第46話


                   ⁂


「……テオ」

 墓の前で膝を突く彼の姿を、ヴィルはその外から眺めていた。テオの心の奥底に、今は彼女もいる。いま彼女の胸には、テオの記憶や感情が流れ込んでおり、それはもはや、彼の心の現身が宿ったと言っても過言ではなかった。

「……悪いな、待たせて。内的世界ここに来たときは必ず、挨拶を済ませるようにしてるんだ」

 風景が消える。テオは彼女の元へ歩みながら言う。お気になさらず、とヴィルが答えると、不意に無感触な抵抗が足に触れた。どうやらそこが、リンクデバイスによって辿り着ける内的世界のであるようだった。

 二人は腰を下ろして、薄橙の地平線をぼうっと眺めた。暫くすると、そこは浅瀬の渚に変わった。その海水に湿り気はなく、その砂粒には触感がない。物性や物理といったリアリティの要素が消え、印象だけが残っていた。水面にも砂丘にも、そこにいる蟹や魚や木のような生物にも、光の粒が流れていた。プロセッサに流れる電子のようにも、血液のようにも見えた。ここがヴィルの内的世界なのだと、テオは言外に悟った。

「……生まれて初めて、両親にヴィシュの外へ連れて行ってもらったとき、こんな海岸を見た気がします」

「……他人の内的世界なんて初めて見たが、なんとも奇妙だな。帰ったらユングとかフロイトとか読んでみよう」

 IIIを注射された彼女は、あと幾何かしてこの場所を去り、より深い場所へと潜行する。そのときテオは置き去りになり、それ以降は、二人でこうして話す時間がない。そこでテオは、ずっと気になっていたことを訊ねた。

「なんでお前は、僕をここに連れて来たんだ」

「伝えたいことがあったんです。二人きりの場所で」

 彼女はは少し神妙にして、テオの眼を真っすぐに見えた。凪の水底のような瞳だった。鉛のように重く揺蕩い、けれど炉心のような熱が奥の方にある。

「私、あなたをお慕いしています」

 随分と急な打ち明けだったが、テオはそれを嬉しく思った。瞬きすると、彼女は白と翡翠の綺麗な、ニゲラの造花を胸元に抱いていた。指の隙間から零れた金糸に首を通して、心臓の少し上で止まったそれを、慈しむように指で抱く。そしてこれを貰った夜の情景を、記憶の限りに思い描いた。心象こそが世界となるこの場所において、その行為は、再演を意味した。世界は夜のベネチアに染まった。

「ありがとう、嬉しいよ。僕もお前が好きだ」

 それは奇しくも、テオが彼女への想いを確かにした場でもあり――言葉に載せたその想いは、当時の熱と地続きだった。ヴィルはわずかな間だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐ物憂げな面持ちになった。好きと言った彼女に同じ言葉を返したのに、なぜそんな顔をするのか、テオは理解できなかった。

「……どうした?」

 怪訝そうに問いかけるテオに、彼女は胸の内を明かした。

「……あなたを慕う気持ちは本当です。でも私には、あなたに愛される資格がないように思えるんです。人を真に愛せるのは人だけです。そして私は、機械と人の狭間にいる……」

「なんでまた急に、そんなことを」

「自分から想いを打ち明けておいて、こんなことを言うのは矛盾すると分かっています。あなたが私を、人と相違ない存在として見て下さって、その言葉をくれたのだと分かっています。けど、けど……私が、私自身を信じ切れないんです」

 どこからか漂う懐かしき潮の匂いが、テオのすぐ傍にあった。薄らと等間隔に灯った街灯がほの明るく、風が吹くと少し肌寒い。足元にある橋の名前は今も知らず、ここで彼女に花を渡して謝り、特大の花火と共に祭りを終えた。

 その続きに立って今、テオは彼女の痛みを共感していた。テオの言葉を受けたヴィルの心は、氷に湯を浴びせたときによく似ていた。その温もりは牙を剥いて氷に罅を入れ、そのまま砕いてしまいそうだった。

