第49話


                   ⁂


「――しかしまぁ、まさかポスト・アポカリプスを体験するとは思わなんだ」

 透明な雪解け水を湛える澄んだ渓流と、その大本たる急峻な山麓を横目にテオは言う。大自然の営為、その威容を一目に収められる絶景である。

「お出かけ先には……まぁ、どうかと思わないこともないですけど」

「僕はお前が居ればどこでもいいんだけど」

「それは、どうも……」

 ヴィルは口角がつり上がっていくのを悟られないように力を入れて、奇妙な顔をした。別段、隠す必要もないとは分かっているのだが、気恥ずかしさは拭えない。奇妙な沈黙が流れて、黙々と歩く。その空気に責任を感じたヴィルが別の話題を出す。

「そ、そういえば結局、世界はどうなっちゃったんでしょうか」

「博士から聞いてなかったのか?」

「はい。能力アクトのことで頭が一杯だったもので」

「似たもの親子め……。丁度いい、あそこ、見てみろよ」

 テオは川の向こう岸を指差した。そこには二匹の水を飲むトナカイがいる。片方は角の生え切っていない子供のようで、もう片方はその親だ。すると背後から現れた一匹のヒグマが親を仕留め、その場で肉を貪り始めた。

 かつてはありふれた自然の摂理、生態系ピラミッドの本懐たる営為だが、今二人が目にしたそれには、強烈な違和感があった。

 音の立ちやすい河原で、巨大な質量を持つヒグマがどこまで近づこうと、一切気づいた素振りを見せない親トナカイは、首を噛み千切られて止めを刺されるまで、抵抗はおろか、叫び声すら上げなかった。そして親が殺される姿を目の当たりにした子トナカイは、逃げ出すはおろか、水を掬う舌の動きさえ止めなかった。

 加えて言えば、狙われるのは親でなく子であるべきだった。体力のある親を狙っても勝つ見込みは少ないない。子供が横にいるならば、そちらを狙うのが食いつなぐための本能であり、意思だ。

 すなわちそれが、この世界の失ったものである。

「曰く、この世界は予定調和になった」

 そうしてテオは、博士から聞いた話を受け売りした。

「ホロンは生物の行動を支配して、生態系に恒常性を齎した。つまり生態系ピラミッドを寸分違わず維持できるよう、捕食、被食、繁殖の関係に、量的な均衡がもたらされた。

 ある肉食動物が、ある日にある場所で草食動物を捕食すること。その草食動物が、草を食むこと。その草が、花を咲かせること。その花粉を、虫や風が、ある場所へ運ぶこと。それら全てが死ぬこと。そして、生まれること。

 本来は、周囲の環境や運にある程度左右されてきたそれらの生命サイクルを、ホロンは生物の行動を支配下に置くことで運命づけた。有機生命体の発生・捕食・死のサイクルを管理することで、つねに適切な個体数と生態環境を維持できるようにしたんだ。大絶滅、大量発生、突然変異……進化の雷となり得たそれら全ては、いまや安寧のに消えている。ここにあるのは変化のない、半永久的な平穏だ」

「どうやったらそんなことが可能になるんですか?」

「ホロンは報酬系をハックする。全ての生物の原動力たるあらゆる欲求、その共通したインセンティブを操作することで、奴らは生物の行動を支配する。今や彼ら動物たちの間では、生まれてから死ぬまでに起きる出来事の全てが、悉く自明・・だ」

「ぞっとしない話ですね」

「たぶん、あのヒグマとトナカイもそうなんだ。次にすべきこと、次の餌、己のつがい、そして死期でさえも彼らは全て知っていて、それが何であれ苦痛も悲観もなく、全て喜ばしいこととして受け入れている。喉を噛まれても痛みはなく、来るべき運命を迎えた幸福として処理される。いま、この世界は生まれて初めて、悲劇というものを失った。誰もが幸福を味わいながら、進化の閉じた円環を営み続ける、ある種の楽園に到達した」

