第5章 風花に消えた恋


 あかねも、まだ僕と別れるのが辛かったのだろうか……。ふと思い出したように、懐からお守り袋に入った五円玉の穴に赤い紡ぎ糸が結ばれたものをふたつ取り出した。そのひとつを僕に差し出してくれた。


「こうやって、氏神さまの棲む天に向かって投げるんや」と彼女は言った。その言葉を伝えるとき、彼女の瞳は空に向かってきらきらと輝いていた。それは、恋人たちが運命を占うコイントスのようなものだった。


 彼女はその五円玉を空に向かって放り投げるポーズを取った。その瞬間、彼女の顔には無邪気な笑顔が広がった。その笑顔は、まるで初めて雪を見る子供のように純粋で、僕の心を奪った。僕の心の中に深く刻まれ、忘れられない記憶となった。


 あかねの口から、昔聞いたことがありそうな歌が届いてきた。それは、バイト先の社長に初めて連れていかれた、祇園のBARのママから聞いていた。彼女から京都の花街に伝わる舞妓さんの歌だと教えてくれた。その歌は、恋に破れた女や恋に生きる女の切ない想いを表していた。


 京都 ぽんとちょう

 やさかのぎおんさん

 恋に破れた女がひとり


 京都 かざまつりまち

 ろっかくどうさん

 恋に生きる女がひとり


 京都花街の舞妓さん

 でたての こっぽり

 はなおは べにいろ

 すずのね はいってます


 はんなりあるくたびに

 ゆきのいしだたみに

 あしあと 打ち鳴らします

 ながいふりそで つまとって

 もちあげて あるきます



 僕はあかねから預かったコインの裏表を確かめた。五円玉の表には稲穂と水、そして歯車が、裏には若々しい双葉が描かれていた。


 真剣そうに語る彼女の話に耳を傾けた。コインをこぶしで受け止めて手の平を開けたときに、同じ図柄だとふたりには縁が結ばれたあかしとなるそうだ。    

 それはおばあちゃんから習った縁結びの占いみたいなものだという。僕には五円玉に紡がれたその糸は、あかねと自分との運命を結ぶ線香花火になる赤い紙撚りこよりのように見えていた。


 彼女のポーズに見習って、空を見上げると力を込めて放り投げた。


 僕の願いが込められた五円玉は風花に舞っていく。キラキラと輝きながらも勢いを失うと、自分のこぶしにかすり傷ひとつなく届いてきた。僕は手の平を開けるのに、少しだけためらった。


 けれど、コインは稲穂と水、そして歯車が顔を覗かせていた。僕は笑顔となり、安心したのか、ふうとため息をついた。次はあかねの番だった。僕と同じ図柄が現れるのを信じていた。


 しかし、あかねは力を入れ過ぎたせいか、濡れた石畳に足を滑らせて転んでしまった。僕は、もう笑ってはいられなかった。すぐさま、彼女に駆け寄った。


「怪我しなかったか。痛かったろう?」


 相手は若い女性だ。一瞬気がひけたが、涙を拭う彼女の小さな肩に手を廻し、身体を助け起こした。ほどなくして、健気な返事が耳元に届いてくる。


「平気さかい。そやけど、やっぱし草履にしたら良かった。着物濡れてしもうた」


 さりげなく女性の足首を見たら、鼻緒は切れていなかった。心の片隅では頭などを打って大怪我せずに良かったと、胸を撫で下ろした。でも、白い足袋に血が滲んでいた。ハンカチをポケットから取り出し、傷口が痛まないようそっと拭いてあげた。


「おおきに。優しい男やなあ……」


「本当に歩けるか?」


「いける。家すぐ近うや」

 