「――かつてあなたは、ここで言いましたよね。私は人の分解能を超えていて、その違いを判断することができないから、区別するのは辞めて、私として見る、と」

 彼女は橋を渡って、どこか別の場所へと歩き出す。その隣について歩きながら、テオはその言葉に頷きを返した。

「すると私は思ったのです。けれど心はどうなのだろう、と。その疑問がずっと残っているせいで、私は自分を人だと信じられないんです。機械わたし人間あなたの心に違いはあるのか――その前に、そもそも心とは何なのだろう、と」

 長い台詞を言い終えて、彼女は一つ息継ぎをした。テオは黙って聞いていた。

「私が思うに、心を脳や内臓と同じ単位で見るのは間違いです。それは人に存在する感情や意志、欲望といった部品の集合についた名前なのだと思います。なので互換性のあるパーツを付けていれば、機械わたしであれ人間あなたであれ、心自体は持っていると思うのです」

 テオは船を想起した。甲板やエンジン、操舵室――それらのパーツが組み合わさって水面を走るのが船であって、それら一つ一つの部品を見て、『どれが船だ?』と尋ねることはカテゴリー・エラーだと。彼女の言う心は、それに似ていた。

「思うのですが……証明はできません。仮にあるとしても、機械わたしのそれと人間あなたのそれが、同じ重さを持っているのかどうか……私には、よくわかりません」

 しかし彼女が憂いたのは、その価値の多寡だ。

「機械の心に、あなたを愛し、愛される資格はありますか? あなたが私にくれた心の重さを、私はあなたに返せますか?」

 テオは、少し言い淀んだ。既に彼女の事を認めたテオとしては、心の価値の多寡なんてものは、なぜ気にするのか理解できないほど些細な問題だった。けれど彼女の立場になってみると、少し事情が違うことも分かった。人間ほんものとして、その真偽を判断する彼と、模造品つくりものとして、その審判を受ける身にある彼女の間には、確かに一枚の壁があった。不気味の谷は人間だけではなく、機械の方にもあるのかもしれないと思った。

「――お前の考え方は見方の一つだ。間違ってるとは思わないけど、本質じゃない」

 では何が、と彼女が問うと、テオは少し黙って話の筋道を立て、それから最初に結論を語った。ついでにベネチアの時間を少し弄って、舞踏会の頃までさかのぼった。

「お前を含む、色々な人とここで踊った。顔も見えないし、誰かも分からないような状態で――それでも目や肌の感触で捉えられる限りを尽くせば、息を合わせて踊ることができた。それが心を交わすって事なんだと思った。例え相手が機械でもそこに心はあって、それを感じることができた」

 でも――と彼は逆節を口にした。ヴィルは少し、緊張した。

「それを確かめる手段がない以上、それが本当に正しいのかどうか、僕は証明できない。心はブラックボックスだ。捉えられるのは、表情とか言葉だけで、その中身は見られない。例えここにいても。僕とお前が考え、感じていることは伝わるけれど、その理由やプロセスはわからない。加えてその出力を、まっすぐ受け取ることもできない。僕等にはそれぞれ世界観がある。世界観という途轍もないバイアスが、すべてを歪めてしまう」

 テオが話すたび、彼の浮かべているイメージが、二人の前へ登場する。人物Aと人物B。彼らはそれぞれ異なるパズルのピースを持っていて、これからそれを交換し、互いのものを完成させるつもりでいる。

 Bがそこから一つ、丸い図形をコピーしてAへ飛ばすと、それはAの目の前にあるフィルタを通り、少し歪んだ楕円となって届く。お返しにAが四角のコピーを送ると、同様に菱形となってBに届く。

