Part.7 成人式――Animation
第45話
⁂
「ッ……」
温度のない所で目覚めることは、テオにとって初めての経験だ。
眼を開いて、そこに光がないことを知った。音も、匂いも。粘性のない空気に満たされた、天地無用の途方もない深遠だ。
誰かいないかと辺りを見渡し、ふとした拍子に瞬きをする。そして渺茫たる世界に、薄らと影を帯びた何かが現れたことに気が付いて、思わず目を凝らす。
次第に像が鮮明さを帯びてくると、それは人だった。絹のような白銀の髪と、海に似た翡翠の瞳。その瞳孔が此方を向いて目が合い、開口一番に、互いの名を呼ぶ。
「……ヴィル?」「……テオ?」
渚に波が打ち付けて引くくらいの、奇妙な間。その沈黙に雷鳴が落ちたのは、互いの視線がその身体へ向かい、一糸纏わぬ姿であることに気が付いたときのことだ。
「「――ッ!?」」
呆けが消え、完全に目を覚ました二人の身体に服が纏われる。それから冷静になって、此処へ至るまでの経緯を思い出し、状況を整理した。
事の発端は十数分前、IIIの複製に成功した博士がついに、彼女への投薬に踏み切った所まで遡る。
⁂
「――これからIIIの投与実験を行う。被験者はヴィルで、彼女の希望通り、観測者としてテオが同行する。二人にはこれから意識を接続した状態で、深層意識まで沈んでもらう」
ベッドに寝転がった二人を前に、アルカとダリス、アイリスを後見人として、博士はそう説明した。作戦終了から数日後、ダリスと共にIIIの解析を無事に終えた彼は、その複製に成功し、フェーズを最終段階に移したのだ。
「二人とも、何か言いたいことはあるかな。不安や質問はない?」
「事前に散々聞かれたからもうないよ。幸運を祈ってる」
テオはそう言って実験を早く進めようとしたが、当事者であるヴィルは少し言い淀んだのち、テオの方を見て要求した。
「……その、手を、握って貰えませんか」
あら、とアイリスが後ろの方でやけに嬉しそうにしているのが、テオからも見えた。彼はどぎまぎしながら問うた。
「どうした、急に」
「いえ。その……少し、怖いので」
遠慮気味に伸ばされた手にテオが触れる。互いに頭の向きが同じだと、握手のようにするのが難しくて難儀していると、ヴィルが手をクロスさせて指を絡めとり、恋人つなぎにした。鼓動の高鳴りが意識帯で同期されていないか、テオは内心不安に思った。そんな二人の様子を見て、博士は咳払いをして、テオのことを少し睨んだ。
「……それじゃぁ、実験開始」
⁂
内的世界の中で意識が鮮明になると、そこには心象から生まれたなにものかが生まれる。最初はテオの
ほの明るい朧月が照らす丘陵で、膝ほどの丈まで育った草花が優しく揺れる。その頂上には母親の眠る墓があり、遺骨は今も穏やかに腐敗しながら大地に還元され、ここに咲く花の養分となっている。この世界では全てが化学反応して、一つの巨大な循環を描くのだ。
テオは徐にその一輪を摘んで、墓前に供えた。跪いて合掌すると、色々な事が思い出された。
彼が死を知ったのは、彼女が死んだ時だ。それは彼に絶大な影響を与えた。自分を生み、育み、守り、知恵を授けてきた絶対なる母。幼い頃の彼にとって世界そのものだった彼女。その強さを信じていた。何があってもその笑顔は変わらず、その肉体は滅びぬのだと。
毒ガスだった。悶え苦しみ、顔中が沸き立つ水面のように腫れあがり、血の涙を流し、神経締めされた魚みたいに痙攣しながら、腐乱死体のようになって息絶えていく瞬間を見た。彼女の遺言に従って、遺体はテオが一人で預かり、火葬した。冗談のようによく燃えた。燃え尽きた遺灰を集め、燃え残った骨と共に、見晴らしのいいこの場所に埋めた。
この世に永遠も絶対もないのだという世界観が、母を失って空いてしまった彼の世界の中心を埋めた。全ては相互に反応し、時に燃えたり爛れたりしながら、最後には皆、朽ち果てるのだ。
しかし来年になって再びここを訪れたとき、遺灰を撒いた墓の周りに花が咲いていた。灰を養分に咲いたかどうかはわからない。しかし、きっとそうに違いないと思った。そうであってほしい、そうであるべきだと思った。全ては終わるが、同時にそれは始まりでもあるのだ。
それが彼の世界の法則となった。IIIは、それを外的世界にも波及させる。つまりIIIを打ったものは、諸人たちの共通認識で構築されたこの唯心論的世界を、己が法則に基づき、局所的に歪められるようになる。
それを人は、
裏を返せば、
だから博士は、この実験を最終段階と呼んだ。
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