第51話
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直ぐに彼と話す気にはなれず、暫くテオは辺りをうろついた。不気味の谷を越えたとはいえ、この中に入っているのは、あの夜から地続きの彼なのだ。純粋に友人として何を話せばいいかわからず、億劫だった。
雑木林を少し進むと、不意に森が晴れて開けた場所に出くわす。ギャップという森の内部空間で、綺麗な紫の花が絨毯のように咲いていた。
膝を折り、その一輪を摘んで矯めつ眇めつする。中心に集まった花弁と濃い紫色が、その先端に向かうにつれ、緩やかなグラデーションを描きながら薄まってゆくその美麗に、すこし緊張が落ち着くのを感じる。
リンクデバイス曰く、アネモネという、春を告げる花なのだそうだ。
服の汚れなど気にせずに、一思いに寝転んだ。適度に湿った土の豊穣と、押しつぶされて滲んだ茎の体液が混ざり、大地のにおいが染み出てくる。良いとも悪いとも言えない香りだが、遅れて漂ってきた蜜の匂いを嗅ぐと、春の訪れを感じた。
「いい季節になった。喜ぶべきか、偽物だと嘆くべきか……」
それは少し昔に行き当たった不気味の谷と、根底を同じくする問題に思えた。どちらも見た目や振る舞いは本物と同じで、中身は少しだけ違うことを知っているが、感覚はできない。そこで理性と感情がすれ違い、亀裂が生まれ、かつて彼はその狭間に落ちた。
「――そうだな、お前はどう思う、カイト」
木漏れ日を浴びながら、傀儡となった植物のベッドに身を委ねていると、ひとつ話題ができたような気がした。テオは個別の意識帯を形成し、ヴィルに渡されたリンクデバイスを起動、同期。そこへカイトの脳が入った箱からケーブルを繋ぎ、彼を意識帯へ招待して、そう問いかけてみる。
突如吹き上げた強い風に瞼を閉じる。そしてそれを開いたとき、地面で大の字になる己と旋毛を合わせるような形で、同じように寝転ぶ彼の存在を、ふと幻覚した。さながら親しい相手と電話越しに話をするとき、次第に相手の表情や仕草が浮かび上がってくるように。けれどそれよりもっと、高精細に。
<――どう、って言われてもよ。こちとら世界が終わるまで塔の中だぜ>
カイトは苦笑しながら頭を掻いた。それもそうかとテオは頷く。思いのほか、テオは緊張を感じなかった。しかしカイトの緊張は、意識を通じて伝わってきた。
<今度、家に戻ったらまた教えてくれよ>
「あぁ、そうだな……」
どうにかそれを解してやろうと思って、けれど直接言葉にするとなんだか嘘くさくて、テオは少しのあいだ口をつぐんで、次のフレーズを探した。沈黙に、カイトは敏感な反応を示した。テオはなぜ黙ったのか。結局不気味の谷を越えれず、それを此方に悟られぬよう取り繕って喋っているから、言葉を考えるのに時間がかかるのではないか――短い間で、そんな悪い予感が、幾つもカイトの頭に浮かんでは消えた。けれど、テオが思いついた言葉は一つだった。
「――確か、アネホにはもう一つ上のランクがあるんだよな」
<は? 何だって?>
頭の中でカイトが混乱しているのを感じながら、テオは続ける。
「いや、お前がこないだくれたやつ。アレ美味かったんだけど、僕が空にしちゃったからさ。退ラボ祝いに、新しいのを買ってやろうと思って。――えぇと、何だっけ……たしか、エクシードとかブリリアントとか、そんな意味の形容詞が頭についてたと思うんだけど……」
テオはカイトがもはや何物であろうと気にしていないことを示すために、二人で飲んだあの夜から地続きな会話を始めようとしていた。自分たちの関係は、テオがその事実を知らなかった時から、例えあの衝撃を受けた後でも、何も変わっていないのだと。遅れてカイトも、その意図が分かった。だから文脈に乗るという形で、その意図に頷いた。
<エクストラ。エクストラ・アネホだ。高い酒だが、味は無類らしい>
テオが、「それだ」と爽快そうに指を鳴らす。
「値段はいいや。用意しておくよ。酒はそいつで、肴は終焉譚だ。今晩にでも、二人でやろう。次は僕から誘ってくれと――そう、お前に言われたからな」
そう彼が朗らかに笑うので、カイトも思わず相好を崩した。カイトは、凍り付いた冬の間に停まっていた時間が、春の温もりと共に動き出したような気がした。
<楽しみにしてる>
そのとき、上空からテオの体を拭きつける暴風が、彼の肉体の到着を知らせる。
<――時間だ。空を見てみろ>
空には馴染み深い輸送機の姿があった。迷彩を解き、着陸し、開いたハッチの中には棺に似た箱が入っており、見ると、そこでカイトが眠るように目を閉じていた。
リンクデバイスからカイトの脳を切り離し、棺の側面に空いたプラグへ繋ぎ直す。中身が棺の中へ流れ込み、彼の肉体へふたたび意識を灯してゆく。棺の蓋がひとりでに開き、カイトがゆっくりと起き上がって、テオの顔を見た。テオは、起き上がろうと身動ぎする彼に右手を差し出し、普段口にするのと同じように、彼へ言った。
「――おかえり、カイト」
カイトは、笑った。
「――あぁ、ただいま」
それから二人は一足飛びに距離を詰め、互いに強く抱きあった。「ちょっと痩せたか」とカイトが揶揄うように問いかけ、「おかげさまで」とテオが皮肉に応じる。錆びついた歯車のようだった二人の距離感は、もう完全に元に戻っていた。色々な話をしたい、とテオは率直に思った。積もる話が幾らでもある。語り尽くすにはきっと、夜を明かすことになるだろうとも。
「そんでお前、結局ヴィルとはどうなったんだ? もうキスぐらいはしたか?」
「え? 何だって? ごめん、よく聞こえない」
ただ、その話だけは御免だった。
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