第8章 水面に映る再会
「悠斗さん、これから、仕事だから。また連絡するね」
詩織はそう口にすると、去っていった。
彼女と別れて、僕はひとり残された。冷たい風が僕の頬を撫でて、寂しさを煽った。撮影は無事に終わったけど、僕はまだ帰りたくなかった。機材をカメラバッグにしまい、ぼんやりと立ち尽くした。
今朝早起きしたせいか、僕は眠気に襲われた。気分転換に背伸びをして深呼吸をしたところ、嵐山の清々しい空気が鼻腔をくすぐった。微かに漂ってくるのは、梅の花の香りかもしれない。ジャスミンに似た華やかで甘い香りがほのかに届いた。
足元に視線を落とし、耳を澄ますと、雪解け水のせせらぎが聞こえてくる。それは雪の下を静かに流れる水が、小川に溶け込んで落ちる音だ。
そのリズムは、まるで春がゆっくりと近づいているような感覚を与え、心地よさを感じさせる。まだ、春は遠いかもしれない。
けれど、冬は確実に一歩ずつ終わりに近づいている。新たな季節の訪れを予感させ、心を躍らせる。この瞬間、僕は自然と一体になり、その美しさと静けさに包まれていた。
それは、言葉では表現できないほどの感動だった。僕はこの余韻を楽しもうと目を閉じていた。
そのときだった。星が煌めきながら遥かな世界へと消え、空色がゆっくりと移ろうとするその瞬間、橋の方から女性の甲高い声が聞こえてきた。
「きゃああああ……バシャン」
何の声だろう? まさか、悲鳴では……。それはどこかで聞いたような声だ。若くて、切なくて、絶望しているように聞こえた。
突然、僕は恐ろしい不安に駆られた。 カメラバッグを置いて、渡月橋へと走り出す。足音が雪道に響く。橋の向こうには何も見えない。暗闇に隠れた何者かが女性を襲っているのだろうか?
それとも、事故か自殺か……? 心臓が高鳴る。
橋の真下まで来たとき、声のした方へ目を凝らす。すると、そこには信じられない光景が広がっていた。この瞬間、僕の心は驚きと恐怖で満たされた。
僕の目と鼻先に泡沫がひとしきり現れる。さざ波の陰に白い女性の揺らめく姿が目に浮かび、僕は無我夢中でキラキラ輝く川面に飛び込んだ。
水かさが少ないとはいえ、まだ凍るような寒さだった。日の出とともにやさしい陽光が届く薄あかりを頼りに、渦の中に漂う人影を力の続く限り追いかけた。
ようやくその腕をつかみ、岸辺に引き上げた。長い黒髪の痩せ細った少女だった。化粧気もなく、嵐山の雪景色などはもはや関心が薄れていた。もしも、冬の嵐で水かさが増えていたら、きっと流されていただろう。
暗い雪道に足を滑らせ、橋の欄干を越えて落ちたのだろうか……。少女の身体はすっかり冷え切っていた。この瞬間、僕の心は驚きと心配でいっぱいだった。
「死ぬんじゃない!」
僕は必死に呼びかけた。起きろ、起きるんだ、起きろよ。彼女の顔は傷だらけで血が流れていた。僕は彼女の顔を見つめて驚いた。彼女は先斗町で出会ったあかねだった。これは、神さまが授けてくれた運命的な再会だったのかもしれない。
「助けてくれ! 誰か!」
僕は叫んだが、周囲には人の気配がなかった。スマホを取り出したが、水に濡れてしまったのか通話できなかった。
唇は血の気が失せ、肌は青ざめ、まぶたは閉じたままだった。彼女はまるで眠っているかのように静かだった。しかし、あかねの胸が上下に動かないことに気づいた。彼女は呼吸していなかった。
「大丈夫か? 返事してくれ!」
彼女の肩を何度も揺さぶったが、反応はなかった。
「どうしよう……?」
僕は頭を抱えた。僕はあかねを助けたい。彼女が好きだ。一緒に過ごした時間が幸せだった。あかねと笑って話して、手を繋いで歩いて……。そんなたわいもないひとときが忘れられなかった。いつの間にか、僕の手の平に涙がこぼれていた。
