第10章 待ち続ける日々
まどろみの光の中で、僕は、ただぼんやりと夢追人として時を刻む音に身動きできない自分をゆだねた。不安と希望の狭間で時間を待ち続ける。
それはあたかも、日々がひとつの時間旅行であるかのようだ。過去と未来の間で揺れ動く、僕の心の旅だった。
朝の光が病室にそっと差し込む。しかし、僕の視界に映るのは、あかねの儚げな姿ばかりだ。僕はいったい、どこを彷徨っているのだろうか……。
窓が少し開いていたのか、そよ風とともにバッハの「G線上のアリア」が流れてきた。僕の大好きな曲だ。傷ついた心に染み入るような美しいメロディだった。
好きな曲を聴いていると、心なしか日差しが暖かく感じてくる。京都にも、春が近づいているのだろうか……。
「こんな怪我で良かった。一歩間違えれば死んでいたかもしれない。この調子なら手術は必要ないだろう。自然の治癒力に任せてみよう。でも、一ヶ月ぐらいは入院しないといけないね」
そんな医師の声で目が覚めた。午前中の回診が始まっていた。いったい何時間ベッドで寝ていたのだろうか。疑問ばかりが脳裏に湧いてくる。
「先生、一ヶ月もですか?」
今日、手術だと聞いていたが、レントゲンの結果で手術は回避できそうだった。でも、一ヶ月も寝たきりなんて、信じられない気持ちがこみ上げてきた。
「命が助かっただけでも感謝しなさい。動くと悪化するから、じっとしておきなさい。ギブスをつければ二週間ぐらいで歩けるようになるから、もう少しの辛抱だよ」
年配の医師はそう冷たく言い放って姿を消した。ああ……、退屈だ。時間が余ってしまった。健康な時には感じなかった想いに苛まれていた。僕は身動きも出来ずに、煙草も吸えなかった。もちろん、それはわがままだとは分かっていた。
僕は病人なのだ。考えることは、ただひとつ、あの少女が気になっていた。弱々しく、今にも折れてしまう露草のような女の子だ。つぶらな瞳と透き通るような肌の白さ、あの面影は忘れられなかった。
彼女は元気になっているのだろうか。そう祈らざるを得ない。でも、なぜ、あのようなところから飛び降りたのか……。何か、理由があるのだろうか。
「神崎はんの部屋は、ここでっしゃろか?」
三分がゆなんて、食べたくないと思いながら、昼食を済ませた。すると、部屋の外から騒がしい声が聞こえてきた。扉が開いて、年配の和服姿の女性が入ってきた。つややかな肌としなやかな立ち振る舞いが目を引いた。彼女は僕に向かって、柔らかい京都弁で話しかけた。
「あかねの母親の野々村すずどす。お礼の言葉も見つからへんくらい感謝しとるさかい。ほんまにおおきに」
両手を自分の膝に付けて、僕の顔を見上げてくる。すずさんは、昔から花街に伝わる京言葉を口にしてきた。それは、あかねの可愛らしい言葉とも異なっていた。
「やめてください。娘さんのご容態はどうなんですか?」
気になることを尋ねてみた。
「はい、心配してくれておおきに。両足や胸の骨がぎょうさん折れとって……。おつむを強う打ったらしゅうの。そやけど、先生が命は助かると言うてくれたさかい。そないなんより、あんさんを怪我をさせてもうてかんにんえ」
母親は涙をいっぱい溜めて、頭を下げてきた。命は大丈夫だと言われたらしい。それよりも、突発性の記憶喪失になることを心配していた。
生きてくれてるんだ……。
突然、胸に熱いものがこみ上げ、涙があふれてしまった。会話が一旦途切れたが、奥ゆかしい母親はさらに口を開いてくる。
「あかんのは、うちなんどす。あかねから優斗はんのことを聞きました。あの子が不幸で仕方あらしまへんでした。生きとってくれるだけで……。あんさんかんにんな。改めてご挨拶するさかい、許しとぉくれやす」
あかねは僕と会って、母親の前でこの上ない笑みを浮かべていたという。それは、彼女なりの精一杯の抵抗だったのだろうか……。そう言い終えると、改めて幸子は頭を下げ病室から去っていった。
幸子が立ち去った後、僕はしばらく呆然としていた。母親と話したことで、あかねのことをもっと知りたくなった。彼女はどんな家庭に育ったのだろう。どんな夢や希望を持っていたのだろう。「お茶屋の若旦那」の話は聞いたが、どうなったのだろうか。それが、彼女が身投げするほど追い詰められた理由と関係があるのだろうか。
あかねへの想いが、自分でもわからなくなっていた。彼女を救ったとき、彼女の鼓動とぬくもりを感じたとき、彼女の笑顔を見たとき、心に何かが響いた。それは同情や友情を超えた、もっと深くて強い何かだった。それは、もしかしたら愛だったのかもしれない。
あかねに早く会いたかった。もっと話して、自分の気持ちを伝えたかった。でも、それは叶うのだろうか。あかねは僕のことを覚えているだろうか。彼女が記憶を失ってしまったら、どうしたらいいのだろう。
不安が僕の心を蝕んでいた。だけど、希望も捨てなかった。あかねが生きているなら、何とかなると信じていた。元気になってくれさえすれば、僕を受け入れてくれるだろう。あかねと再会する日を信じていた。でも、その日は遠い未来のように感じられた。
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