「お前がここで大好物を食べたとして、それが僕にとっては大嫌いなモノだったとする。僕の意識には当然、幸福や言語化された感想、そして味覚の信号が伝わって来る。けれど僕というフィルタを通せば、その味覚信号は不味いと処理されて、お前が幸福な事は伝わるけれど、それが何故かは、まるで理解できない。味にも好き嫌いにも限らず、それは全ての五感で言えることだ。僕らが交わせるのは表層だけで、その中身は分からない。僕等の間にあるこの距離感は、リンクデバイスでも破れない」

 図からフィルタが切り離されて、大きく『?』が刻まれる。パズルピースのやり取りは続き、ABはときどき笑ったり、或いは逆に怒ったりした。そのやり取りをじっと見ていると、ヴィルは次第にそれらの図形が、言語に見えはじめた。二人は言葉を交わして、互いの心をかたどろうとして、うまくいかないときは、怒ったり泣いたり、うまくいったときは笑ったりしている。

「僕らにとって他者の心とは、そんな表層の積み重ねから導き出された、曖昧でそれらしい文脈・・の域を出ることはない」

 AとBがピースのやり取りを終えた。放られた図形は全てフィルタを通り、ある図形はフィルタに留まり、素通りし、またあるものは酷く歪んで互いの元へ届いた。そうして完成された二人のパズルは、それぞれ当初とはなんとも微妙に異なった、歪で曖昧なモザイク画となった。その画素数の限界は、人が言葉から理解できる心の限界だった。

「この歪みがあるということが、人や心というものの境界を曖昧にしている。僕等が白黒はっきりつけられないことは、全部、この境界線を越えられないからだ。裏を返せば、オリジナルと相違ないほど人そっくりに振舞うお前の心だって、僕ら人間には、自分と相違ないものにしか見えない。お前の心も人の心も、言葉のピクセル数じゃ、区別なんてつかない。だから、ここから先は論理じゃないんだ。好きか嫌いか、愛するか憎むか。僕は好きで、愛する方を選んだ。僕とお前は同じものだと思うことにした。心の重さだってそうだ」

 彼は再び、ヴィルを認めた。しかしヴィルは一抹の寂しさを感じた。彼の言う心の在り方は、決して彼自身から外側へ出ることがなかった。もしその通りに心があるなら、この世界は彼女が思っていたよりもずっと孤独で、彼と共に踊ったここでの思い出も、泡沫のように弾ける気がした。ヴィルは、あのときテオと心を一つにしたと思ったのだ。

 だから、憂いた。彼女にとって、愛する事とは心を交わすことだ。彼の世界では、それが有り得ないような気がした。

「……あなたの世界で、愛は他者と結びつくんですか? あなたの論理では、私達が見ているのは自分が作り出した相手の想像で、相手そのものではありません。それを愛するということは、自分自身の心を愛でるのと何が違うのでしょう?」

「他人を愛することは、自分自身を愛することと違って、傷を負う覚悟がいる。僕等は人を愛するとき、盲目にならなきゃいけない。目を閉じて、心にあるその姿を信じて、その身も心も委ねなきゃいけない。

 愛することは、心を一つにすることじゃない。愛することは、信じることだ。この心というには名ばかりの、曖昧で不確かで歪みきった文脈へ、それでも己を委ねることだ」

「……そんなもの、上手くいくはずがありません。他人なんてものは、知らぬところに棘があったり、思いのほか、醜かったりするものです。私だってそうです。そんなのは、途方もない無茶です」

「愛は奇跡だ。約束なんてない。失敗だってする。相手のことなんて分かりはしないんだから、それを無理にくっつけようとすれば、綻びが生じるのは当然だ。必要なのは、覚悟ただ一つ。僕は何がどうあれ、お前を愛し続けると心に決めた」