「死なせない。死なせるものか!」
僕は決意した。
「俺が助ける。俺が助けてやる!」
僕は自分の記憶をたどった。人工呼吸やAEDのやり方をどこかで見たり聞いたりしたことがあるはずだ。テレビや本や学校で。そうだ。僕は高校生の頃、一次救急講習を授業で受けていた。人工呼吸の基本的な手順を習っていた。でも、自信はなかった。
手探りの中、まずあかねの頭を後ろに傾けて、あごを持ち上げた。これで気道が開くはずだ。次に、僕の耳をあかねの鼻と口に近づけて、呼吸音や息遣いを確かめてみた。けれど、何も聞こえなかった。
「息してない……」と僕は確信した。
「早くしなきゃ」と一瞬のためらいもなく、僕の口を彼女に合わせた。そして、鼻をつまんで、息を吹き込んだ。一回、二回……そうしているうちに、僕は自分の唇が彼女に触れていることに気づいた。それはキスというよりも命の授受だった。
「頑張って……」と僕は心の中で祈った。
「生き返ってくれ……」と何度も息を吹き込んだ。すると、奇跡が起きた。あかねの胸が動き始めた。そして、彼女が咳き込んだ。
「あっ……」と僕は驚いて口を離した。
「大丈夫か? あかね!」
僕は心配そうに、尋ねた。
すると、あかねがこの世にあるたったひとつの光を見つけたごとく、まぶしそうに瞼を開けた。そして、かすかに笑みを浮かべた。その笑顔は、僕にとっては風花の天使のように美しく、儚く、切ないものだった。
「うち、……。悠斗はん」
彼女は、何かを言おうとしたけれど、途中で声が出なくなった。そして、涙をこらえるようにして息を吸い入れた。そのとき、彼女の身体はこきざみに震えた。僕の名前を呼んで、力なく僕の胸にしがみついた。
「助かったんだ。もう大丈夫だよ……」と僕は安堵した。
「救急車が来るまで待とう」と言った。
「うん」
彼女は涙ながらにうなずいた。
「うち、……。優斗はん、おおきに」
あかねはほとんど聞こえないような声でつぶやいた。そして、僕の名前をもう一度呼んで、ぎゅっと僕に抱きついた。僕もすぐに彼女を自分の胸で強く受け止めた。
あかねの細い身体から伝わる鼓動と温もりを確かめた。僕は涙があふれるのを止められなかった。彼女は生きていた。
「なぜ、こんなことに……」
でも、僕の頭の中は混乱していたのかもしれない。
あかねに対する切ない疑問が浮かんで、つぶやいた。なのに、あかねは僕の問いかけに答えてくれなかった。彼女はただ、僕の胸に声も出せないほど涙を流した。
あかねは死ぬ覚悟だったのだろうか……。それとも、足を滑らせて落ちた事故だったのだろうか……。
僕は彼女の目を見つめ、その濡れた瞳に愛を伝えた。そして、そっとゆっくりとキスをした。それは命の授受ではなく、愛の誓いだった。彼女はキスに応えて泣いた。
あかねは僕の胸にしがみついていた。その瞬間、僕は彼女を失うのが、どれほど恐ろしいことなのかひしひしと感じた。
「あかね……」
僕はもう一度彼女に呼びかけた。
あかねを抱き起こし、再び大きな声で助けを求めた。ところが、その後の記憶は定かではなかった。先ほどまで、泡沫を彩る水鏡のように陽光が届いていたはずだったが、その光は彼女の肌に触れた温もりと共に消えていった。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきたが、僕はそれに反応できなかった。僕の意識は、彼女が生きているあかしとなる鼓動と共に薄れていった。
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