二回目の冬

第44章 鞍馬の火祭


「ご家族さま、担当の医師がお待ちです」


 静かな病室で、すずさんの息遣いが眠りに落ちていくのを見届けた後、看護師さんがやさしく声をかけてくれた。母親の安眠を邪魔しないようにとの配慮だった。

 その時、静寂を破るように僕の携帯電話が鳴った。電話の主は、僕が先ほど話した男性だった。

 すずさんからの約束を思い出して、医師のところにはあかねにひとりで行ってもらうことにした。僕の言葉に不安が浮かんだあかねの顔は、僕の心の迷いを映していたが、他に選択肢はなかった。



 電話の向こうの声は、堅苦しいが丁寧な言葉で話す辻井一郎さんだった。


「昼間は無理だが、夜なら大丈夫です」


 すずさんとあかねに伝えてほしいとのことだった。電話が切れると、僕はほっと息をついた。そして、眠っているすずさんにささやいた。


「お母さん、あなたの願いが叶いそうですよ」


 急いであかねと医師のところに戻った。医師からは、長期の入院が必要だという話を聞いた。


 僕はすずさんの願いを伝えた。「鞍馬の火祭り」を見たいという彼女の切なる願いだった。医師は一瞬眉をひそめたが、すずさんの気持ちを理解してくれた。車椅子を使って、無理をしないようにという注意を受けた上で、許可を出してくれた。


 あかねと僕は安堵の笑みを浮かべた。医師の了承を得てからは、京都の秋の夜空を照らす伝統の祭り、京都三大奇祭のひとつである火祭りの歴史について調べた。今年は例年よりも一ヶ月遅れで開催されるという珍しい事態だった。


 火祭りの起源は、平安京の御所に祀られていた神様が、鞍馬山の麓に移されたことに由来する。その際に、鴨川沿いに松明を灯して道を照らした行列に感動した鞍馬の人々が、その神事を再現するようになったという。


 僕は、すずさんの決意がどれほど強いかを知るにつれて、心が揺さぶられた。しかし、祭りには単なる興味ではなく、深い想いがあるのではないかとも疑問を覚えた。それは、彼女の夢に共感したいという気持ちだった。


 *


 火祭りの夜がやってきた。祭りは18時頃から始まり、暗闇の中に赤い炎が揺らめく。天狗で有名な神秘の鞍馬の山々に響く太鼓の音が、心を高鳴らせる。 


 どこからともなく、「神事にまいらっしゃれ……」という勇ましい掛け声が乱れ飛ぶ。集落の各戸に積まれたかがりびや松明に火が灯され、一瞬にして、幻想的な景色が広がる。その場には大勢の人々が集まっている。


 僕たちはすずさんを車椅子に乗せて、灯りと太鼓の響きに包まれた神秘的な鞍馬の山々の中に分け入っていった。目の前に広がる壮観な光の海の中で、ひとりの男性を見つけるのは困難なことかもしれない。

 しかし、辻井さんに会うことへの期待感が僕を高揚させた。一郎さんは、どんな男なのだろうか。そう思うとなぜだかワクワクしてきた。

 

 僕はあかねの手を握りしめて、すずさんの顔色をうかがった。とても、穏やかな笑みを浮かべており、元気そうだ。僕はすずさんに尋ねていく。


「お母さん、なぜこの火祭りを選んだんですか?」


 彼女は一瞬、言葉を詰まらせた。でも、思い出したように答えてくれた。


「そら……初恋の相手やさかい。男からこの夜祭で声を掛けられたの。素敵な人やったさかい、しゃあないやろう」


 すずさんは年配の女性とは思えないほど、初々しく微笑んでいた。その笑顔はまるで、春を呼び込む花(コスモス)のごとく、純粋で、清らかだった。

 彼女の照れたような笑顔は、優しさと温かさを感じさせ、見ているだけで心が満たされた。あかねも微笑んで、母親に言葉を掛けてきた。


「それ、おかんの熱い初恋の想い出やろう。初めて聞いた。素敵やなあ……。もっと聞かしてえな」


「ううん。もうええやろ」


 母親は、軽く肩をすくめてみせた。それは、娘と母ならではのやり取りだったのかもしれない。僕は、ふたりの微笑ましい姿を見て胸が熱くなった。


 祭りの子どもたちは松明たいまつを握りしめ、大人たちは松明を高く掲げて、「サイレイヤ、サイリョウ……」という力強い掛け声と共に集落内を練り歩く。その掛け声は夜空に響き渡り、神秘的な雰囲気を醸し出す。

 人々は松明の揺らめく光を頼りにして、山道を上り始める。その先には、森の木々や澄んだ空気に包まれた神社が待っている。僕らも彼らの後を追いかけていく。


 神社に到着すると、「そりゃあ!」という掛け声とともに、一斉に松明が空へ投げられる。炎が一気に高く舞い上がり、暗闇を焦がすような赤さで染め上げる。その光景は壮観で、人々は神々の存在を感じ取りながら歓声を上げる。これこそが、この村に1000年以上前から伝わる「鞍馬の火祭」なのだ。 

 

 目の前で繰り広げられる火祭りは圧倒的な迫力となり、心臓が高鳴っている。炎の暖かさや明るさを肌で感じる。その熱さや彩りは、僕の感覚を刺激する。


 祭りは次第に松明から神輿みこしの儀式へと移り変わっていく。神輿の上には鎧武者が堂々と立ち、その後ろには綱がついている。坂や石段から、神輿が急に下りないように、町の乙女たちが大勢で力強く綱を引く。

 そうすることで安産の願いが叶うという、古来から伝わる言い伝えがあるそうだ。その言い伝えに導かれたのか、多くの若い女性たちが綱を引く。


 あかねは、「うちもやりたい」と子供のような無邪気さではしゃぐ。すずさんは、「あんたもやったら」と優しくけしかける。僕は母と娘の仲睦まじさに心が温まり、微笑みながらうなづいた。


 祭りは夜更けまで続き、人々の歓声や笑顔が絶えることはないらしい。翌朝、神輿が神社に戻る「還幸祭かんこうさい」が行われ、祭りは静かに終わりを告げるそうだ。けれど、僕らには最後まで観ている時間は許されなかった。


 けれど、この古来から続く伝統的な火祭りに参加できたこと自体が、僕に深い感動と喜びをもたらした。その一瞬一瞬が僕の心に深く刻まれ、忘れられない思い出となった。


 それはまるで時間を超えて語り継がれる壮大な物語の一部に触れたような感覚だった。この経験は、僕の心のアルバムに深く残り、これからの人生にきっと大きな影響を与えることだろう。


 時計を見上げると、約束の七時が迫ってきていた。僕はすずさんが待ち焦がれる辻井さんに連絡する準備を始めた。

 

 その一方で、心の中にはすずさんとあかねが無邪気にたわむれる笑顔が心地よい余韻を残していた。


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