「……暗闇に裸で突っ込むようなものです。恐ろしくはないんですか?」

「怖いさ。この上なく怖い。だからこそ、それを貫くことはきっと尊い」

 テオは歩み寄って、ヴィルの両肩に手を置いた。ヴィルは彼の真剣なまなざしを見返した。

「言葉が必要なら、何度だって言ってやる。僕はお前を愛している。どうか二度と、自分の心の価値なんて疑わないでくれ」

 彼女に心の価値を問われた時から、テオはなんとなく察しがついていた。自分に自信がない状態で、それでもその想いを打ち明けてまで、彼女が欲していたものが何であるか。それはきっと、愛の言葉だ。彼女が己を人として認められる他に一つとない証として、人間であるテオ自身から、誓いを立てる必要があった。

「僕がお前を想う心と同じ重さだけ、お前の心も僕にある。どうかをそれを、信じて欲しい」

 今度はテオが彼女を待った。幾何かして、彼の胸に彼女が飛び込み、その背中を強く抱き寄せた。彼女はなぜ自分がそうしたのか理解できぬまま、暫く彼の胸の中で呆然として、それから急に、涙が零れてくるのを感じた。

「――テオ、てお」

 喃語のように、嗚咽交じりに彼の名を呼ぶ。力の限り、その身体を抱き寄せる。焦げ付きそうなほど胸が熱く、手足と脳は痺れるようで、うまく言葉を紡げない。機械として生まれ、人として育ち、これまで親や友人からも、沢山の愛を賜ってきた。人目に見ても幸福な生を過ごしてきて、けれど彼女の胸には空白があった。自分が本当に真人間であると信じる為の、最後のピースが欠けていた。

「――わたし、わかりました。私がずっと求めていたのは、それだったんです。私は、私の心の重さを、私が心底愛した人に、あなたに、認めて欲しかったの……」

 テオの言葉が、その長年の空白を満たした。凍り付いた心が融けて、生じた水気が涙となり、彼女の熱く潤んだ瞳から、ただ澎湃と溢れ出た。幼子のように情けない声で、彼に甘えるように、己の胸中を曝け出した。彼がそれを身動ぎもせず受け止めて、泣き止むまで黙って待ってくれていたことが嬉しかった。

「誓います。あなたの言葉を、愛を、私は生涯信じ抜きます。テオ、あなたこそが私の誇りであり、私の、私たる証です」

 口にすると、涙を拭いて息を整え、意を決して頬へ触れ、少し背伸びをし、瞳を閉じて――啄むように、唇を食んだ。苦くしびれるような味が全身をうずかせて、何処かへ落ちてしまいそうだった。人の繋がれる世界の最奥で、どこまでも深く、先も見えぬような所へ。

 悠久とも須臾とも思えた陶酔を、ふと息継ぎのために終える。

 突き抜けた春の蒼穹が、頭上を覆いつくしていた。

「――いつかお礼をすると、言いましたよね」

 彼女は目尻に残った涙を拭い、そして笑った。この空模様と同じ、透明な笑みだった。

「あなたから、いろいろなモノを貰いました。この枯れぬ花も、褪せぬ思い出も、愛も心も。口づけ一つではとても返しきれませんが、どうか、受け取ってください」

 不意にテオは瞬きをして、すると彼女の姿が消えた。今更やって来たIIIの作用が悪戯に二人を引き離し、彼女の意識をその原風景へ引き込んだのだ。なんだよ、と、取り残されたテオはひとり酩酊心地のまま、その場へ静かに腰を下ろした。

「……一つで充分、足りるんだけどなぁ」

 未だ冷めやらぬ昂揚に火照った顔に夜風が吹くと、濡れた唇が冷たかった。風と共にその景色ベネチアも去り、気付けば朧月の丘に戻っていた。テオは月明かりを反射した墓石の、柔らかな視線に気づいて、言った。

「……見ての通りだ。見守っていてくれると、嬉しい」

 生きていたらどんな顔をするかと想いを馳せて、きっと母さんなら、何も気にせず笑うだろうと思った。返事は何も聞こえなかったが、代わりに雲間が少し晴れて、穏やかな月光が祝福のように辺りを照らしていた。

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