第41章 秋桜の涙
僕たちはあかねの母親、すずさんに会うために病院へと向かった。病院は京都の大文字山のふもとにあって、周囲は静かで落ち着いた雰囲気だった。空気は清々しく、時間がゆっくりと流れているように感じた。
病院の庭からは、大文字山(
京都はまさに日本の宝だ。室町時代に「応仁の乱」が起きた歴史の舞台だった。そして、昭和の戦火を生き抜いた建築物や仏像、庶民の暮らしを伝える町家が今でも残っている。そんな京都は、時代を超えて日本の文化の中心地として輝いてきた。
京都の切なくも儚い美しさは、日本ならではの伝統や精神の鏡のようだ。その鏡に映る姿は、昔から日本人の心の深層に見られる美意識かもしれない。この古都を訪れる人々の多くは、時の流れに触れて深い郷愁を感じるのだろう。
京都は四季折々に美しい姿を見せて、楽しませてくれる。春には鴨川の水面に桜の
それぞれに四季を通じて京都ならではの味わいがあり、心地よい風景がたくさん残っている。そこには昔から変わらない粋な風情が感じられる。
しかし、今日は特別なひとときだった。京都の魅力はなんと言っても、秋から冬へのうつろう景色だろうか……。
空にはひらひらと紅葉が舞って、足元には遅咲きの恋を象徴するかのような、薄紅色の花々が静かに咲き誇っていた。それは秋の香りに覆われるコスモスの花だった。僕らの知らないところで、京都らしい花は少しずつ鮮やかさを増していたのだろう。
そして今日、空に舞う紅葉と足元で咲く、乙女のような花を見て、その美しさに心を奪われた。それはただの風景ではなかった。季節のうつろいと新しい生命の息吹を感じさせてくれた。
目の前で秋風が寂しくもの悲しい気持ちを運んで、僕たちに京都の厳しい季節の訪れを告げてくる。あかねは、風に吹かれて散った花びらの儚さに目が留まったのか、涙を浮かべて寂しそうにつぶやいた。
「これ、秋のさくらや。ほんまに綺麗な花やなあ。来春も咲いてくれるやろか」
「あかね、急にどうしたの?」
「ううん、何でもあらへん。ただ、涙が止まらへんで」
元々のあかねは活発でやや軽はずみなところがある無邪気な娘だった。でも、今日の彼女は違っていた。彼女の意外な一面を見た気がする。母親の病気に何かを感じ取り、いつにも増して感覚が研ぎ澄まされていたのかもしれない。
けれど、あかねの言葉のとおり、薄紅色の花びらが風にそよぐ姿は可憐でありながら、そこには迫り来る厳しい季節を予感させるような哀愁も感じられた。
一年に二度咲くと言われるコスモスは、また春になれば、僕らにも可憐な美しい花びらを見せてくれるのだろうか……。
僕たちは自然の美しさを前にして、自分たちの小さな存在や儚い命を感じていたに違いない。すずさんの病気やあかねの涙が、僕にそう思わせたのだ。僕はあかねと病院の庭で少しだけ時を刻んでいた。僕たちには、余計な言葉は必要なかった。ただ手をつないで、花びらの舞う風景を静かに眺めていた。
あかねは秋の小春日和の中で、物憂げな顔で儚く散る花びらを名残り惜しそうに見つめていた。きっと、彼女はすずさんのことを心配していたのだろう。僕の胸は熱くなり、彼女に寄り添い、慰めてあげたかった。
そうした明日をも知れない景色なのに、五感に響く自然の力強い息吹が、僕たちに必要な音色を告げているようだった。涙を浮かべるあかねと秋の複雑な色彩が、一枚のキャンバスに描かれたようだった。その移り変わる景色は、僕の心に深く刻まれ、忘れられない思い出となった。あかねは、またひとり言のようにつぶやいた。
「うちはうちなりに生きていくさかい。そやけど、もう少しだけでも、おかんの娘でいさせとぉくれやす。待っとってな」
彼女の瞳には苦しそうな涙が溢れていた。思い出をたどりながら、母親とふたりで過ごした日々を心に描いていたのかもしれない。
あかねは母親のことをよく話してくれたからだ。その涙は、彼女の過ぎ去った日々に対する切ない想いと、未来への切実な願いが交錯するしずく珠のようだった。
彼女は以前に話してくれた、縁側で母親と線香花火をした幼き日々を思い出したのだろうか……。僕と同じ花火をした日の夜、彼女は涙ながらに、何度も同じ話を繰り返した。
今日のあかねの口元には、そのときの面影が浮かんでいたからだ。僕は彼女の手を握りしめ、優しく声をかけた。
「あかね、大丈夫。お母さんはあかねのことをずっと見守ってくれてるよ。あかねはお母さんの誇りやろ」
僕は、そっと彼女を抱き寄せた。彼女は僕の胸に顔を埋めて、小さくうなずいた。彼女の髪にキスをして、彼女の温もりを感じた。僕たちはしばらくそうして抱き合っていた。この瞬間を永遠にしたかった。この瞬間を愛して忘れないと誓った。
明日嫁ぐかもしれないあかねは、どんなに苦労はしても、母を心配しているのだろう。彼女は母親の病室に行く前に、僕にそう言っていたからだ。僕はあかねに「きっと近いうちに笑顔で過ごせる時が来るよ。心配することは何もないよ」と言ってやりたかった。でも、僕はそれが本当かどうかわからなかった。
あかねが見つめる薄紅色に染まるキャンバスに、彼女自身が何を感じ、何を思うのか、僕には窺い知れなかった。その不可解さに、僕は自分自身の無力さを痛く感じていた。あかねの寂しさを感じて、あかねの幸せを願って歩いた。
今日のひとこまからさかのぼり、彼女と初めて出会った日々を思い起こした。それはまるで、遠い昔のようでもあり、昨日のことのようでもあった。それぞれのひとこまが、この瞬間に結びついている。それが僕たちの物語であり、運命だった。
コスモスの花は、風に揺られて、ひらひらと散ってゆく。その花びらがあかねの頬を伝う涙と同じ色に見える。僕は「大丈夫だよ」と、言葉にしなくても伝わるように彼女の手を握りしめた。あかねは、無言のまま「きっとそうだよね」と僕の手を握り返してきた。僕たちは、言葉よりも心で通じ合っていた。
コスモスが春になれば、再び咲くことを心に誓いながら、僕たちは歩き続けた。この別れが最後にならないことを祈りながら、歩き続けた。コスモスや菊などの晩秋に咲く花を横目にして、僕たちは急ぎ足でナースセンターへと向かった。あかねの母親に会いに行った。僕たちは、あかねの母親に別れを告げに行った。
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