第22章 初めてのデート
夜半の夏、涼やかにひと晩だけ咲く月見草は、咲き始めると真っ白で、朝になると淡いピンク色に染まる。その儚さから、「ほのかな恋」を象徴するとされ、宵待草という名前がつけられている。
そんな季節を迎えると、あかねとの約束の日がやってきた。彼女は今日の午前中に退院することになっていた。僕はこの日をずっと楽しみにしていた。初デートの場所をどこにしようか……。
南禅寺の水路閣にも興味があったけど、詩織が勧めてくれた「
そんなことを考えながら、京都の観光スポットを紹介するスマホのアプリを何度も見たり消したりした。迷った末に、清々しい森に囲まれた「下鴨神社(
京都には千年以上の歴史があり、そこかしこに不思議な言い伝えがあった。ご多分に漏れず、この下鴨神社にも不思議な謎が残されていた。知れば知るほど、面白くなっていく。その謎は、京都市左京区に伝わる「鴨の七不思議」とも呼ばれていた。
❶.連理の賢木/❷.なんでも柊(ひいらぎ)/❸.
あかねと一緒に、境内にある案内の立札を探しながら、ひとつずつ謎を解きたくなってしまった。それは、ふたりにとって、初めてのデートであり、鎮守の森の謎を解き明かす冒険となる「ナゾアド」といっても良いだろう。
さっそく車を駐車場に停めて、カメラを肩にかけた。出町柳駅からほど近いところにある大鳥居の前で、あかねが来るのを待った。高さは約12メートルあり、京都市内では最大級の鳥居だと言われていた。神社に近づくと、なぜかしら、五感まで研ぎ澄まされてくる気がした。
風に吹かれて漂ってくる香りがとても心地よい。目を凝らすと、鼻先に
本当に彼女は現れるのだろうか……。少しだけ心配になってしまう。
約束は午後二時、まだ余裕があった。京都市内は、道路(筋)が東西南北で交叉しており、碁盤の目のごとく走っている。目をキョロキョロさせながら、何気なく通り過ぎる車を追っていた。
このあたりは幼子がまりつき遊びをしながら歌う〝 京の手まり歌 〟で「まるたけえびすに、おしおいけ、あねさんろっかく、たこにしき~」と親しまれるところとなる。土曜日ということもあり、人通りは多く、観光客らしき人々が神社の境内に吸い込まれていた。
ああ……。心地よい。爽やかな季節だ。奥の方まで見渡すと、詩織さんの説明のとおり静寂で身を清められるような「
僕は目と鼻の先にある立て看板に目が留まった。そこには、この森についての説明が記されていた。あかねが来るまで時間があったので読んでいく。
「糺の神」は、下鴨神社の主祭神で、人々の罪や穢れを正すという意味があるという。この森は下鴨神社の境内に広がる広大な自然林で、国の史跡に指定されていた。紀元前の植生が残っており、樹齢600年以上の樹木が多くあるそうだ。四季を通じて美しい景色を見せてくれるらしい。
『源氏物語』や『枕草子』などの古典文学にも登場する歴史ある森で、神秘的な雰囲気に包まれていた。『源氏物語』の須磨の巻では、光源氏が下鴨神社をあとにして拝して詠んだ歌に、「憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ 名をば糺の神にまかせて」とあり、下鴨神社の摂社の祭神である糺の神が詠まれていた。
僕はこれを読んで、当時から神の宿る森として扱われていたことが想像できた。これまで昔の随筆などには関心がなかったが、思わず神聖な雰囲気を感じ、深呼吸してしまう。柔らかなそよ風と共に小鳥たちのさえずりが耳もとをかすめてゆく。
神社の空はすっかり晴れ渡り、絶好のデート日和だ。縁結び・健康祈願で京都一の霊験豊かな名所と知り、彼女の傷ついた心を癒してあげたかった。
「悠斗はん、お待たせしてかんにんえ」
その声は、浴衣姿のあかねだ。黒塗りのハイヤーが目の前に止まり、車から少女が下りてくる。そのおちょぼ口から、可愛い挨拶がされてきた。
京下駄をカランコロンとうち鳴らして、ちょこまかと小股で近づく姿が愛おしくなった。もう、歩けるようだ。思わず、目頭が熱くなっていた。
こんなに綺麗な女性だったのか………。僕は改めて見惚れてしまう。真っ白な透き通る肌、薄化粧の顔には傷あとが残っていない。しかも、あふれるばかりのほほ笑みがある。淡紫色の朝顔の浴衣もよく似合っている。
目を合わせて、もう一度、「許しとぉくれやす」と言ってくれる。その京都弁の心地よい余韻が僕の琴線に触れたのか、照れくさくなり、目を逸らすしかなかった。
待っていたかのような優しいそよぎを感じて、黒髪を束ねる赤いリボンがたなびく少女に目が留まった。ところが、あかねひとりでは来ていなかった。付き添うのは眉間にシワを寄せる母親である。
「ここで先に帰るけど、後は任せるさかい。約束守っておくれやす」
彼女は心配げにひと言だけ残して去ってゆく。ひとりとなったあかねは、ほのかな木漏れ日に照らされ一層輝いて見えた。母親の姿がなくなると、さらに華やかな香りを漂わせながら自分の傍まで駆け寄ってきた。思わず、心配して声をかけてしまう。
「もう、大丈夫なのか? 」
僕はあかねの可愛らしい手を握って、優しく尋ねた。彼女は僕の目を見つめて、にっこりと笑った。
「うん、もう平気や。足のリハビリも優等生ってほめられたさかい。悠斗はんと一刻も早う会いとうて……。偉いやろう」
彼女はそう言って、僕の腕にしがみついた。彼女の体温が伝わってきて、僕の胸が高鳴った。彼女は僕にとって、特別な存在だった。彼女の笑顔を見るたびに、心がほっこりした。
「じゃあ、行こうか。下鴨神社の鴨の七不思議を探しに」
僕はそう言って、彼女を連れて、大鳥居をくぐった。神社の境内は、緑に溢れており、清々しい空気が流れていた。僕たちは、ふたりで手を繋いで、鎮守の森の謎に挑んだ。それは、僕たちにとって、忘れられない初めてのデートになった。
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