第4章 舞妓の心の闇
僕らのやり取りは幸運にも途切れることなく続いていた。先斗町のお社には縁結びの神様がいるのだろうか。ふたりのことを見守ってくれているのだろうか……。
「悠斗さん……」
あかねは、僕の手を握りしめて、小さくうなずいた。
「何か悩んでるんだろう。なんでも話してくれたら、聞いてあげるよ」
「迷惑かけるだけやろう。ほんまに言うてええの?」
「うん ……。気持ちを吐き出したら、楽になるよ」
あかねは、何かに苦しんでいるのだろう。僕には、人の心を救うことなんてできないけれど、できるだけ彼女の傍にいてあげたかった。
僕も弱い人間だったのかもしれない。自分に甘えて、嫌なことから逃げ出したくなる。ひとりじゃ答えなんて、見つけられないだろう。彼女は少し迷ったようだったが、言葉にしてくれた。
「うち、もうすぐ舞妓さんやめなあかんのやす。それがうちの運命なんよ」
僕はその言葉に心をかき乱された。なぜやめると言うのだ。彼女はどんな苦しみを抱えて、舞妓の道を歩んできたのだろうか。
「もうええの。どうせ成人になったら、運命の日がやってくるんや」
それはあかねのぽつりと口にするつぶやきだった。その声には、冷めた投げやりな気持ちが滲んでいた。
「運命の日って、何のこと?」
僕は黙っていられず、問いただした。
「そら……誰にも言えへんことや。まして、
悠斗はんには関係あらへんことやろ。うちとは別世界に生きてる人やさかい。おかんに怒られてしまうわ」
「そんなことないよ。なんでも話してくれていいから」
僕はあかねの涙を見て、心配した。
「おかんに決められた道や」
「そんなの納得できないよ」
「ううん、仕方ないんや。泣かへんわ」
「けど、理解できないよ」
「なんでなら、見習いでも舞妓ちゃんになれて夢叶うたんや。最後に悠斗はんと出会えて奇跡やったさかい」
あかねの切なくも美しい叫びに、僕は言葉を失った。彼女はどんな運命に縛られているのだろうか。そして、僕に何かを伝えたいのだろうか……。
あかねは足元に目を落とし、涙を流しながらつぶやいた。その声は、悲しみと切なさで震えていた。僕も彼女の気持ちに触れて涙がこみ上げた。
彼女ははっきりとは言わなかったが、あかねの人生には暗い影が落ちていることが分かった。彼女の運命は、母親の知り合いである「お茶屋の若旦那」と呼ばれる嫌な男に委ねられていたのだ。
男はあかねが十八歳になったら、身請けすると豪語しているらしい。彼は母親が勝手に決めた婚約者だ。でも、あかねにとっては見知らぬ男だった。しかも、既婚者かもしれないという。
僕は、花街にはかつて信じられないような風習があったと聞いていた。お茶屋の若旦那というのは、舞妓や芸妓の支援者のことで、彼らは花街で生きる女性に対して、自分の思い通りになるように仕向けていた。
たとえば、恋愛や結婚をすることを許さなかったり、身請けという儀式を強制したりした。身請けとは、舞妓が大人になった時に、お茶屋の若旦那に初めての夜を捧げることだった。
これは花街の悪しき習慣であり、身請けられた女性は彼に愛人として一生つき従わなければならなかった。
僕はその話を聞いて、胸が痛んだ。
好きな人がいても、一緒になれないとしたら、どれほど辛いだろう。自分の身体を守りたくても、他人に差し出さなければならないとしたら、どれほど悲しいだろう。僕はそんな運命に縛られた彼女たちに同情した。
でも、今ではそんな汚い習慣は廃止されたと知っていた。舞妓や芸妓は自由に恋愛や結婚ができるようになったと聞いていた。
彼女は、僕の手を強く握った。
「悠斗はん……。おおきに」
彼女の言葉に、また涙がこみ上げてきた。僕は何もしてあげられなかったが、彼女の手だけは離さずに、感謝の言葉を述べた。
「あかねさん……。ありがとう」
その言葉に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「おにいさん……。最後にひとつだけお願いがあんねん」
あかねは僕のことを「おにいさん」と呼んでくれた。彼女はひとりっこだった。ずっと寂しかったという。そして、カメラを指さした。
「もういっぺん、写真を撮ってくれへんか」
彼女の頼みに応えて、僕はすぐにカメラを構えた。
「もちろんだよ」
シャッターを切る瞬間、カシャッという音が響いた。ついさっき会ったばかりのあかねと、その瞬間の静寂と緊張感を共有しながらうなずいていた。
しかし、それだけでは物足りなかった。もっとあかねと一緒にいたかった。もっとその声を聞きたかった。三脚を取り出して自動シャッターをセットし、彼女の手を引いてふたりでカメラの前に立った。
「あかねさん、近づいて笑って」
僕はあかねの肩に腕を回し、彼女は僕の胸に頭を寄せた。彼女は僕のまなざしを見つめて、幸せそうに微笑んだ。カシャッ、シャッターの音が鳴り響いた。
その瞬間、雪が降り始めた。白い粉雪が舞い降りて、ふたりの頭や肩に積もった。なぜかしら、僕は縁結びの神様から祝福されているような気がした。お互いにカメラから目を離して、見つめ合った。
あかねの頬は寒さで赤くなっていた。僕は手に感じる温もりを彼女に分け与えようとして、彼女の手を握った。そして、指先であかねの唇にそっと触れた。その感触は桜の花びらのように優しく、胸が揺さぶられた。もう一度、お互いの存在を感じ合いながらうなずいていた。
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