 長い話を終えて、ふと気付けば、だいぶ川を下っていた。川幅が広がり、水がすこし濁り始めている。じきに河口で、そこから先は海になるはずだった。

 ヴィルは今の話を聞き終えて、それからこう意見した。

「それは生態系の到達しうるひとつのゴールなのかもしれませんね。楽園という表現も、見方によれば、正しいと思います。悲しいことのない、永久の空間……」

「お前個人の意見はどうだ?」

 ヴィルは、たいして考える間もなく返事をした。

「あくまで一つの到達点であって、理想かどうかは別でしょう」

 流木や岩石を気にしながら歩きつつ、けれどよどみなく語って見せる彼女の後ろ姿に、テオは博士の影を幻視した。彼女はときどき頭の回転が速くなる一面があって、その時の語り姿が、とても鋭く知的だった。博士の遺伝子が、確かにそこに存在していた。

「進化も成長も偶然もないだなんて、私にとってはつまらないですよ」

 けれど不意に振り返り、清々しいほどの笑顔でそう言うと、彼女はしっかりヴィルなのだ。丸く角の取れた河原石を拾って、手先でもてあそぶ彼女を、テオは引き続き目で追いかけた。

「知性を持つ人類は、太古よりモノと共にありました。モノは人を進化させ、人はモノを進化させた。太古より繰り返されてきた、そんな人類とモノによる相互進化の系譜に、私は生を受けたのです。私は人類の自己進化による産物に他ならない。だというのに、この世界は進化それを否定するんですからね」

 彼女が水面すれすれに投げた平たい石はぽんぽんと跳ね、対岸の少し手前で沈んだ。「20回」と、暗にテオへ勝負を持ちかけた。

「自己進化、か。別に、僕がお前を作ったりしたわけじゃないんだけどな。殆どあれは博士の功績だろ? そんなに主語を大きくして良いものかどうか」

「断続平衡説、ですよ。進化とは急激に、かつ局所的に発生して、種全体に広がっていくのです。今回はそれがたまたま、レキのいち研究室だったというだけで」

「進化論の一説か。その類の話はなんというか……かなり、諸説あるよな」

「じゃぁテオは、私のことどう思ってるって言うんですかぁ」

 ヴィルは分かりやすくむっとしたそぶりを見せた。テオは意識海を経てからの彼女が、少しあざとく、そして素直になっているような気がした。

 手ごろに扁平な石を見つけて、身を屈めて拾いながら、テオは言った。

「まぁ、僕も立場はお前と同じだ。この世界は幸福を追い求めるあまり、もともと生き物に備わっていた可能性を全部捨てて、円環の中に引き籠った。争いを恐れるあまり、悲しみを捨てて、死を恐れるあまり、自由を捨てて、変化を恐れるあまり、進化を拒んで……ヴィシュと同じだ。まるでヴィシュの望んだ世界のようだ。それはあまりにも、ことだ」

 水面すれすれを狙って放り投げる。しかしその直前に手先が狂い、石は急角度で入射。派手な音とともに大きな水しぶきを立てた。

「うおっ」「わっ」

 いびつなクラウン。二人は濡れた。「へたくそ」と彼女が呟いて、眉をハの字にしながら笑うと、つられてテオも破顔した。小春日和の陽気のもと、武器も武装も身につけぬまま、何の気兼ねもなく大声で笑うことができることは、もはや思い出せぬほどの遠い往昔だと思っていた。えもしれぬ解放感に身を委ねながら、気付けば息も絶え絶えになるまで、二人は笑った。

 その声は山麓に届き、言霊はあちこちへと山彦した。思えば笑いというのも、この自明な世界にはないのだと気が付いて、テオは思わず口にした。

「やっぱりこの世界はまちがいだ。こうして笑えた方が、ずっと楽しいに決まってるだろう」

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