第2章 先斗町の恋物語


 現実は甘くなかった。夢や希望は高い壁にぶつかった。冬の京都は厳しい寒さと風にさらされる。

 年の瀬になると、雪が降って街は美しい銀世界になるが、人々の心は冷え切る。僕はそんな光景を何度も目にした。


 僕は写真の専門学校に通いながら、プロカメラマンのアシスタントをしている。でも、同級生は地元出身で自信満々だった。彼らは目立ちたがりで、他人を見下してトップを目指す。笑顔の裏に本音を隠し、人の悪口を言いふらす。

 僕は人には裏表があると疑っていたけど、彼らの悪ふざけは常識を超えていた。僕の作品を見下したり、馬鹿にしたりした。


 気がつけば、僕はひとりぼっちだった。カメラだけが味方で、自分の気持ちを表現してくれた。写真に没頭することで、辛い日々を乗り越えた。  


 ひとりで京都の街を歩いた。カメラ片手に南禅寺界隈を通り過ぎ、鴨川沿いの三条まで歩いてきた。

 みそぎ川の土手に、閉ざされた納涼床の名残りを見つけた。京都の「夏の風物詩」は冬になると、寂しく骨組みだけが残る。僕には親近感が湧いた。魅入られたように、何回もシャッターを切った。  


 一方では、木枯らしに抱かれて、恋人たちが熱く抱き合う。彼らは隣同士で見えない壁を作っていた。恋人がいない僕には、まぶしい光景だった。

 羨ましさと寂しさに包まれて、目を逸らしたくなった。彼らを横目に通り過ぎて、タバコに火をつけた。ふう……と寂しさを吐き出した。心を落ち着かせて、次の目的地に向かった。



 道すがら石畳や古民家の姿が朱塗りの玉垣に隠されていた。ほのかに降り積もる雪が玉垣に白い帽子をかぶせ、その光景は、情緒あふれる京都の冬の風物詩となった。その美しさに心を奪われ、僕はしばらく立ち止まって見とれた。

 この光景の方が、今の僕には似合っているように感じた。寂しさや孤独を忘れて、美しい景色に癒された。


 今年の春で、僕は二十一歳になる。東京出身で、写真家を目指している。ただひたすらに京都の美しい景色に魅了されている。著名なカメラマンからすれば、受賞歴のない新参者に過ぎないだろう。



 夕暮れ時、雲がゆるやかに京都の街を覆い始めた。その景色に寂しさを感じ、いつものように、ファンタジーに溢れた漫画の世界に逃げ込んだ。漫画喫茶に入り、時間が過ぎるのも忘れて一冊の漫画に夢中になった。


 窓の外を見ると、古民家の格子窓からほのかな灯りが漏れていた。京都ならではの風情が漂っていた。そろそろ、撮影の準備をしなければならない……。


 しかし、読みかけの漫画を途中下車するのには心残りがあった。「舟屋の雪女」という漫画は、夜光虫が光る伊根の海で繰り広げられる美しくも恐ろしい物語だった。            

 冬の満月の夜に、雪女と恋に落ちる男の儚い運命を描いていた。漫画の主人公は樹氷の里に住むと言われる雪の化身だった。相手の男は雪女の魅力に抗えず、彼女と一緒になることを決意した。

 でも、彼はまだ恐ろしさを知らなかった。雪女との恋は、彼の命が奪われる呪いだということを……。僕はその切ない話に引き込まれて、魔界の雰囲気に浸っていた。



 漫画喫茶を出て、先斗町ぽんとちょうの細い路地に足を踏み入れた。そこは今日の最後の撮影スポットだった。先斗町に入ると、一気に空気が変わった。季節外れの朧月夜に、粉雪が舞い降りる不思議な光景に出会った。


 僕は、凛とした美しさに心を奪われて、冬の夜空を見上げた。雲の隙間から覗く月は、ぼんやりとした光を放っていた。雪は月の光を反射して、狭い路地に白いベールをかけていた。

 千鳥マークの提灯がともる路地は、昔ながらの料理屋やバーでにぎわっていた。夜も更けていないのに、酔っぱらいの客たちが行き交う。噂通りの艶やかな香りが漂う花街は、少し危険な感じもした。

 一見さんはお断りの店が多く、通りすがりの僕などは相手にもされないだろう。店先からは女性の甘い声や和楽器の音色が聞こえてきた。

 そこは、自分にとって、まさにはんなりとした幽玄の世界だった。京都らしさを感じられる魅力に満ちあふれており、夢のような被写体が数多く残っていた。


 先斗町は、ただ艶やかなだけの花街ではなかった。古き良き時代の名残が深い懐かしさや哀愁を呼び起こした。花街の人々は、時代の変化に対して、どんな想いを抱いているのだろうか。

 彼らの生き様に敬意を表したくなった。彼らの紡ぐ物語を写真に残したくなった。もう一度、提灯の揺らめく明かりを頼りに、花街の夜景にレンズを向けて、カメラに収めた。



 ところが、僕のカメラに映ったのは、通りすがりの女性だった。春の花柄の着物を着ており、ひと目で京の舞妓さんとわかる雰囲気を醸しだしていた。でも、幼い顔立ちで、まだ見習いさんだろうか……。


 舞妓さんの化粧は白塗りが基本だ。彼女は薄いメイクで、りんごのように赤い頬が初々しかった。口紅も下唇だけに塗っていて、髪型は赤い鹿の子が見える割れしのぶで、さくらの花のかんざしを挿していた。足元には白木の履物(おこぼ)が着物の裾からのぞいていた。


 彼女は鈴の音を響かせて、雪の石堀小路を歩いていた。長い帯が風になびく、可憐な舞妓さんの姿が目に飛び込んできた。彼女の姿は、僕の心に深く刻まれた。僕は思わずシャッターを切ったが、それは許されない行為だった。けれど、消すことができなかった。


 僕は初々しい舞妓さんに惹かれていた。彼女は僕にとって魅力的な被写体であり、それ以上の存在だった。このチャンスを逃したくなかった。

 僕の想いに気づいてくれないだろうか。微笑んでくれないだろうか……。言葉をかけて謝りたかったが、勇気がなかった。ただ、その後ろ姿を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る