 これまでこのような美しくもありつぶらな瞳は見たことがない。素肌は透き通るように白かった。チークで頬だけがリンゴのように赤く染まっている。

 もう既に写真家の野心など遥か彼方に消えていた。あかねは少しだけ口元を緩め、気丈夫そうに振る舞っていた。


 五円玉はかぼそい少女の手を離れて、雪の吹き溜まりに隠れていた。僕はすぐに拾い上げてあかねに差し出した。


「やっぱし無理なのね。これがうちの定めなのかしら」


 彼女は五円玉を受け取ると、物憂げな表情を浮かべてつぶやいた。


「あかねさん、希望は捨てたらダメだよ」


 彼女は僕の質問に答えずに、ただ黙ってうなずいた。その表情には、深い悲しみや苦しみが滲んでいるように見えた。ただもう一度試すのは、諦めたようだった。


 あかねとは、今日あったばかりの関係だ。これ以上深入りすることは避けなければいけないだろう。でも、僕らは連絡先も交換していなかった。このままで別れてしまうのは、いくらなんでも我慢できなかった。

 僕はメモ帳に電話番号と住所を書いて、一枚を破り彼女に渡した。それが今の僕には精一杯の行為だった。彼女は「おおきに」と受け取ってくれた。


 ところが、その幸せなひとときは、長くは続かなかった。突然、あかねは僕の手を離して立ち上がった。


「悠斗はん……」


 彼女の声には涙が混じっていた。


「どうしたの?」


 僕は驚いて彼女を見上げた。


「もう行かなあかんのや」


 彼女は悲しそうに言った。


「どこに?」


「お茶屋に戻らなあかんのや」


 彼女はそう言って、番傘を取り出した。


「えっ? 今?」


 僕は信じられなかった。


「うん……今日が最後やさかい」


 彼女はそう言って、目をそらした。


「最後って……」


 僕は思わず声を詰まらせた。


「あかねさん……」


 僕は彼女の名前を呼んだ。


「かんにんえ……」


 彼女は涙を拭って、番傘を差した。


「悠斗はんと出会えてうれしかった。最後に想い出をおおきに」


 彼女はそう言って、笑顔を作ろうとした。


「あかねさん……待って」


 僕は慌てて、彼女に駆け寄ろうとした。


「やめて……お願いやさかい」


 彼女は手で制した。


「これ以上近づかんといて……。戻れなくなってしまうやろ」


 彼女はそう言って、後ろを振り向いた。


「きっと、お茶屋の若旦那見張ってるさかい」


 その言葉に、僕は凍りついた。遠くから、黒塗りの大きな車が近づいてくる。すれ違いざまにクラクションの音まで聞こえてきた。その気配と音から、あかねの運命が恐ろしいものだということを思い知らされた。


 季節外れの木枯しが強くなり、石畳が敷かれた路地には提灯や置き行灯がともり、艶やかで幻想的な空気が漂ってくる。やっぱり、ここは花街だった。

 あかねの去りゆく姿を心配しながら見送るしかなかった。彼女の足取りは極めてゆっくりとしたものだ。どうしたものか、道すがら足を止めた。でも、振り返ってはくれなかった。僕は彼女の笑顔を見たかった。物哀しさが胸を締め付けた。


 風がまた強くなり、空から淡雪がふわりふわりと舞い降りた。あかねの姿は風花に紛れておぼろげなものとなり、やがて裏路地に消えていった。


 僕は赤い糸で紡がれた五円玉のお守りを胸に抱きしめていた。それはあかねにもう一度いつか出会えることを心に誓うためのあかしだった。僕には彼女の笑顔や声、そして瞳が忘れられなかった。


 あかねとの出会いは、先斗町の花街で、彼女の瞳に映った重苦しい運命を見た瞬間だった。その道は茨の道で、困難に満ちていた。でも、昔から「困難な恋ほど燃え上がるもの」と伝えられていた。僕にとって、ふたりの出会いは運命の神に導かれたかのような、価値あるものだった。


 それが禁断の恋だとしても、僕が希望を捨てなければ、彼女との再会は必ず叶うと信じていた。世間の人々は、「純愛なんて、今どきあるわけない」と言うかもしれない。でも、ここは悠久の都、京都だ。ここでは摩訶不思議なことがいつ起こってもおかしくはなかった。



 



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