第43章 花街の母娘


 母娘と男との再会を心から願っていた。すずさんの瞳には、ひとときでも彼に会いたいという切なさが滲んでいた。彼女の命の砂時計は、もうすぐ途切れてしまうのだろうか……。


 そんな想いに駆られて、僕の胸は苦しく締め付けられた。突然、暗闇に覆われたようになり、僕は動くこともできなかった。


 辻井一郎という名の男とすずさんは、禁断の恋に落ちたのかもしれない。恋愛経験に乏しい青臭い僕が、どうして彼女たちを責めることができるだろうか。

 僕には、彼女たちの心の奥底にあるものが見えない。その恋は世間の目には汚い不倫に映るのかもしれない。けれど、僕には祇園に生まれ育ったすずさんは、美しくて強くて誇り高い女性にしか見えなかった。


「僕はすずさんの知り合いです。彼女が末期ガンで、明日『鞍馬の火祭』にあかねさんと一緒に連れて行く予定となっています。彼女のたっての願いだから、会っていただきたいんです」


 会ったこともない辻井一郎にウソだと知りつつ、電話で僕の想いを全てぶつけてしまった。別に騙そうとしたわけではない。

 そばでは、あかねが寄り添って涙ながらにうなずいていた。辻井というあかねの父親は「少しだけ考えさせてくれ。また連絡するから……」と言って電話を切った。


 連絡を終わったその夜、僕らはもう一度病室を訪ねると、すずさんが申し訳なさそうに迎えてくれた。その姿を改めて見ると、美人薄命の言葉がぴったり当てはまっていた。


 月明かりに照らされて夕方から咲き始め、朝にはしぼんでしまうジャスミンのような、甘く上品な香りの花のように、儚げな美しさが漂っていた。


「あかねには早う話さな思うとったんやけど……」


 彼女はそう言って、僕にも心の中を打ち明けてくれた。ベッドに横たわったまま、これまで言えなかったこと、親子しか分からない話を隠さずに伝えてくれた。

 ただひたすらにひとりの報われない男を愛していたことを知ると、僕はやるせない気持ちになり涙をこらえてしまった。


「おかん、なんでおとんと会わしてくれへんかったんや? 生きとるのやろ。なら会わしてくれてもよいやろう」


 あかねは父親に会いたいと泣き叫んだ。僕にも彼女の気持ちは分かった。


 でも、すずさんは男と別れてから、不倫相手の妻と交わした、「二度と旦那さんとは会わない」という約束を守り続けてきた。あかねが父親と会えなかったのは、それが原因だったのだ。


 ただ一日だけ、あかねは、母親が見知らぬ男性と密会していると思ったことがあった。それは三年前の祇園祭宵山の日だった。男性の妻から連絡が来て、すずさんは急いで出かけたのだ。


 すずさんは、男の妻から届いた封筒を開けた。中には「これが最後の養育費どす。約束を守ってくれておおきに」と書かれたメモと、大きな札束が入っていた。

 奥さまも京都の女性だ。その短く冷たい言葉に、すずさんは男との十年以上の思い出が蘇ってきた。忍ぶ女としてのうらみ、つらみ、やりきれなさ………。彼女は複雑な想いに苛まれたのだろう。女手ひとつであかねを育ててきたのに、色々と苦労したこともあったはずだ。


 それでもすずさんは奥さまに感謝の言葉を伝えた。「長いあいさ、ほんまに奥様おおきにどした」と電話で言ったそうだ。その奥ゆかしい心意気に、僕は驚いた。彼女は男の仕事先に初めて連絡を入れたのだ。電話で男と交わした最後の言葉もはっきりと覚えているそうだ。

 


 彼女は男に電話をかけた。声を震わせながら、最後のお願いをした。


「ご無沙汰しとります。すずどす。あんたにひとつだけお願いがあるんや。うちが愛したのはあんただけどす。あかねがもうすぐ高校生になる。最後のお願いどす。奥様に内緒で会うていただきたいんどす。あんたとのこと、死ぬまで思い出として持って行くさかい。夜八時に、花火の時とおんなじ服を着て行くさかい」


