさんが気づいたのか、照れ隠しをするように口を開いてきた。


「あんたたちに話したいこと、ぎょうさんあるんよ。まだまだ、死ねんさかい。それまで、閻魔さまは待っといてくれるやろ」


 すずさんはベッドから起き上がろうとして、切ないことを言ってきた。


「おかん、何を言うとるの。まだ無理やろ。そやけど、早う元気になってえな。うちもおんなじさかい。うち、いつまでもおかんの娘でいたいんや」


 あかねの顔を見ると、首を横に振った後、うっすらと涙を浮かべながらうなづいていた。すずさんは僕の方を向いてすぐに声を掛けてくれた。


「悠斗はん、あかねのことよろしゅうな。あんたには厳しいこと言うてかんにんえ」


「お母さん、とんでもない。元気を出してください」


 僕は思わず「お母さん」と呼びかけてしまった。


「この娘にも苦労をかけて、許してな。まだおとうにも会わしとらんし。おかんなあ……あかねに最後のお願いあるんや」


「おかん、最後なんて言わんでや。うち娘やろう。何でも言うて」


「なら連れていって欲しいとこあるんやけど。叶えてくれるんか? あんたやなかったら、出来ひんことなんや」


 僕はふたりのやり取りを聞いて、胸が締め付けられてしまった。すずさんは古い手帳から、一枚の紙きれを渡してきた。そこには、辻井一郎という名前と男の仕事先が書かれていた。彼女が行きたいと言ったのは、「鞍馬の火祭」だった。今年は流行り病のせいか、例年より一か月遅れで開催されるという。


「悠斗はん。あかねとここへ連絡してな、すずが会いたがってると伝えてくれんか」


「わかりました。必ず伝えます」


 僕は真剣な気持ちとなりその紙きれを握りしめた。母親の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。手元にある紙きれも涙で滲んでいた。そこには、熱い想いと儚げな女性の苦悩が見えてきた。気丈夫なすずさんも、これまでずっと苦しんできたのだろうか……。


 そのときから僕の新たな役割が始まった。それはすずさんの最後の願いを叶えるという大切な任務だった。そしてそれは、僕とあかね、そしてすずさんの運命を大きく変えることになるとも知らずに……。僕はふたりが愛する男に、彼女たちをどんなことをしても会わせてやりたくなった。


「ええけど、この男の人、どこの誰なん?」


「あかねのおとうや。かんにんな」


 すずさんの言葉は、深遠な意味を秘めていた。


「あかねに会わしたい思うて、三年前に頼んだんや。そやけど、叶わへんかった。辻井とはいろんなことあったんや。楽しいことも辛いこともなあ……」


 それはすずさんの秘めた過去を明らかにし、あかねの未来を変える可能性を持っていた。一方で、僕は「ボタンの掛け違い」という言葉が頭に浮かんだ。それは、辻井一郎さんがあかねが生まれたときに言った言葉だった。あかねは、辻井さんの本妻の子供ではなく、すずさんという愛人の子だと知って、そう言ったのだ。  

 その悲しい運命が、すずさんと辻井さんとの愛を絶ち切り、あかねが自分の父親を知らないままにしたのだ。その言葉が、彼女たちの運命を狂わせたのだ。  

 本来なら祝福されるべき愛が許されない絆となり、認知もされない娘が生まれ、三人の歯車がずれてしまったのだ。僕は、その過ちをひとときでもどうにかして埋め合わせたかった。


 あの冬の嵐山の渡月橋で、あかねの命を間一髪で救ったのは僕だ。そのことに感謝して、すずさんは僕に現金を渡そうとした。だが、僕は瞬時にそれを断った。お金なんかよりも、あかねの笑顔が見たかった。それだけで、僕は幸せだった。 

 

 でも、見方を変えれば、この運命のいたずらのおかげで僕はあかねと出会えたのかもしれない。僕は、その奇跡に感謝した。母親は最初、僕とあかねの仲を快く思わなかった。僕たちの恋を邪魔しようとさえした。けれど、今ならわかる。それは、すずさんが娘の幸せを一番に考えていたからだ。すずさんはあかねを心から愛していたのだ。そう思うと、僕の目からも涙がこぼれた。


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