 それは、ひとりの女性としてのすずさん、そしてあかねの母親としての深い情感が交錯する瞬間だった。彼女は一気に長年抱えてきた想いを言葉に紡ぎ出した。

 その夜、彼女は男と交わした契りを思い出したのだろうか。それはすずさんが母親というより、女としての正直な言葉だったのかもしれない。

 一方では、すずさんの愛情と苦悩、あかねの父親への憧れと不満、そしてふたりの絆と別れを感じさせてくれた。もうどうして良いのか分からないほど、僕は心を揺さぶられていた。


 男は黙って聞いていたそうだ。最後に低く太い声で短い言葉を返してくれた。「わかった。すずさん、おおきに……」


「そやけど、あかねの父親は立派な男や。うちは後悔やらしとらん」


 すずさんは男とのやり取りを伝え終えると、僕らの前でそう言い切った。僕にはなぜ、祇園で生きながら一途な恋におちた彼女を裏切り、子供を捨てた男なのにそう言えるのか知りえなかったけれど……。


 しかし、あかねの父親は京都で創業三百年を誇る老舗の若旦那だ。すずさんが自慢げに教えてくれたことは紛れもない事実だった。彼女はあかねと僕の顔を見つめながら、当時のやり取りすべてを話してくれた。



 あかねは母親が父親に会わせてくれようとしていたことに驚いた。「おかん、かんにんな」と泣きながら抱きついた。母親の言葉に耳を傾けて、彼女は初めてそのことに気づいたのだ。それなのに、かつて彼女は母親が見知らぬ男性と密会していると勘違いしていた。その日は三年前の祇園祭宵山の日だった。


 今この場ですずさんからことの真相を初めて聞いたらしく、涙を浮かべながら「うちがいけへんかった」と謝った。あかねの顔を見ると、胸が痛んだ。彼女は母親のことをどれだけ愛しているのだろう。

 ふたりの熱い想いを感じ取り、僕はあかねに何も言ってやれなかった。ただ、そっと手を握って、優しく微笑んでみせた。


「ちゃうの、誰悪うわけでもあらしまへん。これが、花街で生きる女の定めやさかい。あかねなら分かってくれるやろ。そやけど、あんたはそろそろ卒業したらええ」


 すずさんは怒らずに、「卒業」という言葉を残して、彼女の手を強く握りしめていた。あかねにはその言葉の重みが分かったのだろうか……。すずさんはあかねに花街の世界から離れることを勧めたのだ。彼女はあかねに自分と同じ運命を辿らせたくなかったのだろう。


 彼女は四十歳を過ぎているが、大人の女性として艶やかで美しい。僕はこんな女性と出会ったのは初めてだった。優雅で気品がある美しさは少しも衰えていない。

 それは、見た目だけではなく、折れそうで折れないたおやかな女性という印象をずっと持っていた。その美しさは、世間知らずで若造の僕からしても驚くばかりだった。



 彼女はもう目を開けなかった。あかねがなんども、「おかん、おかん」と泣きながら揺さぶっても、すずさんは深い眠りに落ちたままだった。息はまだあったが、とても弱々しかった。

 それとも、やっと心の重荷が下りて、安らかになったのだろうか。そんな姿を見ていると、母娘の人生が目に浮かんでくる。花街で生き抜いてきた彼女たちは、どんな幸せと苦しみを味わったのだろうか。僕は敬服する気持ちでいっぱいだった。


 すずさんは女性としても、母親としても、強く美しくあり続けた。ひとりの男を愛し続けていた。細くて切れやすい赤い糸で結ばれても、自慢の愛娘を別れた父親に会わせたかったことを知り、そこに京都の女性としての熱い想いと儚さを感じさせてくれた。


 母と娘のふたつの顔は、時にぶつかり合いながらも、誰にも言えない複雑な歩みをしていた。あかねは高校生でありながら、命がけで舞妓の見習いを続けてきた。その姿には、母娘ならではの愛の絆が感じられた。

 僕は、京都の花街でそんな彼女たちと縁が結べたことに感謝の気持ちとなり、涙が止まらなかった。


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